
学位記授与式がスタートしました。
昨年との大きな違いは、「開式の辞」に続いて、震災の被災者に対して「黙祷」したことでしょう。「学位記授与」は学部生、院生の順番で、全員、学長から手渡しで学位記が授与されました。今回、出席されたのは、全員で70名程度でした。
実際、本学を卒業したのは、22年9月卒業生30名と23年3月104名の合計134名とのことでした。院生は、博士課程前期が27名、後期が3名とのことでした。聞き間違えがなければ、修士は累計330名、博士は6名とのことです。
教職者代表として、古希を迎え、今年で定年を迎えるS先生が祝辞を述べられました。式典が終わり、同期のSゼミ生に会いにいった際、S先生に挨拶をさせていただきました。これからはNPOで活動されるとのことです。Sゼミ生がとりまとめをしていた、震災募金にも千円協力させていただきました。
式典終了後、昨年一緒に修了した同期にも再会できたし、1年遅れて修了した同期にもお祝いの言葉をかけることができた。以前、飲み会でご一緒したS先生や、H先生にもご挨拶できた。出席してよかったと思います。
学部生も、院生も、一所懸命学習したからこそ、この日を迎えることができたわけです。学長先生もおっしゃっていました。「学位記とはタダの紙切れにしか過ぎない。しかし、学習した履歴が凝縮されている」と。だから、集める価値があると私は思っています。
人間、1つのことだけ学べばいいというわけではない。それが私の考え方です。しかも、20歳代前半で学んだ学習だけで、人生最後まで持たせようというのは、ちょっと、ムリではないだろうか。確かに、仕事の中で学習することもあると思いますが、本当に、それだけで、給与を頂き続けることに抵抗感があります。
きっと、通信制大学生で学び続ける人の中には、私と同じ思想を持っている人もいるのではないかしら。定職を持っているのに、更に学ぼうというモチベーションを奮い立たせるのは何なのだろう。転職を考えている人は別として、そのまま働き続けるなら、別に、安からぬ授業料を払ってまで、学習する必要性はないだろう。
自己実現の一つの手段として、大学と言う学習のための「装置」の中で、教授等、専門の最先端の知識を持った「指導者」に教えを請う。また、共通の問題意識や目的を持った方々と知り合う「人脈形成の場」でもある。学びのための、洗練された「教材」も充実しており、独学では到達することがこんなステージまで学習することができる。
だから、私は、ある程度のコストを投下しても、大学という教育機関で学び続けたいと思っています。
最後に、ご卒業本当におめでとうございます!