おはようございます。昨日は、台風の中SCに出席し、疲れたため、早々に就寝いたしました。
濃い目のコーヒーに牛乳を入れて、アクセス解析のチェックをしています。有料のサービスにして、ちょっとした時間をかけてチェックする目的は、「閲覧元URL」「検索キーワード」等を確認したいがためである。この作業により、自分のブログとリンクしてくださっているHPやブログを発見することがある。あるいは、皆さんの関心事がわかることもある。時には、某○chで晒されていることもわかる・・・
それはさておき、
閲覧元URLから面白い記事を見つけた。以下の通りです。
>芥川龍之介は、ある時、自分は、いったい一生のうちにどれくらいの本を読めるのかを計算した。
>すると、一万冊にも満たない事がわかり、非常にガックリしたそうだ。 では、ごく普通の人の場合、
>生涯の読書量はどのくらいなのだろうか?
私がどのように感じたか。きっと、お察しいただけるかと思います。最近、人間学の本を1日1冊以上読むと宣言してしまったので、読書している本の一部を取り上げていますが、取り上げた本以外にも毎日読んでおり雑誌他も合わせれば、10年で1万冊は読めてしまうでしょう。
ただ、私が言いたいのは冊数のことではない。きっと、芥川龍之介の時代、今ほど書籍も発刊されていなかっただろうし、図書館や大型古本屋もなかっただろう。ましてや、ネット関連で書籍を入手する方法もなかった。今は、本が溢れ過ぎている・・・
そう、今は幸せな時代なのです。孔子が存命していた時代、読める本は限られていました。しかも、竹簡で読むのです。孔子が生きていたということは「論語」すらないのです。それこそ、民間人は1冊の本も目にすることなく人生を終えていたわけです。
日本でも、「源氏物語」や「枕草子」等々、古典があるものの、読めたのはごく一部の貴族のみ。民間人は文字すらしらなかったわけで、普通の人が生きているうちにたとえ1冊でも読書ができるようになったのは、ここ数百年の間の出来事なのです。
それは、人類に幸せと不幸を与えました。幸せとは、文字で情報が伝わることができるようになったため、高度な社会が実現したことでしょう。小学生、中学生ですら非常に高度な知識を備えるようになった。今の中学生の総合的な能力は、数百年前なら、日本のトップレベルの文化人になれるほどです。
逆に不幸とは、昔なら「神」と崇められるような水準の知識を持っていたとしても、現代社会では「落ちこぼれ」と言われかねないということ・・・本の話ではないが、年間1冊読むだけでも、昔ならトップレベルの知識人なのに、今の社会では「まだまだ足りない・・・」と、不安に思えてしまうこと。
以上の話を踏まえて、「読書は冊数ではない」と最後に言っておきたいと思います。確かに、0冊では会話になりません。しかし、漫画や雑誌、その他低レベルな本を80年間、毎日1冊、合計約3万冊読んだ人と、人生ただ論語のみ1冊、暗記するほど読んだ人と、どちらが幸せな人生を歩めるか、私にはわからない。
ただ、その1冊を読んだだけで、人類の歴史の中では、トップ1%以内に十分はいるほどの「読書家」といえるだろう。私がたくさんの本を読み漁るのも、「珠玉の1冊」を見つけるため。その1冊を呈示いただけるなら、他の99冊はなくてもいい。とはいえ、本には「珠玉の1ページ」を持つものもある。だから、私は「飛ばし読み」ができないし、途中で投げ出すこともできない。
人によったら、漫画に感動して新しい自分を見出す人もいるだろう。今、映画でやっている「君に届け」も少女コミックが原作である。世界中で読まれているので、影響を受けている人も少なからずいるのであろう。
長々と書いてきたが、自分が感動できる本が見つかるなら、それほど本を読まなくても恐れることはない。納得できるまで、ただ、その本を読みつづけることも、自分にとっては有益なことに間違いないから。