戊辰戦争のさ中、江戸で佐幕派が創刊した新聞『内外新報第一號』の続きです。先回は、江戸城無血開城が決まった後、新政府側の海軍先鋒隊が、江戸の入り口、品川宿に着陣した様子を伝える記事を紹介しました。今回は、その次の記事です。
右側、3行。
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慶應三卯年七月廿六日小笠原賢蔵岩田平作装鉄船へ
乗込亜米利加「コスポート」海軍所を出帆し同四辰年
四月二日横濱江着帆す
「慶應三年七月二十六日に、小笠原賢蔵、岩田平作が装鉄船に乗り込み、アメリカ・コスポート海軍所を出帆して、慶應四年四月二日に横浜へ着いた」という簡単な記事です。
しかし、この記事は、その後の戊辰戦争、さらには明治海軍の動向を左右する極めて大きな意味をもっていたのです。
戊辰戦争で次第に劣勢になっていった幕府側ですが、海軍力には早くから力を入れていました。慶應二年、幕府がオランダに発注していた軍艦、開陽丸が完成し、翌年四月には横浜に到着して、榎本武揚が軍艦役となりました。
海軍増強の必要性を痛感していた徳川幕府は、さらなる軍艦を調達、補充するため、慶應三年一月、勘定吟味役、小野友五郎を代表とする使節団を米国に送りました(福沢諭吉も通訳として参加)。アメリカ各地を巡る中、主要な部分を厚い鉄板で覆った装鉄船「ストーンウォール号」を見つけ、購入契約を結びます。そして、後に甲鉄船とよばれたこの船に、幕府海軍方軍艦組一等、小笠原賢蔵、岩田平作の二人が乗り込み、日本へ帰国するのです(今回の記事)。
その後、甲鉄船は数奇な運命を辿ることになります。日本へ到着後、戊辰戦争の行方を眺めていたアメリカは、契約を保留としました。そして、新政府側が優勢とみるや、ストーンウォール号を新政府側に売り渡してしまうのです。劣勢になった旧幕府側は、榎本武揚を中心に開陽丸の海軍力に賭け、函館を拠点として新たな局面の展開を試みます。しかし、頼みの開陽丸は函館湾に停泊中、嵐に合い。敢え無く沈没してしまいます。新政府側は、甲鉄船を送り、攻勢をかけます。榎本武揚は、かつてオランダ留学中にこの甲鉄船の事を知り、以来強い関心を持ち続けてきました。そして開陽丸を失って低下した海軍力を立て直すため、宮古湾で、甲鉄船の奪取を敢行しました(土方歳三も参加、宮古海戦)。しかし、甲鉄船からガトリング砲による反撃を受け、奪取は失敗に終わります。そして、新政府軍の箱館総攻撃の際、甲鉄船は箱館湾から榎本らの拠点、五稜郭を砲撃しました。その威力はすさまじく、旧幕府勢力は、函館での戦いに敗れ、戊辰戦争は終了したのです。
その後、甲鉄船は佐賀の乱や西南戦争に参加し、「東(あずま)」と名をかえて、明治海軍の主力艦となりました。
当時、『内外新報第一號』の記事を読んで、甲鉄船・ストンウォール号のその後の運命を誰が予測できたでしょうか。
『内外新報』は短期間で発行を終えますが、幕末の混沌とした日本を記録した貴重な資料と言えると思います。