結局、最後までインターネットで配信されている授業を視聴することはできませんでした。
しかし、「過去一番放送授業を視聴した」と断言できるほど視聴しました。というか、「数学の歴史」は択一式10問しか出題されないので、15回の授業をすべて視聴しても「出題されない授業」が存在してしまうわけでして。。。「視聴損」?
まあ、学習することに「損」とか「得」とかあるわけではないのですが、「試験」というものが存在することで「雑念」が発生します。「出題されないのに視聴した」とすれば「損した」と思うし、「ほとんど視聴していないのに視聴したところが出た」とすれば「ラッキー~!」と思ってしまったり。本当、人間って俗っぽい。
わずか2単位。普通の大学生なら卒業に必須の124単位の2単位=1/61なですが、私のように1000単位を目標にしているものにとっては1/500にしかなりません(現状887単位なので2/887ですが)。そんな、ささやかな単位が「取れた」「取れなかった」で一喜一憂するには年を取り過ぎました。取れれば取れるし、取れなければ取れない。単位とはそんな感じのもの。オール優で揃えることに意義を感じる学生さんもいるかもしれませんが、資格の道から流れてきた者は、得てして「ギリギリで合格すること」に美学を感じてしまうので、そこまで大それたことを考えたりしません。
オール優を取るのも素晴らしことかもしれませんが、時間はすべてに平等であり、すべては等価交換であることを忘れてはいけません。その科目を極め、発展させ、学士から修士、博士になるのなら極めに極めていただければ結構。しかし、それほどでもないのなら、極めるものを選択しないと人生は無意味に過ぎてしまいます。
優の評価を得るために、科目Aに必要以上のエネルギーを投下することは、本来、科目B、科目C、科目Dと可能性をたくさん試せたにもかかわらず、ギリギリの単位数の履修にとどまることを意味します。あるいは、優を多発する容易な科目を選りすぐったり、出席点だけで評価する科目を選んだり・・・得てして、オール優への呪縛は、生涯学習のプロから見れば「バカじゃないの?」と思うような愚行に走らせるわけです。
奨学金の申請のためにオール優を目指さざるを得ないこともあるでしょう。でも、結果、何かしらのチャンスを放棄していることを悟らなければなりません。何かのために自由度を失うことは、等価交換の材料を放棄していることにほかならないわけで、得るものと得られないものとの最適条件について、どこに落としどころを求めるかが、人生の選択といえるでしょう。
とはいえ、「きれいに終われるように」と挑戦を制限していくと、それなりに整った成果を得られるだろう半面、実績はそれ相応のものとなります。私の場合、資格も、学位も、「ダメでもいいから幅広く挑戦させて欲しい!」と、神に、仏に、そして家内にお願いし、チャレンジしてきたからこそ、惨めで、ズタボロの成果ですが、「結果の紙切れ」だけは日本一レベルで着地することができています。
所詮、私は挑戦者。「募集要項」や「シラバス」等を並べて、考えに考え抜いたなら、引かないのが基本スタンス。まあ、時に「戦略的撤退」もありますが、正面から戦わない限り、なんら成果は得られません。
一方、世の中の多くの方々が、引いてはいけない勝負どころで引いてしまいます。「時間がない」「金がない」「資格がない」「距離が遠い」「記憶力が落ちてきた」等々、自分勝手な理由をつけて「不戦敗」を選んでしまいます。生涯学習において、すべての条件が万全でそろうことなんてないにもかかわらず、喉につかえた魚の骨程度のポイントが気になって、せっかくのワンチャンスを見送ってしまいます。じつにもったいない・・・
さて、、、そろそろ試験に行く準備をしないと!