しんぶん(新聞)人・ブラック一家がねむる、山手外国人ぼち(墓地)
その一角に、
大きなヒマラヤ杉のたつ場所が あります
そこに ねむるのは、「J・H・ブルーク」
ブラックが発行していた、
「ジャパン=ガゼット」の ライバル紙、
「ジャパン=ヘラルド」の
けいえい(経営)者です。
この、ブルーク
という人に、娘がいたのですが
、
彼女が
「居留地のアイドルだった」
という
よみものがあり、
なかなか ステキな話だったので、
ちょっと 引用してみたいと
思います。
<鳥居民・著「横浜山手~日本にあった外国」
より>
「ガーディの出現で
居留地の小さなコミュニティに さざ波が立った。
フランネルのシャツに ブカブカの長靴をはいたような男は
はじめから失格だったが、
高いカラーをつけ、光沢のある皮の手袋をはめ、
ピカピカに磨いたエナメル靴をはいた
若い商店主やグリフィンたちは
色めきたった。
ガーディは、オーストラリア産のすばらしい馬を 連れて来ていた。
彼女が遠乗りに出かけようとすると、
彼女に気のある男たちが
こぞって エスコートを買って出た。
ところが 男たちが乗ったのは、
足の遅い小さな日本産か、中国産の馬だった。
体重の重い男は 彼女についていけず、
彼女がスピードをあげると、
白い乗馬ズボンの男たちは、すべてはるかうしろに 引き離されるのだった。
彼女の父親は 横浜で商売をやるつもりだったが、
古巣の新聞業界に戻り、
『ジャパン・ヘラルド』を 経営することになった。
娘のガーディが いつごろまで横浜にいたのかは知らない。
居留地の青年と結婚したのだろうが、
その相手も知らない。
分かっているのは、光る頭、わずかな髪の毛を 頭になでつけた男たちが、
ユナイテッド・クラブで昔話に ふけるとき、
よく 彼女の話をしたことである。
老人たちは、彼女と遠乗りをした思い出を語りあった。
そしてかれらは、
肩をあらわにした長い引き裾のピンクのサテンのドレスを着た彼女が、
はじめて舞踏会に現れた夜のことを 思い出して、
だれもが若く、
横浜もまた若かった遠い昔の追憶に
ひたるのだった。 」
(つづく)