遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

五榜の掲示第四札『万国公法尊守』

2023年05月10日 | 高札

今回は、五榜の掲示第四札『万国公法尊守』です。

47㎝x116㎝、厚 3.0㎝。重 7.4㎏。明治初期(4年11月以降)。(故玩館高札No.11)

非常に大きくて重い高札です。故玩館所蔵の高札の中で最大です。屋根の付いた駒形です。吊り金具や裏木補強はありません。

   
今般
王政御一新ニ付
朝廷之御條理ヲ追ヒ外國御交際之儀
被 仰出、諸事於
朝廷直チニ御取扱被為成、萬國之公法ヲ以
條約御履行被為 在候ニ付テハ、全國之人民
叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被
仰付候、自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ
或ハ不心得ノ所業等致シ候者ハ
朝命ニ悖リ、御國難ヲ醸成シ候而已ナラス
一旦御交際被 仰出候各國ニ對シ
皇國之御威信茂不相立次第甚以不届
至極之儀ニ付、其罪之軽重ニ随ヒ士列之
者ト雖モ削士籍到當之典刑ニ
被処候条銘々奉
猥リニ暴行之所業無之様被 仰出候事
  三月  太政官
右之通被 仰出條
可得其意もの也
岐阜縣

(裏面) 大野郡更地村 (現、岐阜県本巣町更地)

 

(読み下し)

今般、王政御一新につき、朝廷の御条理を追い、外国御交際の儀、仰せい出され、諸事において、朝廷ただちに御取扱いなされ、万国の公法を以って、条約御履行あらせられ候につきては、全国の人民叡智を奉戴し、心得違いこれ無き様仰せつけられ候。 自今、以後猥りに外国人を殺害し、或は不心得の所業等致し候者は、朝命に悖り、御国難を醸成し候のみならす、一旦御交際御仰せい出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たぬ次第、はなはだもって不届き至極の儀につき、其の罪の軽重に随い、士列の者といえども削士籍到当の典刑に処され候条、銘々奉り、猥りに暴行の所業これ無き様仰せい出され候事
  三月  太政官
右の通り、仰せい出され候條、其の意得るべきもの也
岐阜縣

(意訳)


この度、王政御一新となったからには、朝廷の御道筋に従い、外国と交際していくことと相成った。 朝廷は、直ちに、諸々の事柄を処理なされ、万国公法に従い条約を履行なされるので、全国の人民は、天子の御意向を謹んで奉り、心得違いの無いよう心得よ。 これからは、みだりに外国人を殺害したり、悪行をなした者は、朝命に背き、国に災難をもたらすこととなる。 一度、御交際を仰せ出された各国に対して、皇国の御威信も崩れることとなり、はなはだ不届き至極であるので、その罪の軽重により、士族の者であっても、士籍削除の刑に処せられる事を、銘々心得おき、みだりに暴行の所業をなさぬよう心得よ。
  三月  太政官
右の朝命の趣意をよくわきまえておくように。
岐阜県

この高札は、これまで紹介した「定札」と異なり「覚札」です。 恒久掲示ではなく、一時的な公示で、変更の可能性がある札です。

五榜の掲示そのものの発布者は太政官で慶応四年三月に公布されたものですが、今回の高札は岐阜県が第2発給主体となっています。ですから、「慶応四年三月」の表記ではありますが、明治4年11月、廃藩置県により岐阜県が発足した以降に作成された物であることがわかります。また、この高札は真新しく、ほとんど外部に掲示された形跡がありません。高札場に掲示されず、どこかに、ずっとしまわれていた物かもしれません。

この高札の掲示場所、更地村は、揖斐川の支流、根尾川筋にあった村で、故玩館から数㎞北に位置します。当時、この村は尾張藩領、もしくは大垣藩領でした。いずれも比較的早く新政府側に属した藩です。したがって、新政府側の通達がすぐに届いて、五榜の掲示の高札が比較的早期に作られたと想像されるのですが、実際は、明治4年11月以降であったのです。また逆に、先回のブログでみたように、改訂された切支丹禁止札ではなく、五榜の掲示が出された慶応四年三月当初の条文の「切支丹禁制高札」が、新政府に距離を置く所で見つかっています。

五榜の掲示の謎は深まるばかりです。       

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珍品!五榜の掲示第ニ、第三札、合せ高札

2023年05月08日 | 高札

先のブログで、五榜の掲示第三札『切支丹禁制』を紹介しました。このキリシタン禁止札は、すぐに条文が変更されました。そして、先回のブログで、この変更は、新政府の公文書改竄ともいえるものであることを述べました。

先に紹介した五榜の掲示第三札『切支丹禁制』も、変更された条文の高札です。

そして、現在、各地に残されている五榜の掲示第三札『切支丹禁制』は、そのほとんどがこの高札と同じ、変更後の物です。

では、オリジナルの第三札『切支丹禁制』高札は存在しないのでしょうか。その謎を解く鍵が、今回の品です。

37㎝x79㎝、厚 3.0㎝。重 4.8㎏。慶応四年三月。(故玩館、高札No.10)

非常に大きく、重い高札です。四角形で、屋根、吊り金具、裏木はありません。

(第2札)
     

 何事によら寿よ路しからざる
 事に大勢申合候をととう登と
 なへととうして志いて祢がひ事
 く王だ法る越古うそといひあるひハ
 申合せ居町居村を立のき候をてう
 さんと申す堅く御法度たり若
 右類之儀これあらバ早々其筋の
 役所江申出遍し御ほうび下
 さる遍く事

  慶応四辰年三月  太政官   

(第3札)
     定 

 き里したん邪宗門之儀者堅
 御制禁たり若不審なるもの
 有之バ其筋之役所江申出べし
 御ほうび下さるべく事

  慶応辰四年三月 太政官

 (裏面)   弓懸村
                 (現、岐阜県下呂市弓懸)


 (意訳)    

    定
  何事によらず、良くない事を企み
  大勢が申し合わせることを徒党と言い、
  徒党して、強引に願い事を企てることを
  強訴という。また、示し合わせて
  居町居村を脱走することを逃散といい、
  これらはいずれも厳禁である。
  右の類のことがあれ、すぐさま
  関係する役所に通報せよ。
 ご褒美を下さるだろう。
  慶応四辰年三月 太政官


      定

  キリスト邪教は堅く禁止されている。  もし、怪しい者を見つけたら、その筋 の役所に届け出よ。
  ご褒美を下さるであろう。
   慶応四年三月 太政官

 

今回の高札は、非常に珍しい物です。その理由は二つ。

1.この高札は、五榜の掲示の第2札と第3札が合体した物です。第2,第3札を一枚の板に書き記していますが、五傍の掲示とは、五枚の制札のことですから、この高札は、本来の趣旨に反しています。 

2.以前のブログに書いたように、新政府は、公布からわずか50日ほどで、「切支丹邪宗門禁制」を「切支丹禁制」と「邪宗門禁制」とに分け、さらに密告報償についても削除して、諸外国からの批判をかわそうとしました。現存するほとんどの第三高札は、この慶応4年閏4月4日に改訂された条文の切支丹禁止札です。ところが、今回の品は、慶応4年3月15日に出された五榜の掲示のままです。

どうして今我々が目にするのは、慶応四年閏三月付けの五榜の掲示第三札「切支丹禁止高札」ではなく、慶応四年閏四月に改訂された条文の高札がほとんどなのでしょうか。

その大きな理由は、五榜の掲示の布告が、各地にすぐには伝わらず、高札板が作成される前に、改訂の布告が届いたからだと考えられます。もし、すぐに五枚の高札が作られて掲示され、さらにその後、「切支丹禁制札」だけ改訂された文面の物に替えられたとすれば、最初の「切支丹禁制札」は用済みとなり、巷に散って、我々が目にする機会が多くなったはずです。

新政府の通達がすぐに各地に伝わらなかったのは、情報伝達の方法と当時の戦況にあります。江戸幕府に代わって権力を掌握しつつあった新政府にとって、政府方針の伝達は非常に重要でした。しかし、まだ支配体制が十分に確立していない段階では、かなりの混乱があったはずです。そこで、新政府は、慶応四年四月一七日、太政官布告類を諸藩に伝達するのを任務とした藩を触頭(ふれがしら)として当番制で任命したのです。五榜の掲示が出されてから1か月後のことでした。しかし、まだ戊辰戦争の真っただ中、中部地方以東は、様子見や敵対する藩が多く、五榜の掲示の布告が伝わるような状況になかったといえます。

結局、五榜の掲示の五枚の高札は、日本各地でバラバラとさみだれ式に掲げられていったのです。たとえば、故玩館所蔵の五榜の掲示第四札『万国公報遵守』の第二発給者は岐阜県です(次回のブログで)。五榜の掲示発布から4年以上経った、明治4年7月の廃藩置県以降に作られた第四高札なのです。

しかし、今回の高札は、改訂版でない当初の「切支丹禁制」です。裏書のある「弓懸村」は、飛騨国の山間の村です。ここにいち早く慶応四年三月の五榜の掲示が届き、第三高札が作られたとは考え難いです。私は、改訂されていない当初の切支丹札を、他に、新潟県の小さな資料館で見たことがあります。当時の状況からすると、新潟でいち早く、五榜の掲示高札が作られたとはやはり考え難いです。

都から離れた地で、なぜ新政府が最初に発表した民衆政策、五榜の掲示が、オリジナルの形で「切支丹禁制」高札として残っているのか、大きな謎です。

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改竄?!『太政官日誌第六』

2023年05月06日 | 高札

幕末、明治の高札に戻ります。

先のブログで、新政府が発表した五榜の掲示5枚のうち、第3札『キリシタン禁制』の条文が、慶応四年三月十五日付けの当初のもの(『太政官日誌第六』)から、わずか50日ほど後、慶応四年閏四月四日に、変更されたことを書きました。

現在の官報に相当する『太政官日誌』は、その後も発行されています。私の所には、第六しかないので、国会図書館の資料を調べていました。そのうちに、奇妙な事に気が付きました。

『太政官日誌第六』(国会図書館デジタルコレクション)

 

それに対して、故玩館所蔵の『太政官日誌第六』を、再掲します。

 

両者を較べると、同じ『太政官日誌第六』ですが、大きな違いがあります。第三札「キリシタン禁制」の項目です。

上:故玩館の『太政官日誌第六』、下:『国会図書館デジタル』の『太政官日誌第六』

国会図書館蔵の『太政官日誌第六』では、第三札の条文が、慶応四年閏四月に出された太政官布告のものになっています。しかし、これはおかしな事です。慶応四年閏四月に変更された第三札が、五榜の掲示が出された慶応四年三月にすでに存在したことになってしまいます。当初の第三札「キリシタン禁制」は、国会図書館デジタルコレクション『太政官日誌』のどこを探してもありません。この『太政官日誌』を見る限り、慶応四年三月十五日に出された五榜の掲示の第三札は、初めからキリシタンと邪教を分けて禁止とし、さらに密告の奨励を含まないもの(慶応四年閏四月布告)であるのです。本来なら、『太政官日誌第六』にはオリジナルの五榜の掲示を記し、閏四月以降の号で修正した五榜の掲示を再び載せるのが日誌です。そうでなければ、最初の第三札は抹消され、『太政官日誌第六』は改竄されたのと同じことになります。つまり、新政府は歴史の書き変えを行ったことになります。

我々の記憶の新しいところでは、あの安屁¨元総理が奴隷官僚を使って、公文書の改竄をさせていましたね。クズ政治家のルーツは、薩長を中心の新政府にあるのかもしれません。

それにしても、同じ『太政官日誌』なのになぜ?

調べてみると、『太政官日誌』には、京都版3種、江戸版2種、長藩版1種、計6種の異本が存在することがわかりました。このうち、京都版の3種は、版組のわずかな違いだけで、実質的には1種と考えられます。最後の頁には、「官版 不許翻刻 御用御書物所 東洞院三條上ル町 堀川二條下ル 井上治兵衛」と書かれています。この京都版が『太政官日誌』の初版本です(山口順子「『太政官日誌』の発刊」出版研究、42号、1-21(2011))。

故玩館蔵の『太政官日誌第六』の刊記も全く同じ(上写真)で、当初の『太政官日誌』であることがわかります。

粗末な紙に木活字で刷られ、紙縒りで綴じられたこの小冊子は、歴史の証人なのですね。

 

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垂井まつり:子供歌舞伎と竹中半兵衛

2023年05月04日 | 故玩館日記

中山道垂井宿で行われている垂井曳山まつりに行ってきました。垂井宿は、故玩館の場所から中山道を西へ二つ目の宿場です。美江寺宿→赤坂宿→垂井宿→関ケ原宿と続き、美濃は終わって、近江へ入ります。名古屋から大垣を経る美濃路の起点として、中山道と東海道をむすぶ交通の要所でもありました。美濃一宮(南宮大社)参拝の人々も含め、多くの旅人で賑わいました。江戸時代から連綿として行われてきた垂井曳山祭りでは、安永年間創始と伝えらえる子供歌舞伎が演じられ、壮麗な3台の山車とともに、往時の繁栄を今に伝えています。

しかし、ほとんどの宿場町がそうであるように、往年の賑わいは年とともにすたれ、かつては、すべての家が何らかの商売をしていた街道は、日中、人影もまばらです。そんな中で、町興しの試みがあちこちの宿場でなされています。私もそのお手伝いを少しさせていただいています。そんな関係から、コロナ下で途絶えていた祭りが、今年、完全復活するというのでしばらくぶりに訪れました。

八重垣神社前に整列した3台の山車。3つの町にそれぞれ一台。

西町攀鱗閣:

東町鳳凰山:

明治の日本画家、大橋翠石筆の鶏図。

子供歌舞伎は、3日間、小学生男子が演じます。

今年は、観光協会が、3つの演題を簡単なマンガ本にして無料で配布しました。

普段は閑散とした中山道も、黒山の人だかり。

15回ほどの公演があるので、炎天下、なれない衣裳と化粧で体調を崩す子もいます。が、1年間練習の晴舞台。本人にとっては貴重な体験です。

岐阜は、地歌舞伎が残っている場所がいくつかあります。この子供歌舞伎もその一つです。上方の影響を受けたのでしょう。なお、他の地にも豪壮な山車は多くあります。そして、その多くは、からくりの演舞が見どころです。これは、尾張の影響下でつくられたものだと考えられます。

 

また、この日は、古い旅籠、亀丸屋が初公開されました。

この建物は、道が鉤型に曲がる所に建っています。中山道の宿場はどこも、敵が容易に侵入できないよう街道を屈曲させてあるのです。

2階には、鉄砲窓が残っています。

逆光ではっきりしませんが、鬼瓦は、鬼が亀を咥えた珍しい物。

中山道筋で唯一、当時のままで続けられていた旅館ですが、女主人も高齢となり、やむなく数年前に閉じられました。

内部は、江戸時代、大名から商人までが泊まれるよう、いろいろな部屋があります。ちょんまげ姿の人が、ふっと現れるような錯覚を覚えます。ま、故玩館も似たようなものではありますが(^^;

垂井町には、史跡が多くあります。その中で、曳山まつりと並んで、人を呼べる可能性があるのは、やはり、軍師竹中半兵衛ですね。関ケ原の合戦も、南宮山に陣取って動かなかった毛利氏と西軍と思われていたけれども東軍に与した竹中氏(半兵衛の子、竹中重門)の動向が合戦を左右したとも言えます(このあたりから関ケ原にかけてが竹中氏の領地)。南宮山は垂井町の南部、竹中陣屋跡、菩提山城跡は北部、いずれも宿場から数kmの距離です。

帰り際に、観光協会の方から、新製品だという「軍師竹中半兵衛 プリントクッキー」をいただきました。美味しかったです。子供歌舞伎のマンガ解説本とともに、今風の超イケメンの半兵衛が、垂井宿に人をよんでくれるとよいのですが。

故玩館外での初展示会『折形と飾り結び』を行ったのが、10年前の垂井曳山まつりでした。入場者は、1000人を超え、盛会でした。その後、何回かの展示と高札場整備のお手伝いをしました。しかし、街興しの中心になっていた方々がコロナ下、相次いで逝ってしまわれ、私自身もこれからどのように関わっていったらよいか、思案中です。

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サツマイモの苗、通販でビックリ、植え付器でガックリ

2023年05月02日 | ものぐさ有機農業

サツマイモの季節です。晩秋の収穫ですからのんびりとやればいいのですか、ものぐさ農業も、今年は、なぜか、作業前倒しになってます。ホームセンターや農業店には、すでにどっさりサツマイモの苗が出ています。しかし、どこを探しても、目当ての苗がありません。やむなく、ネットショッピングで注文しました。

発送の日が決まっていて、待つことしばし。どうやって送ってくるかと思っていたら、段ボール箱に入っていました。

中には、新聞紙におおわれた・・・

サツマイモの苗が25本。

驚くのは、その価格です。25本で3980円(送料込み)、1本160円。

JAで買った紅はるか(下写真)の3倍以上しました。

これほどまでにして入手した苗は、パープルスィートロード。濃紫のサツマイモで甘い。10年ほど前から出回るようになりました。当初から、他の苗の1.5倍ほどしました。しかし、なぜかここ数年は、店舗で苗を購入するのが難しくなりました。値段もさることながら、極端に品薄。予約でないと入手できなくて、昨年は諦めました。そんな訳で、今年は、ネット購入となったのです。虎の子の苗ですから、大事に育てねば(^.^)

ネットショッピングのついでに、こんな品をゲットしました。

らくらくマルチ植え器。こういう便利グッズにからきし弱い遅生です(^^;

サツマイモや玉ねぎの苗をはさんで、マルチの上からブスッと差し込んで植え付け完了!・・・・・・

のはずでしたが、そうはイカの〇〇〇〇。

先割れが広すぎるのです。そのままでは、す抜けてしまいます。タマネギ苗でも同じでしょう。葉の出ている所(節)にあてがう必要があります。さらに、そのまま押し込んだのでは、苗の先に負担がかかりすぎます。節の部分ギリギリまで、先を切り落とさなければなりません。しかも、耕してからすぐの、土がホカホカのマルチでないと苦しい。これは諦めるよりほかありません(^^;

仕方なく、これまで通り、支柱棒でグリグリと斜めに穴をあけ、そこへ苗を差し込むやり方で、何とか植え付けを終わりました。

ダイヤモンド苗、全部根ついてくれることを祈るのみです(^.^)

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