97年作品。都内の高校に通う遠山杏(広末涼子)は、ある日清洲橋の上でビデオカメラを持った転校生の片岡徹(圓島努)に声をかけられる。彼は“自称宇宙人”で、地球人の滅亡時からタイムトラベルで現在に調査のためやってきたのだという。さらに彼は自分の身体に宿った宇宙人が分裂しかかっているので、杏の身体を貸してほしいと申し出る。初めはあっけにとられる杏だが、徹の飄々とした雰囲気に心を動かされていく。「百代の過客」などで知られるドキュメンタリー作家、原将人が初めて撮った商業用映画である。
何でも公開当時は一部で高い評価を得たらしいが、ハッキリ言って私はどこがいいのかわからない。要するに、破滅願望(?)を持った少年がガールフレンドとの出会いで前向きに生きるようになりましたという、陳腐きわまりない話を奇をてらった映像で安易に仕上げただけ。テーマが陳腐でも演出力とアイデアで観客をねじ伏せることは十分可能なのだが、ここにはそういう意志も努力も見つけられない。演技未熟なキャストが扮する高校生カップルがじゃれ合っているだけの、ママゴトみたいな映画以前のシロモノだと断定したい。
なぜかミュージカル仕立てになっているのだが、広末のド下手な歌が素人臭い映像をバックに繰り広げられるのは茶番以外の何物でもない。
百歩譲って“地球は破滅する”という少年の妄言を何か意味のあるように映画に刻みつけようとするならば、たとえば少年がビデオで撮る東京の風景をそれらしい“世紀末的デカダン映像”にするとかいった工夫がなければいけないのに、すべてがフツーの画面なのには呆れはてた。
“年若い観客にはわかる”という評論もあったようだが、こんな技巧的にも内容的にも貧困な作品はマトモなティーンエイジャーもパスするはず。それを“若者なら受け付けるはず”とあらずもがなの評価を下している評論家は、若者を馬鹿にしている。
そして一番気になるのが、二人はずっと(お互いそばにいるにもかかわらず)ビデオカメラのファインダーを覗いたままであり、ビデオ画面を通じてしか会話しない。対してビデオカメラなしの場面では互いに顔を合わせることは少ない。つまりはオンラインのみでしかコミュニケーションができず、オフラインでは会話もできないどうしようもない連中ではないのか? こんなオタクな連中の話なんぞどうでもいいや、と思っていたら、某映画祭にゲストで来ていた原監督は、寝るとき以外は16ミリカメラを手放さないという筋金入りのオタクだった(>_<)。
オタクな奴がオタクな思い入れでオタクに撮っただけの、私にはカンケーない、本当につまらん映画だ。広末のファン(今はあまりいないだろうけど ^^;)以外は観る価値はないね。
何でも公開当時は一部で高い評価を得たらしいが、ハッキリ言って私はどこがいいのかわからない。要するに、破滅願望(?)を持った少年がガールフレンドとの出会いで前向きに生きるようになりましたという、陳腐きわまりない話を奇をてらった映像で安易に仕上げただけ。テーマが陳腐でも演出力とアイデアで観客をねじ伏せることは十分可能なのだが、ここにはそういう意志も努力も見つけられない。演技未熟なキャストが扮する高校生カップルがじゃれ合っているだけの、ママゴトみたいな映画以前のシロモノだと断定したい。
なぜかミュージカル仕立てになっているのだが、広末のド下手な歌が素人臭い映像をバックに繰り広げられるのは茶番以外の何物でもない。
百歩譲って“地球は破滅する”という少年の妄言を何か意味のあるように映画に刻みつけようとするならば、たとえば少年がビデオで撮る東京の風景をそれらしい“世紀末的デカダン映像”にするとかいった工夫がなければいけないのに、すべてがフツーの画面なのには呆れはてた。
“年若い観客にはわかる”という評論もあったようだが、こんな技巧的にも内容的にも貧困な作品はマトモなティーンエイジャーもパスするはず。それを“若者なら受け付けるはず”とあらずもがなの評価を下している評論家は、若者を馬鹿にしている。
そして一番気になるのが、二人はずっと(お互いそばにいるにもかかわらず)ビデオカメラのファインダーを覗いたままであり、ビデオ画面を通じてしか会話しない。対してビデオカメラなしの場面では互いに顔を合わせることは少ない。つまりはオンラインのみでしかコミュニケーションができず、オフラインでは会話もできないどうしようもない連中ではないのか? こんなオタクな連中の話なんぞどうでもいいや、と思っていたら、某映画祭にゲストで来ていた原監督は、寝るとき以外は16ミリカメラを手放さないという筋金入りのオタクだった(>_<)。
オタクな奴がオタクな思い入れでオタクに撮っただけの、私にはカンケーない、本当につまらん映画だ。広末のファン(今はあまりいないだろうけど ^^;)以外は観る価値はないね。