今回は、五榜の掲示第四札『万国公法尊守』です。
47㎝x116㎝、厚 3.0㎝。重 7.4㎏。明治初期(4年11月以降)。(故玩館高札No.11)
非常に大きくて重い高札です。故玩館所蔵の高札の中で最大です。屋根の付いた駒形です。吊り金具や裏木補強はありません。
覚
今般
王政御一新ニ付
朝廷之御條理ヲ追ヒ外國御交際之儀
被 仰出、諸事於
朝廷直チニ御取扱被為成、萬國之公法ヲ以
條約御履行被為 在候ニ付テハ、全國之人民
叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被
仰付候、自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ
或ハ不心得ノ所業等致シ候者ハ
朝命ニ悖リ、御國難ヲ醸成シ候而已ナラス
一旦御交際被 仰出候各國ニ對シ
皇國之御威信茂不相立次第甚以不届
至極之儀ニ付、其罪之軽重ニ随ヒ士列之
者ト雖モ削士籍到當之典刑ニ
被処候条銘々奉
猥リニ暴行之所業無之様被 仰出候事
三月 太政官
右之通被 仰出條
可得其意もの也
岐阜縣
(裏面) 大野郡更地村 (現、岐阜県本巣町更地)
(読み下し)
今般、王政御一新につき、朝廷の御条理を追い、外国御交際の儀、仰せい出され、諸事において、朝廷ただちに御取扱いなされ、万国の公法を以って、条約御履行あらせられ候につきては、全国の人民叡智を奉戴し、心得違いこれ無き様仰せつけられ候。 自今、以後猥りに外国人を殺害し、或は不心得の所業等致し候者は、朝命に悖り、御国難を醸成し候のみならす、一旦御交際御仰せい出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たぬ次第、はなはだもって不届き至極の儀につき、其の罪の軽重に随い、士列の者といえども削士籍到当の典刑に処され候条、銘々奉り、猥りに暴行の所業これ無き様仰せい出され候事
三月 太政官
右の通り、仰せい出され候條、其の意得るべきもの也
岐阜縣
(意訳)
覚
この度、王政御一新となったからには、朝廷の御道筋に従い、外国と交際していくことと相成った。 朝廷は、直ちに、諸々の事柄を処理なされ、万国公法に従い条約を履行なされるので、全国の人民は、天子の御意向を謹んで奉り、心得違いの無いよう心得よ。 これからは、みだりに外国人を殺害したり、悪行をなした者は、朝命に背き、国に災難をもたらすこととなる。 一度、御交際を仰せ出された各国に対して、皇国の御威信も崩れることとなり、はなはだ不届き至極であるので、その罪の軽重により、士族の者であっても、士籍削除の刑に処せられる事を、銘々心得おき、みだりに暴行の所業をなさぬよう心得よ。
三月 太政官
右の朝命の趣意をよくわきまえておくように。
岐阜県
この高札は、これまで紹介した「定札」と異なり「覚札」です。 恒久掲示ではなく、一時的な公示で、変更の可能性がある札です。
五榜の掲示そのものの発布者は太政官で慶応四年三月に公布されたものですが、今回の高札は岐阜県が第2発給主体となっています。ですから、「慶応四年三月」の表記ではありますが、明治4年11月、廃藩置県により岐阜県が発足した以降に作成された物であることがわかります。また、この高札は真新しく、ほとんど外部に掲示された形跡がありません。高札場に掲示されず、どこかに、ずっとしまわれていた物かもしれません。
この高札の掲示場所、更地村は、揖斐川の支流、根尾川筋にあった村で、故玩館から数㎞北に位置します。当時、この村は尾張藩領、もしくは大垣藩領でした。いずれも比較的早く新政府側に属した藩です。したがって、新政府側の通達がすぐに届いて、五榜の掲示の高札が比較的早期に作られたと想像されるのですが、実際は、明治4年11月以降であったのです。また逆に、先回のブログでみたように、改訂された切支丹禁止札ではなく、五榜の掲示が出された慶応四年三月当初の条文の「切支丹禁制高札」が、新政府に距離を置く所で見つかっています。
五榜の掲示の謎は深まるばかりです。