11 サンタが来た夜
何度か道をまちがえて、ようやく家にたどりついた時には、もう日はとっぷりと暮れていた。とぼとぼと歩いてきた環が門の前に立つと、玄関の白い明りが、門かむりの松の向こうから、少し責めつけるように白く光を放っている。
環は門柱の影でしばらく立ちすくんだ。おかあさんの怒っている顔が頭をよぎった。でも今日は、いろんなことがあり過ぎて、何かを考えようとしても、頭が動いてくれない。環が、ぼんやりと門の取っ手をつかむと、さびた金具がきしむ音をたてた。と、思いがけない近くから、「タマキなの?」と、おかあさんの声がした。
環がびっくりして顔を上げると、おかあさんの青ざめた顔が、生垣の向こうから飛び出して来た。環はしかられると思い、思わず肩をすぼめた。だけどおかあさんんは、環の周囲を落ちつかなげにきょろきょと見回しながら、言った。
「タマキ、あんた一人なの? カナメは?」
環ははっと顔をあげた。おかあさんのけげんな顔が、環を見つめている。
「か、要、帰ってきてないの!?」
「だってあんたたち……いっしょじゃなかったの?」
おかあさんの言葉が終わらないうちに、環は反射的にカバンを振り捨てて、夜道をかけ出していた。
「タマキ! 待ちなさい!」
後ろからおかあさんが叫んだけど、環には聞こえなかった。
「かなめ、かなめ!」
いつもの通学路を走り抜け、環は例のクロの小道の途中で足を止めた。息をぜえぜえしながら、東田さんちの塀にもたれかかると、クロが激しくほえ出した。ふりむくと、濃い夕闇の中で、クロの姿は黒い網をかぶった不確かなかたまりのように、庭の奥の方でうごめいていた。環は、まさかと思いつつ、クロの小屋の方にむかってどなりつけた。
「このクソ犬! うちの妹に何かしたの!」
クロは思わぬ反撃に一瞬たじろいで、だまりこんだ。でも、すぐにまたいっそう激しくほえ出した。環は肩をゆらしながら、不安をにぎりつぶすように、心臓の前でこぶしをぎゅっとにぎりしめた。
「そうだ、まだあそこにいるかもしれない……」
環はクロの前を離れ、要と別れた柿の木の下まで走った。しかしそこには、人気のない夕暮れ時の住宅街の道が、底のない闇に向かって、がらんと伸びているだけだった。
環は柿の木の下の、要と最後に別れた場所に立った。
「どうしょう、やっぱりいないよ……」
環は頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。誘拐とか、交通事故とかいう文字が、頭の奥でちかちかと点滅した。ふと見上げると、深い紺青の星空が、からみつくような柿の木の枝の向こうで、さえざえと広がっている。環はぶるっと身を震わせた。あの時自分の言った言葉が、まだどこか近くに落ちていて、じっと自分の気配をうかがっているような気がした。
どうしよう、ほんとにどうしよう。要をさがさなくちゃ。でもどうすればいい? どこにいけばいい?
その時、混乱した環の頭の中に、ふとちりんと響いてきた音があった。
「……そ、そうだ! 鈴!」
いつも環がカバンにつけていた、あの鈴。あの鈴の音なら、きっと要は遠くからでも聞き分けられる。あの鈴を探そう! 環はワラにもすがるような気持ちで、鈴を捨てた溝の方へと走った。
確か、ここらへんだったはず。
人家の窓の明かりをたよりに、環は道端にうずくまると、顔をつっ込むようにして、溝の中をのぞきこんだ。いやな匂いが鼻をついて、うっと顔をしかめた。
ごくりと生ツバを飲み込むと、環は思い切って泥水の中に手をつっこんだ。ぬるぬるした藻のようなものの感触と、腐った泥の感触が、指にべたりとひっついた。気持ち悪くて、ゾッとしたけれど、環はぐっと飲み込んで、ずぶずぶと手首まで手をつけてみた。
どこか近くの家がお湯を使っているらしく、泥水はかすかに湯気をたてていて、表面は生ぬるかった。寒さの中で、それが救いと言えば救いだったが、少し中までいくと、もう水はしびれるほど冷たかった。環は泥の中を探って鈴を探した。でも見つからない。環は、いつしか溝の中に靴のまま足をつっこんで、はいつくばるように泥をかきまわしていた。
「どうしよう、要がいなくなったら、わたしのせいだ……」
不安がどんどんふくらんだ。飛び散った滴が顔について、あわててふこうとしたら、ほおにきたない泥がべったりとついた。
うっ。
吐き気と一緒に、涙が一気にあふれ出した。
うっ……、うっ、うっ……。
環は、誰もいない夜の片隅で、うずくまったまま泣き始めた。さみしかった。たまらなく、みじめだった。なんで、なんでこんなことになったの? だれか、助けて……。
そのとき、近くで、何か、きっときしむような音が聞こえた。顔をあげると、
まぶしい明りがいきなり目を射た。
「砂田? 何してるんだ? そんなとこで」
聞き覚えのある声だった。明りのついた自転車は、ゆっくりとこっちに近づいて、やがて環のそばでとまった。
「ひでえかっこうだな。どうしたんだよ」
「ひ、広田くん……?」
間違いない。広田くんの声だ。環は一瞬、すがりつきたいような気持になって、腰を浮かせた。広田くんは自転車をひらりと下り、水の中の環に近づいてきた。練習の帰りなのか、広田くんは縦縞のユニフォームの上に、黒っぽいウインドブレーカーを着ていた。
「風邪ひくぞ。ほら、出てこいよ」
広田くんの手が、目の前に差し出された。環は一瞬、どうしていいかわからず、困ったような顔で広田くんを見上げた。でも、やっとの思いで気持ちを飲み込むと、かぶりをふり、小さく、言った。
「す、鈴を、落としたの……」
「鈴って、あの鈴?」
「うん……」
広田くんは、少しの間、環の様子を見た後、「ちょっと待って」と言って、自転車にもどり、荷台にくくりつけたバッグの中をごそごそと探った。
「おれ、懐中電灯持ってる。小さいのだけど」
広田くんは細いペン型の懐中電灯を取り出すと、環のそばにしゃがみこんだ。黄色い光が、どす黒い泥水を照らし、少し硬い表情をした広田くんの顔も、うっすらと浮かび上がらせた。
「……よかった。まだ点くよ。ずっと入れたままにしておいたから、ちょっと心配だったんだけど。……そうだ。おまえ、ここに立ってこれ持ってろよ。おれが手ぇつっこんで探してやるから」
「で、でも……」
「いいから!」
広田くんは懐中電灯を無理やり環に押しつけると、靴をはいたままで溝の中に片足をつっこんだ。環はとまどいながらも、広田くんに押しのけられるようにして、溝から足を抜いた。
「ここらへんに落としたのか?」
「うん……」
環が向ける懐中電灯の光の中で、広田くんは泥に両手を突っ込んで、溝の底を探った。
「ないなあ……、うへ、なんだこれ!」
広田くんは、割れて底がなくなったジュースのビンを、道の上においた。環は、遠慮がちの声で、言った。
「あ、あぶないよ……」
「へーきへーき、気をつけるよ。ほら、ちゃんと照らしてくれよ」
「うん……」
熱いものが、のどにこみあげてきた。環はぐっと奥歯をかんで、もうこれ以上は泣くまいと、がんばったけど、やっぱりできなかった。胸の辺りが、じんじんと、熱かった。
広田くんは、しばらく黙って作業を続けていた。夜のすみっこで、環の静かに泣く気配と、広田くんが泥をかきまわす音が、ひっそりと続いた。やがて、広田くんは、ぽつりと言った。
「この前は、ごめんな」
「え?」
環は驚いて、顔をあげた。広田くんはうつむいたまま、手を動かし続けている。
「おれ、ずっと気にしてたんだ」
「な、なんで広田くんがあやまるの?」
広田くんは、小さく息をつくと、腰を伸ばして立ち上がった。そして、片足で泥水を蹴るような動作をしてから、ぼそりと言った。
「おれ、あの高倉ってやつ、すごく苦手なんだ……。だから、あの時、逃げたんだ」
環は、立ち上がった広田くんの影を、呆然と見つめた。環の脳裏に、どたどたと足音をたてて教室を出ていく、あの時の広田くんの後ろ姿が浮かんだ。一番思い出したくない、あの最悪の日。広田くんがずっと気にしてたなんて。驚いた環は思わず声が出た。
「ひ、広田くんは全然悪くないよ! そ、そんな、悪いのは、わたしの方だよ。だって、だって……」
その時。
環の薄い胸板の中で、何かが、今にも爆発しそうな勢いで、大きく盛り上がってきた。広田くんは、何かにじっと耐えているように、溝の中に立ち尽くしている。
環は、言える、と思った。今、この人の前でなら、言える。今までどうしても言えなかったこと……。
「逃げてたのは、わたしの方なんだもの」
これは、自分の声だろうかと、環は一瞬思った。太くて、鼻声で、まるでおばさんの声みたい。だけど、それはまるで、環のおなかの底から、自ら意志を持ったもののように、次々と、ほとばしりでるのだ。
「湯河さんのことから、高倉和希のことから、逃げてたのは……わ、わたしなんだ……あ、あの子、あの子……、た助けて、くれたのに……わたし、見ない、ふりして……」
環は、ぜえぜえとあえぎながら、言葉を区切った。頭が混乱して、何を言おうとしているのか、一瞬見失いかけた。環は、ぶんぶんと頭をふり、目を閉じてぎゅっと奥歯をかみしめた。暗闇の中で、一瞬振り返ろうとしている自分自身の後ろ姿を見たように思った。そして環は、今度はそれを逃さなかった。つかんだと、思った。目を開けて、さっと顔を上げると、漆黒の夜空に、ガラスの粉をまいたような星々が、広がっていた。環は、星空に向かって、叫んだ。まるで、おなかにためてあったものが、噴水のように飛び出して、空に吸い込まれていくような気がした。
「……でも、ほんとはわたし、いやだった!」
解き放たれた言葉が、環の体中に響きわたり、彼女の全身をおおっていた氷のようなものを、割り砕いた。
「何もかも、いやだった! うそばっかりついて! 自分がいじめられたくないからって! みんなきらい、学校なんてきらい、でも、でもでもでも、わたし、わたし……! こんな、こんな、ばかなわたしなんか、だいっきらいぃ!!」
環は、ひきつつるような声をあげて、両手をついた。破裂したかのように、涙とおえつがぽたぽたと落ちた。と、環のひざから、懐中電灯がことりと落ちて、アスファルトの上を転がった。
「あれ? あそこで何か光ったぞ?」
ふと、広田くんが、言った。環は、はっと目を溝の中にもどした。広田くんの指がさす方向を見ると、懐中電灯の光の中に、確かに、何か小さなきらりと光るものがある。
「あ、あ……!」
環はぴょんと横飛びに飛んだ。それは、溝の横壁の、コンクリートの割れ目の中に、はさまっていた。環が手を伸ばすと、その光は、ちりりと音をたてて、手の中にころりと入ってきた。
「あ、あった……。あったよぉ!」
環は鈴をにぎりしめると、泣き笑い顔で、広田くんの方をふり返った。泥だらけになった広田くんが、鼻の頭をこすりながら、照れくさそうに、「よかったな」と言った。
(つづく)
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