風は冷たいけれど光は明るい。
べつに何でもありません。ただの小石。
歩くときは、空を見ていることもあるし、まわりを見ていることもあるし、地面を見ていることもある。
都会だと、必要なものや見るべきものはたいてい「人の目の高さ」に集中しているから、上や下はあまり気にしなくていいかもしれない。
野山の舗装されていない場所を歩くときは、気をつけないとつまずいたり、すべったり、穴にはまったりするので、どうしても足元に目をやることが多くなる。
下を向いて歩いていたら、小石が目についた。
石は無数にあるけれど、他の石はたいてい角ばってごつごつしているのに、これだけがつるりと丸く、周囲の石とは色もまったく違って、不思議な感じがする。
いったいどこから来たのだろう。
河原や海岸なら丸い石は珍しくないけれど、こんな山の中で一生を過ごしても、石って自然に丸くなるものだろうか。
こんなの拾っていたらきりがないと思ったが、形も色もなんとなく可愛らしいので捨てがたく、そのままポケットに入れた。
うちの子どもが、鉱物コレクションに熱中した一時期があった。小学校の低学年だったと思う。
きれいな石や珍しいと思った石を見つけては拾ってきて、机のひきだしにしまいこんでいた。
宝石でも希少鉱物でもないけれど、ひとつひとつに子どもの心をひきつけた理由があり、見ればなるほどと思える。
必然と偶然から生まれた時間の造形。人造物にはない美しさとバランス、太古の昔から変わらない天然の秩序だ。
入学を機に買った勉強机だったけれど、石がいっぱいで勉強道具の入る余地はなく、やがて重さでひきだしがゆがみ、開かなくなってしまった。
そうなる頃にはさすがに本人も持て余し始めていたようで、コレクションを「野に帰す」ことを提案すると、わりとすんなり納得した。
石ころは、地面に置くと、しばらくは置かれたままそこにいるが、雨が降ったり風が吹いたりするうちに、いつのまにか埋もれて所在がわからなくなっていく。
見えなくなっても、消滅するわけではなく、遠くへも行かないから、そのへんにあることは確かで、ひきだしに入れっぱなしの状態とそんなに変わらない。
いまでも庭の花壇を掘り返すと、思いがけずきれいな石がひょっこり出てきたりすることがある。
おや、と拾い上げ、水で洗って、見やすい場所に置き直す。
花壇の縁には、いつも10個くらいそんな石が並んでいて、あらたに拾ってきた小石も仲間に入った。
だけど、きっとまた何かのはずみでころがったり落ちたりして埋もれ、また何年も何年もたってからひょっこり出てくるのだろう。
「あるべき姿」って、そういうのかもしれない。
本日のコマ吉。
子猫は小さくても…
あくびは大きいぞ。
本日の「いいね!」
「お江戸日本橋」の歌によれば、日本橋を「七つ発ち」して、高輪で夜が明けている。
日本橋~高輪の正確な距離がわからないけれど、ここをだいたい2時間で歩くということですね。
「行列そろえてアレワイサノサ」って、実際は踊ってるわけではなく、黙々と、ざくざくと歩いて行ったのでしょう。
小田原まではたいして高低差はなさそうだし…昔だから「信号待ち」もないし。
もうひとつ…こちらはメモ。
木の枝の太さって、昼と夜では夜のほうが太いんだそうです。
日本語版出ないかなー、これ。
↓
The Songs of Trees: Stories from Nature's Great Connectors | |
David George Haskell | |
Viking 2017 |