閑猫堂

hima-neko-dou ときどきのお知らせと猫の話など

本日のコマちゃん

2017-12-21 23:52:46 | 日々

どんな役者も動物と子どもには勝てないというけれど、動物で子どもだからこれはもう最強だ。
他に書きたいことはいろいろあるのだけれど、すべてコイツに食われてしまって、言葉化するところまで行き着かない。

コマのしっぽは長いです。
端から3目盛り(?)くらいは余ってる気がする。
(ここの部分を、クレは、小さいときになくしちゃったんだよね)
興奮したときなど、猫のしっぽはブラシのように「ぼわっ!」とふくらむけれど、コマのしっぽは根元のほうだけふくらみ、先っぽまで行き渡らないので、三角の旗を立てたようになる。
おでこには王冠マークのスタンプ、ぽん。

手のかからない良い子ではあるけれど、それでも事件は起こる。
先日、ピンポン球をお風呂場に追い詰めたあげく、排水口に落としてしまった。
排水口は直径6センチくらいで、まっすぐ60センチ以上の深さがあり、そこから真横に曲がっている。オレンジ色のピン球は底に見えるけど届かない。
Mが細くて長い角材2本をお箸のように使って、なんとか無事につまみ出してくれた。
やれやれ、と思ったら、排水口にのっているはずのスノコ状のふたが見あたらない。探したら、なあんと、ふたも60センチの底に落ちてるじゃないの。
このふたは、だいぶ前から一部欠けていて、それでも全然落ちそうには見えなかったんだけど、おそらくコマ吉が爪でカチャカチャしたはずみに傾いて、知恵の輪みたいに微妙な角度でストッと入ってしまったんだと思う。
ふたは金属で重さもあり、つまもうとしてもひっかかって取れないし、下手をして奥で詰まったら大ごとだから、気が気でない。角材と針金を使ってひっかけ、やっと釣り上げることに成功した。
クレーンゲームどころじゃないスリル満点。
それにしても、どうしてこんなややこしいことができちゃうのかね、コマ吉は。
新しいふた、急いで買ってきました。

コマちん! 目あけたまま寝るのやめてほしい!

 

きなこおばちゃん大好き~。

宮沢賢治の「猫の事務所」の四番書記の「かま猫」は、寒がりでかまどの中に入って寝る癖があるので、いつも煤で汚れている。
(わたしは、いわゆる「サビ」という毛色をそう呼ぶのかと思っていたが、あらためて読んでみたら違っていた。この話、猫は出てくるけど、可哀想なのであまり好きではない。宮沢賢治って猫に好かれるタイプの人ではないと思う)
かま猫が寒がりなのは、土用に生まれて皮が薄いから…だそうで、コマ吉も土用生まれなのか、皮が薄い。
というか、まだ子猫だから薄いのね。
ストーブを焚く準備をしていると、そばに来てちょこんとすわって、いまかいまかと着火を待っている。
昔だったら「かま猫」候補だな。
昼間は2階のひなたに来て、それでも寒いときは、さんちゃんか、きなちゃんにくっついて寝ている。
きななにも、小さい湯たんぽのお友だちができて、よかったと思う。

 

 

 

おみやげ。サンタと雪だるまのクリームパン。

 

本日の「いいね!」…と簡単には言わないけど…


“マイルド化する絵本”への警鐘 過激表現から“逃げない”編集者の想いとは?

わたしは人一倍怖がりで心配性の子どもだったから、本は大好きだったけれど、怖い本は大嫌いだった。
怖いものや気持ち悪いものって、一度見ただけで頭に焼きついてしまい、いつまでもいつまでも忘れることができないからほんとにイヤだ。
小学校低学年で読んだある本(けっして怪談の類ではない、動物もの)がすごく怖くて、大人になるまでずーっとトラウマになっていた。
だから、わたしは小さい子どもが手にする本を書くとき、自分がかつて怖かったことや不安だったようなことは絶対書かない。
大丈夫だよ、心配しなくてもいいんだよ…って、たぶん、子ども時代の自分に言い続けているんだと思う。
この世には、楽しいことや、おいしいものや、きれいなものがたくさんあり、びっくりするような不思議なこともたまにはあり、山もあり谷もあるけど、全体的に見ればいいことのほうが多く、生きててよかったと思えるときが必ずある。
だから、安心して大きくなっていいんだよ。
先に生まれた者として、あとから来る子にそう言ってあげるために、わたしは子どもの本を書いてるんだと思う。

と、それとは別にですね。
グリムでも日本昔話でも「ほんとうは残酷」という人がよくいるけれど、決してそうではないとわたしは思っている。
だいたい小学校のうちに「マイルド」じゃない大人の本(グリムの初版の完訳とか、未来社から出ていた地域別の「日本の民話」シリーズとか)をこっそり読破していたから、よく知っているのです。
残酷残酷と騒ぐ人たちは、昔話の表面しか見ていない。
怖いものや悪い敵を、はっきり区別し、徹底的にやっつけ、二度とよみがえらないようにしてくれるからこそ、子どもは安心してぐっすり眠れる。
親から子へ、子から孫へ、何代にもわたって語り伝えられてきたのも、基本にゆるぎない「安心」があり、「安心」を求める切実な願いがあり、時代を超えて同じ地盤でつながっているからだ。
教訓だとか、昔の人の生活を知るとかいうのは、あと付けのおまけにすぎない。
話は「おもしろいから」聴くもの、聴きたがるから語るもの。
はらはら、どきどきしつつも、最後は「おもしろかった!」と満足し、もう一回、もう一回と繰り返し見たがり、聴きたがる…そうでなければ「ほんものの昔話」とはいえない。と思いますよ。

 

コメント
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