なかなか大学院を6度修了した人はいないと思うのですが・・・
人生100年とすると、大学院修士課程での学びはわずか2年。にもかかわらず、大学院での学びはそれなりにレベルが高く、最終成果物を準備せねばならず、指導教官の叱咤、同期からの激励などがあり、それぞれ思い出が積み上がります。
ふと気になって、武蔵野大学大学院仏教学研究科の過去問を覗いてみました。
令和4年度 第1回
次のAまたはBのいずれかを解答しなさい。
A.大乗仏教の六波羅蜜について知るところを記し、六波羅蜜と現代日本人の道徳観を比較して800 字程度で論じなさい。
B.仏教の六道輪廻の世界観について知るところを記し、六道の苦しみから衆生を救う信仰としてどの ようなものがあるか、800字程度で論じなさい。
現状でも「うむ?」と思うような問題。即答できない自分が情けない。それ以上に、当時仏教素人の私が、この問題をどのように解答するのか?考えただけで、ホラー話の世界観があります。
結局、私にとっての大学院受験は、自分の力の有無ではなく、すべてが縁(えにし)によります。産業能率大学大学院についても、当初からMBAになりたかったわけではなく・・・いや、元々、これっぽっちも野望を持っておらず、只単に、産業能率大学の通信制大学で仲間や恩師に出合えたから。武蔵野大学大学院仏教研究科だって、仏教と縁もゆかりもないのに、これも恩師に出合い、背中を押してくださる方がいたから。
明星大学大学院だって、放送大学大学院だって、同じようなもの。わずかな縁を紡ぎ取って、少しずつ太い糸に変え、入試の直前には太い綱に変化させる。一つの特技なのかもしれませんが、こんなことは、誰でもできるちょっとした努力に過ぎません。
要は、その努力をやるかやらないか。言葉を変えると、新たな一歩を踏み出すか踏み出さないかの違い。
そんなことをついつい考えてしまう土曜日のまったりとした寒い朝。