いわゆる「中年の危機」と呼ばれるアレ。
若い頃のように自分中心でいるわけにはいかず
子育てが落ち着いてきた人たちや
そもそも子供も伴侶もいないって人たちが
バラつきながら存在している中で
どのぐらい「社会に貢献しているか」が
可視化されるようになり、それは言い換えると
「社会にどれだけコミットできているか」
でもあって、それがうまくいっていないと
「中年の危機」と呼ばれるものにぶち当たり
孤独な大人というものになっていくのだろうな
なんてことを長々とした前置きにちゃったsachiakiです。
これを書く前には老老介護の末に妻を殺害してしまった
81歳の認知症が入り始めた夫のニュースを読み
うちも言えた義理ではないけれど、
核家族やら、三世帯で暮らす家族制度を壊した結果がこれなので
「社会にコミット」することを取り上げると
どういう結果に行き着くかってことは
どれもこれも同じだよね、
なんてことを思ったりしてました。
育児に疲れる子殺しも、
引きこもりが起こす親殺し(子殺し)も、
介護に疲れた配偶者殺しも、
どれもこれも「家族」という中に閉じ込めた結果
「家族」が機能しない、または「家族間のみ」で
社会が蓋をしたものの最終系がこれなんですよね。
「家族」という機能を破壊し、
今は試行錯誤しながら小さいコミュニティで
ゆるやかに繋がっていくことや、
大きな制度で拾い上げていく方に進む方に
梶切りしているようにも感じつつ、
しかし救わないとならない数の方が多くて
救える数が圧倒的に少ない(リソースが足りない)中で
足切りは確実に必要と迫られていることも事実で
それぞれがそれぞれに言い分を持っているだけに
どうしてもこういった事件が起こると
社会をどうしていきたいか?という話より
加害者を責める、もしくは同情することで
話を終えているような気もします。
最近思うのは、ゆるやかに繋がりながら
共生していくことも必要だけど
「社会に貢献できている」=「役に立っている」
感をどうしたら良いんだろうってことなのよね。
余剰があれば、それこそ炊き出しとかすれば
まぁまぁの貢献ができるんだろうけrど、
これも余剰があればこそって話なのよね。
余剰がなくて共生していく時に
なにを提供していくか。
例えば一週間に一度商店街のどこかで
紙芝居をするとか、歌を歌うとかでも良いのかもなぁ。
手っ取り早く夜回りの自警団と行動を共にする
とかでも良いんだろうけれど、
今度は地域とどのぐらいベッタリでいくか
みたいな問題にもなるんだよね。
しかし生きている(生活している)場所に対して
知らぬ存ぜぬでいられないのも
大人なんだから当たり前だろ?って話でもあるのよな。
と、なんか社会問題に切手かかる的な話になって
ややこしいことになりそうなのでこの辺にて。
クリスマス会の準備などしてきまーす!
そんじゃまたね!モイモイ