かちどきばし(勝鬨橋)を わたっている・途中から
、
「築地市場」の大きなたてもの(建物)が 見えてきます
明治時代は、海軍のしせつ(施設)があり、
大正時代の 関東大しんさい(震災)後に、「日本橋」から
魚市場が いてん(移転)してきて、
今にいたる、つきじ(築地)
以来、せん(鮮)魚の町
として、活気にみちています
なみよけ(波除)神社の
けいだい(境内)にも あらわれる、
その しるし
(玉子塚・すし塚・アンコウ塚etc・・)
しかし
江戸時代、ここが 1万7千つぼ(坪)の しき(敷)地をもつ、
「浴恩園」
という
ていえん(庭園)だったことは、
あまり、知られていません
(築地水神社のところに、碑を残すのみ・・)
名木・名石をあつめ、春夏秋冬・美しかったという、よくおんえん
の主こそ、
今回、
クリンたちがテーマにした
松平定信でした
前の老中・田沼おきつぐ(意次)の 乱れた政治をきらい、
しっそけんやく(質素倹約)を
すすめた、定信
あまりに、ケチケチ・細かいので、
江戸っ子のひんしゅくを買い、
「 白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼恋しき
」
と
皮肉られたほどの人
なのに、
老中たいしょく(退職)後の邸宅の、
この ごうか(豪華)さは
なに・・・?
定信は 晩年、
自分をうとんだ・上様や、
自分をはめた・仲間たちからはなれ、
風流三昧に生きて
「楽翁」を 名のりました
みずから、
マネージメントして つくりあげたという
ていえん(庭園)は、
「俺はただの堅物・クソまじめじゃないんだ
」と言いたい、
おとのさまとしての
定信の
いじ(意地)なのかなあ・・
って、
クリンたち、話しました (つづく)