93年作品。時代は昭和15年の夏。鹿児島の豪商の息子である主人公の少年・窪田操は父の事業の失敗のあおりを受けて、母とは生き別れ、預けられた親類の家でもつらい目に会う。夜逃げした父親と再会したのもつかの間、バクチに負けた父のせいで住まいを点々とするハメに。操はさらに過酷な生活を強いられることになるが・・・・。実業家・窪田操の自伝的小説「ぼっけもん」の映画化で、監督は「旅の重さ」(72年)「津軽じょんがら節」(73年)などの斎藤耕一。
とにかく、主人公が遭遇する不幸の釣瓶打ちには圧倒されてしまう。父には見捨てられ、盲目の母は家族と別れた挙げ句早死にし、姉(細川直美)は芸者としてたたき売られ、弟は飢え死に、妹はしらない間に里子に出される。叔母(可愛かずみ)をはじめとする親戚連中の情け容赦ないイジメと中傷、やがて全国を放浪する主人公は盗みをはたらいて官憲にも追われ、オマケに片思いの少女(喜多島舞)には完全にフラれてしまう。
この一点の救いもない不幸の洪水は、主人公に同情するとかいう次元をはるかに超えて、一種のスペクタクルと言えるんじゃないだろうか。
それにしても人間の本性を暴き出すかのようなシビアーな演出はまさに確信犯。冒頭、父の店で実直そうに働いていた使用人たちは、経営が行き詰まったと見るや、店の物を勝手に持ち出し、にわか強盗に変身。苦労して探し出した姉はすっかり水商売が板についてきて、主人公を邪魔者扱い。特に一見優しそうで後に残忍な面を見せる親類の描写など、“ここまでやるかぁ”と言いたくなるような徹底ぶり。これがすべて実話だというのもすごい(こんな境遇から身を起こし、ひとかどの実業家として成功したという原作者のパワーは恐るべきものがある)。しかしまあそんな描写が違和感なく見られるのは、作者の確固とした人間観察の賜物であろう。このへんが凡百のシャシンとは全く異なる。
そして、主人公はちゃんと人間性豊かなキャラクターとして設定してある。演じる秋月健太郎は映画初出演だったが、ナイーブな好演。母(竹下景子)の優しさが印象的。そして圧巻は父を演じる田中健である。バチあたりの道楽者には違いないが、どこか憎めぬ魅力を持ち、息子をないがしろにしていると思わせて実は一番主人公のことを思っている。このピカレスク的魅力は日本映画ではめったにお目にかかれないキャラクターで、彼を見るだけでこの映画を観る価値はあろうというものだ。
一見“文科省特選”みたいな雰囲気のタイトルを持つこの映画、なかなかあなどれない。山崎義弘のカメラによる映像も美しい。
とにかく、主人公が遭遇する不幸の釣瓶打ちには圧倒されてしまう。父には見捨てられ、盲目の母は家族と別れた挙げ句早死にし、姉(細川直美)は芸者としてたたき売られ、弟は飢え死に、妹はしらない間に里子に出される。叔母(可愛かずみ)をはじめとする親戚連中の情け容赦ないイジメと中傷、やがて全国を放浪する主人公は盗みをはたらいて官憲にも追われ、オマケに片思いの少女(喜多島舞)には完全にフラれてしまう。
この一点の救いもない不幸の洪水は、主人公に同情するとかいう次元をはるかに超えて、一種のスペクタクルと言えるんじゃないだろうか。
それにしても人間の本性を暴き出すかのようなシビアーな演出はまさに確信犯。冒頭、父の店で実直そうに働いていた使用人たちは、経営が行き詰まったと見るや、店の物を勝手に持ち出し、にわか強盗に変身。苦労して探し出した姉はすっかり水商売が板についてきて、主人公を邪魔者扱い。特に一見優しそうで後に残忍な面を見せる親類の描写など、“ここまでやるかぁ”と言いたくなるような徹底ぶり。これがすべて実話だというのもすごい(こんな境遇から身を起こし、ひとかどの実業家として成功したという原作者のパワーは恐るべきものがある)。しかしまあそんな描写が違和感なく見られるのは、作者の確固とした人間観察の賜物であろう。このへんが凡百のシャシンとは全く異なる。
そして、主人公はちゃんと人間性豊かなキャラクターとして設定してある。演じる秋月健太郎は映画初出演だったが、ナイーブな好演。母(竹下景子)の優しさが印象的。そして圧巻は父を演じる田中健である。バチあたりの道楽者には違いないが、どこか憎めぬ魅力を持ち、息子をないがしろにしていると思わせて実は一番主人公のことを思っている。このピカレスク的魅力は日本映画ではめったにお目にかかれないキャラクターで、彼を見るだけでこの映画を観る価値はあろうというものだ。
一見“文科省特選”みたいな雰囲気のタイトルを持つこの映画、なかなかあなどれない。山崎義弘のカメラによる映像も美しい。


