豊臣秀吉の母を大政所と呼びます。
その大政所ですが、なんと、出生地が、この御器所ということです。
その地がこちら。
御所屋敷跡の石碑があります。
御器所八幡宮から徒歩5分ほどの場所。やはり、歩いてみると、色々発見がありますね!
実家から京田辺駅に向かう途中にあったのが伽和羅古戦場。
ここに石碑があります。
「伽和羅」は「かわら」と読むそうです。
案内板の文章は以下の通り。
『日本書紀』崇神天皇の条 武埴安彦(たけにはやすひこ)が天皇にそむいて輪韓河(わからがわ・木津川)の戦いに敗れ、軍兵は甲を脱ぎすてて逃げたが、後にその甲を脱いだところを「伽和羅」と称したと記されている。 『古事記』応神段 大山守命が宇治の近くでの戦に破れて宇治川に流され、訶和羅之前(かわらのさき・伽和羅)に来て沈んだ。鈎(かぎ)で探したところ、甲がかかり「かわら」と鳴ったという。そこでその地を「かわらのさき」と呼んだという。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』 甲作郷(かわらづくりごう)の名が見え、この付近のことと長く考えられていたが、昭和63年(1988)から行われた八幡市の正法寺文書の調査により現在の八幡市八幡付近が、甲作郷であることが判明した。この付近は、『和名類聚抄』にいう「志摩郷」の地とされる。
偶然なのですが、豊田スタジアムの南に「曽根遺跡公園」を発見しました。
縄文時代から鎌倉時代にかけての遺跡だそうです。
まず、最初に目を引くのが竪穴住居。
登呂遺跡と違って中には入れませんが、遺構から復元されたものです。
実際の遺構はこちら。
遺構と言っても、地面に穴が開いているだけなのですが・・・
縄文時代の住居跡のようです。
足助の町並みをブラブラしていると、足助陣屋跡に到着しました。
案内板はこちら。
とはいえ、中に入れないし、外から見られる範囲内では、何もないようなのですが・・・