黒々と見えるほどに葉の繁った桜並木の足元で
アジサイがひっそり色づきはじめている。
隣町の田んぼはようやく田植えがすんだところ。
ここは5月の連休まで観光用のお花畑になっているため、
それが終わってから農作業となり、田植えも一番遅い。
気温も上がり、湿度もじゅうぶんすぎるほどで、
いまなら遅く植えても早く育つだろう。
小さい苗が心もとなげに揺れている田んぼから、
車の通る道を隔てて川がある。
水面に何か所か張り渡されたしめ縄のような紐に
白い短冊状のものがひらひらしているのが見える。
何かの神事がとりおこなわれたらしい。が、
もしかしたら、鮎釣りが解禁になったばかりだから、
このあたりの鷺に鮎をとられないための対策かもしれない。
きちんと並ぶ苗のみどりと、空をうつす水のひろがりと、
そのあちこちに降り立っている純白の鷺とのとりあわせが、
あらためて見ると何やら古式ゆかしい儀式めいている。
途切れることなくまわりつづけている四季の中に、
種まきから刈り入れに至るいくつかの重要な節目があり、
そのつど祈ったり、占ったり、祝ったりの儀式があったのだろう。
実ったあとは枯れる一年草であることは小麦も同じだが、
稲はあきらかに湿地の植物なのだということ、
そしてこの国の民族の歴史も文化もすべて
この湿り気あってこそつくられたものだということを、
特に実感するのが田植えの時期だ。
酸素やら二酸化炭素やらに混じって、大気中には
ありとあらゆる草木のエッセンスが溶け込み、
これは何と判別できない花の香が底に重く沈んで
濃厚な特製スープのようになっており、
ヒトは浅く少しずつしか呼吸ができない。
そこらじゅうあふれんばかりの旺盛な生命力に
ぐんぐん押されて負けそうになる。
太古の昔に水から陸に這い上がってきた生物の記憶が
見え隠れするような水無月の空気。
島崎藤村が明治42年に発表した紀行文「伊豆の旅」を読むと、
当時のこのあたりの山村は養蚕が盛んだったらしい。
いまでもあちこちに自生する桑の木はおそらくその名残だ。
明治から戦前まで、ほとんど変わらなかったのではないかと思う。
藤村と友人たちは、大仁で汽車を降り、修善寺まで歩く。
そこから馬車を乗り継ぎ、湯ヶ島、湯ヶ野、下田と
3日がかりで南下している。
下田からは、さらに徒歩で最南端の灯台を見物に行ったりする。
バスもタクシーもない時代だから当然とはいえ、
昔の人はよく歩いたものだ。
そもそも旅行なんて誰でも気軽にできることではなかったのだ。
どこで何をした何を食ったと、子どもの作文のように
ただ書きつらねただけでも、読者は喜んで読んだだろう。
良い時代である。