昨晩、いつもとは違うオンライン読書会に間違えて出席してしまい
(読書会の主催者は同じだけど、読む本が違った)
うあーーーーマジかーーーー!うっかりしたーーー!!!
ってなってたのですが、知らない本に触れられるのは
とてもいい刺激となり、久しぶりに脳みそパッカーンとなっていたsachiakiです。
読んでいた本はサン=テグジュペリの「人間の大地」で
ある飛行機乗りの短編集となっているこの本の
6章「砂漠で」を読んできたのでした。
ちなみにこの本の原題は「Terre des hommes」と書くそうで
直訳すると「人間たちの地球」、東欧圏では「人々の惑星」となるそうなのに、
なぜか日本語で最初に訳した人は「人間の土地」訳し
現在出版されているものでは「人間の大地」となっているので
題も通して考えると、すごく日本人には馴染みにくい
西洋の思想がかなり入っているのだなぁと感じる次第です。
私の感想では直訳の方がシックリきました。
なぜなら、読んでみる「人間とはなにか」ということが
何度も問われていることと
「土地」とか「大地」なんて
矮小なものについて思考しているわけじゃなさそうだからです。
とはいえ、おそらくかなり6章は大事な話をしているところだったみたいで
そこに描かれていた話の延長で考えると「大地」がシックリくるかなぁ。
踏みしめることができるのは「大地」であり「土地」であるけれど
「惑星を踏みしめる」とは言わないし、
自分たちが「地球」の上にいることは間違いないけれど
それを「自分たちと接続されたもの」とは感じにくいものね。
と、ここまで書いてきてストーリーも知らないで
この感想だけ読まされても「?」だと思うので
軽くあらすじをなぞると
フランス人である飛行機乗りが自分たちに帰順していない
不帰順領地ってところに不時着をしてしまったのは砂漠の街でした。
砂漠には砂漠の信仰があり、その土地の人たちと最初はうまくやっていきます。
だけど、同じように不時着をしたフランス人の飛行機乗りが
なんとその砂漠のならず者をまとめ上げて
砂漠の民たちから略奪をするようになりました。
しかしそれに対して抵抗をする砂漠の民は
なぜか彼も信仰の対象として彼を「嵐」の一つのように崇めるようになり
憎しみと愛情の揺れ動く気持ちを持ってしまったのでした。
一方その頃、略奪をしない側のフランス人こと主人公は
その砂漠の民の中で一人の奴隷と出会うことになります。
奴隷はもとは羊飼いでちゃんと個人を識別する名前も持っていましたが、
ある日アラブ人に突然さらわれ、いきなり人身売買をされ
名前を奪われ、自由に出歩く権利も奪われて奴隷の身分に落ちたことを
主人公に話し、自分をここから連れ去って欲しいと願います。
砂漠では物事はとてもシンプルで、奴隷になった人たちは
もう昔のことは忘れて主人に恭順し、
死ぬことのない泥濘の中の幸せに身を投じているのですが
この主人公と話をする彼はそういったぬるい幸せの中に甘んじることなく
「羊飼いとしての誇り」を持ち続けているということに気づき
主人公はたくさんの人たちに寄付を募り、彼を買い取って自由にしてあげました。
奴隷という制度から解放された彼が踏みしめたもの。
それが「人間の大地」である。
こんな感じです。
私の意訳がかなり入っていると思うので、
ぜひ読んでもらって違った感想を持ってもらいたいところですが
私も他の章を読んでもう少し違った角度を補完したいと思っているところです。
積読本が増えていくよ〜〜〜〜〜〜。
で、読んでいてすごく感じたのが
主人公が当たり前のように「我思う、ゆえに我あり」と思っているっぽく
ここに西洋人のおごりというか、インテリのおごりのようなものを感じて
ウ〜ンそれで良いわけないと思うんだよな
ってなっていたのでした。
哲学の言葉で「哲学的ゾンビ」というものがありますが
おそらく無自覚にこの「哲学的ゾンビ」は「人間にあらず」と思っているところがあり、
それに対して慈悲をもつ必要がないと思っている節を感じたのですね。
そりゃ奴隷という制度がはびこっているところに
外部の人間がその習慣について「悪」だと感じても
それを挫くのはとても難しく、
救える範囲を考えた時に「人間である」「そうではない」と
自分に言い訳をして切り捨てたってことなんだと思うし、
私もなにかを切り捨てなくてはいけない時
「これは必要のないもの」と思いこんでいるだろうし
区別することを非難することはできないけれど、
その思想を立派だと思い込むのは危険だと思うわけです。
私たちはいともたやすく「誰かの自由を奪ってもいい」と思う節があります。
その理由は「恋人である」とか「家族である」とか
そんなかわいい理由のこともあれば
「あいつは悪いことをした(しそう)」であったりもして
これについては本当に意見の食い違いが大きく
この話をするだけでもその人の考える「個人をどこまで尊重しているか」が
見え隠れしたりします。
改めて問うと「人間」とはなんでしょう?
理性のあるもののことを言う?
ならばその「理性」とはなんぞや?
考えることしかできないボンクラの私は
ひたすら「人間の条件(ハンナ・アーレント)」や
「夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)」という
積読をたまに開いてはヒントを探し
モヤモヤとする次第です。
と、モヤモヤしているには時間が短すぎる。
そろそろお仕事に戻りますよ〜。
そんじゃまた!モイモイ。
(読書会の主催者は同じだけど、読む本が違った)
うあーーーーマジかーーーー!うっかりしたーーー!!!
ってなってたのですが、知らない本に触れられるのは
とてもいい刺激となり、久しぶりに脳みそパッカーンとなっていたsachiakiです。
読んでいた本はサン=テグジュペリの「人間の大地」で
ある飛行機乗りの短編集となっているこの本の
6章「砂漠で」を読んできたのでした。
ちなみにこの本の原題は「Terre des hommes」と書くそうで
直訳すると「人間たちの地球」、東欧圏では「人々の惑星」となるそうなのに、
なぜか日本語で最初に訳した人は「人間の土地」訳し
現在出版されているものでは「人間の大地」となっているので
題も通して考えると、すごく日本人には馴染みにくい
西洋の思想がかなり入っているのだなぁと感じる次第です。
私の感想では直訳の方がシックリきました。
なぜなら、読んでみる「人間とはなにか」ということが
何度も問われていることと
「土地」とか「大地」なんて
矮小なものについて思考しているわけじゃなさそうだからです。
とはいえ、おそらくかなり6章は大事な話をしているところだったみたいで
そこに描かれていた話の延長で考えると「大地」がシックリくるかなぁ。
踏みしめることができるのは「大地」であり「土地」であるけれど
「惑星を踏みしめる」とは言わないし、
自分たちが「地球」の上にいることは間違いないけれど
それを「自分たちと接続されたもの」とは感じにくいものね。
と、ここまで書いてきてストーリーも知らないで
この感想だけ読まされても「?」だと思うので
軽くあらすじをなぞると
フランス人である飛行機乗りが自分たちに帰順していない
不帰順領地ってところに不時着をしてしまったのは砂漠の街でした。
砂漠には砂漠の信仰があり、その土地の人たちと最初はうまくやっていきます。
だけど、同じように不時着をしたフランス人の飛行機乗りが
なんとその砂漠のならず者をまとめ上げて
砂漠の民たちから略奪をするようになりました。
しかしそれに対して抵抗をする砂漠の民は
なぜか彼も信仰の対象として彼を「嵐」の一つのように崇めるようになり
憎しみと愛情の揺れ動く気持ちを持ってしまったのでした。
一方その頃、略奪をしない側のフランス人こと主人公は
その砂漠の民の中で一人の奴隷と出会うことになります。
奴隷はもとは羊飼いでちゃんと個人を識別する名前も持っていましたが、
ある日アラブ人に突然さらわれ、いきなり人身売買をされ
名前を奪われ、自由に出歩く権利も奪われて奴隷の身分に落ちたことを
主人公に話し、自分をここから連れ去って欲しいと願います。
砂漠では物事はとてもシンプルで、奴隷になった人たちは
もう昔のことは忘れて主人に恭順し、
死ぬことのない泥濘の中の幸せに身を投じているのですが
この主人公と話をする彼はそういったぬるい幸せの中に甘んじることなく
「羊飼いとしての誇り」を持ち続けているということに気づき
主人公はたくさんの人たちに寄付を募り、彼を買い取って自由にしてあげました。
奴隷という制度から解放された彼が踏みしめたもの。
それが「人間の大地」である。
こんな感じです。
私の意訳がかなり入っていると思うので、
ぜひ読んでもらって違った感想を持ってもらいたいところですが
私も他の章を読んでもう少し違った角度を補完したいと思っているところです。
積読本が増えていくよ〜〜〜〜〜〜。
で、読んでいてすごく感じたのが
主人公が当たり前のように「我思う、ゆえに我あり」と思っているっぽく
ここに西洋人のおごりというか、インテリのおごりのようなものを感じて
ウ〜ンそれで良いわけないと思うんだよな
ってなっていたのでした。
哲学の言葉で「哲学的ゾンビ」というものがありますが
おそらく無自覚にこの「哲学的ゾンビ」は「人間にあらず」と思っているところがあり、
それに対して慈悲をもつ必要がないと思っている節を感じたのですね。
そりゃ奴隷という制度がはびこっているところに
外部の人間がその習慣について「悪」だと感じても
それを挫くのはとても難しく、
救える範囲を考えた時に「人間である」「そうではない」と
自分に言い訳をして切り捨てたってことなんだと思うし、
私もなにかを切り捨てなくてはいけない時
「これは必要のないもの」と思いこんでいるだろうし
区別することを非難することはできないけれど、
その思想を立派だと思い込むのは危険だと思うわけです。
私たちはいともたやすく「誰かの自由を奪ってもいい」と思う節があります。
その理由は「恋人である」とか「家族である」とか
そんなかわいい理由のこともあれば
「あいつは悪いことをした(しそう)」であったりもして
これについては本当に意見の食い違いが大きく
この話をするだけでもその人の考える「個人をどこまで尊重しているか」が
見え隠れしたりします。
改めて問うと「人間」とはなんでしょう?
理性のあるもののことを言う?
ならばその「理性」とはなんぞや?
考えることしかできないボンクラの私は
ひたすら「人間の条件(ハンナ・アーレント)」や
「夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)」という
積読をたまに開いてはヒントを探し
モヤモヤとする次第です。
と、モヤモヤしているには時間が短すぎる。
そろそろお仕事に戻りますよ〜。
そんじゃまた!モイモイ。