月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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ばらの”み” 22

2013-12-14 05:20:46 | 月夜の考古学

 なんだか、突然、力がわいてきて、環は飛び上がるように立ち上がった。環は広田くんに懐中電灯を返すと、お礼を言うのもそこそこに、かけだした。そして、鈴を持った手を振り上げながら、大声で要の名を呼んだ。
「かなめ! かなめ! どこにいるの!」
 きっと見つかる。そんな気がした。なぜかはわからない。だけど、何かが、環に力を与えてくれているような気がした。そして鈴を振りながら走る環を、まるで見えない星のきらめきのように、鈴の音がちりちりと追いかけていく。
「かなめえ!」
 繰り返す環の声に、やがて、どこからか、かすかな声が、返ってきた。
「……おねえちゃあん……」
 聞き間違いだろうか? いいや、ちがう。環はかすれた声で、もう一度叫んだ。
「かなめえ! どこぉ!」
「……おねえちゃあん、ここだよお!」
 その声に導かれるように、道を曲がると、行く手に小さな常夜灯が、アスファルト道路の一角を白々と照らしているのが、見えた。環は息を切らせ、その光の手前で、立ち止まった。そして耳をすまし、目を見開いた。やがて、光の向こうから、暗い自転車の明かりが、ゆっくりとこちらに向かってくるのが、かすかに見えた。
「かなめ?!」
「おねえちゃん!」
 環が走っていくと、自転車を押して歩く背の高い学生風の男の人が、常夜灯の光の中にぬっと現れた。そして、その隣に、だれとも手をつながず、杖だけを頼りによたよたと歩いている、要がいた。
「かなめえ!」
 環は、とびつくように、要を抱きしめた。
「うわあ、おねえちゃん、すごいにおい!」
 環の腕の中で、要が思わず顔をのけ反らせた。
 よかった、要、ぶじで、よかった……
 緊張が解け、環は足から力が抜けて、へなへなとその場に座りこんだ。
「おねえちゃん……」
「ごめんね、要。あんなこと言って、ほんとにごめん……」
 環は、泣きながら、くりかえした。いろんなことがあったのに、なんだか今は、すべてどうでもいいような気がした。要は、そんな環の言葉に、気づいているのかいないのか、いつものように、はきはきした、音が弾むような声で、うれしそうに言った。
「ねえ、おねえちゃん、要ね、自分で歩いて、ばらの実を見つけてきたんだよ」
「ばらの実?」
「カナコちゃんに聞いてから、ずっと欲しいと思ってたんだ」
 要は、片手ににぎっていたものを、環の方に差し出した。うすく赤みがかった堅い実をつけた、ばらの枝が一本、しっかりとにぎられている。
「あのね、クロのいる道に向かってね、要、ちゃんと歩きだそうとしたんだよ。でもね、その時、どこかから、あの名前が聞こえたんだよ」
「あの名前?」
「うん。あのね、前に要が、学校でつかまえそこねた名前なの。すごくきれいな名前で、胸が熱うくなるみたいな、涙が出るみたいな、不思議な名前なんだ。ほんとだよ。それでね、こわかったけど、要、どうしてもその名前が欲しかったから、ひとりで歩いていったの。風が吹いてきて、ばらの匂いがしたよ。あ、そうかって、その時わかった。要がさがしてたのは、ばらの実なんだ……。要、うれしくて、どんどん歩いた。でも、途中でわからなくなって、迷ってたら、この人が声をかけてくれて、いっしょに探してくれたの」
 その時になって、環はようやく、少し離れたところで所在なげに立っている人影に気づいた。
「あ……、ごめんなさい!」
 環はあわてて立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「いやあ。でも、よかったよ、おねえちゃんが見つかって」
 その人は、安心した様子で言った。背は大人みたいに高いけれど、声の感じからすると、まだ中学生くらいの少年のようだった。
「住所を教えてくれたら、おくってあげるって言ったんだけど、自分で帰るってきかなくて、困ってたところなんだ。そうですかって、放っていく気にもなれなくて、ここまでついては来たんだけど……」
「ほんとにごめんなさい。ほら要、あんたも謝って!」
 環は急に恥ずかしくなって、何回も腰を折った。その横で、要はにこにこしながら、平気で言った。
「おにいちゃん、ありがとね。あのね、このおにいちゃんにも、要、ばらの実が食べられるってこと、教えてあげたんだよ。そしたらさ、おにいちゃんも知らなかったんだって!」
「もう、要ったら……。それに、そのばら、いったいどこでとって来たの?」
 すると、中学生はちょっと困ったような顔をした。
「ああ、それは……」
「ナイショなんだよね!」
 要がはしゃいだ声で言うと、中学生は恥ずかしそうに頭をかいた。
「いや……、その、じつは公園に生えてたの、だまってとってきちゃったんだ」
 この近くの公園の一角に、ばらのしげみがあって、それがトゲだらけの枝の一本をフェンスの向こうから突き出して、道を歩く自分の前をさえぎったので、危ないからと取ってしまったのだと言う。環は、要のにぎっている枝を注意してよく見てみた。ばらの枝は、トゲが一本残らず、きれいにとってあった。
「あ、あの……」
 環は少年に、何か言わなければと思ったが、とっさに言葉が出なくて、困ったように少年を見つめた。少年は、はにかむように頭をかきながら、言った。
「まだ花をつけてたのもあったよ。ばらって冬も咲くんだな。でも、こんな遠くから、要ちゃん、あの公園の花の匂いがわかったの?」
「要、鼻はいいんだよ。ふふ、でもね、ほんとは、ばらの実の音が、見えたんだよ」
「え? なんだい、それ?」
 中学生が聞くと、要は意味ありげに笑って、言った。
「へへ、ナイショ!」
「ご迷惑をかけて、ほんとに、すみませんでした……」
 環はもう一度深々と頭を下げた。中学生は笑って言った。
「いいよ、それよりもう遅いから、二人とも家までおくっていくよ」
 するとその時、後ろの方からかぶさってくるように、広田くんの大きな声が聞こえた。
「だいじょうぶです! おれがいますから!」
 環たちが振り向くと、広田くんが自転車を押しながら、背伸びをするようなかっこうで、立っていた。中学生は、広田くんのちょっと挑戦的な言葉づかいに、やや戸惑いがちになって、言った。
「あ、そうか。じゃあ、ぼくはここで。要ちゃん、さよなら」
「さよなら! ありがとね、おにいちゃん!」
「あ、すみません、あの、お名前……!」
 環は大声で言ったが、中学生はひらりと自転車に載り込むと、瞬く間に闇の向こうに消えて行った。
「あーあ、行っちゃった……、要、あの人の名前きいた?」
「ううん。知らない」
「……んもう、どうして聞いとかないのよ。お礼もできないじゃない」
「ごめん。今度会ったら聞いとく」
「ばか」
「うん、それよりおねえちゃん、これあげる」
 要は環の言うことなど一向に気にしない様子で、ばらの枝を差し出した。
「え?」
「あげる。ねえ、とって!」
 要は顔を上気させて、ぴょんぴょんはねた。環は、ぽかんとしながら、ばらの枝を受け取った。枝は、ずっとにぎっていた要の手の温もりで、じっとりと暖かくなっていた。
「あのねえ、おねえちゃん。要ね、音の秘密がわかったよ!」
「音の秘密?」
「要がね、ずうっと、探してた名前のこと!」
「それって、ばらの実なんでしょ?」
「ううん、ばらの実は、それを要に教えてくれただけ……。あのね、それはね、おねえちゃんだったの!」
 環は、一瞬、声を飲んで、要のきらきらした顔を見た。
「怒ってたって、ケンカしてたって、おねえちゃん、いつも、要と手をつないでくれてたでしょ? 今日だって、ほら、こうやって要のこと、探しにきてくれたでしょ?」
「要……」
「だから、要は、おねえちゃんのこと、大好きなんだ! そう思ったら、音の秘密が、わかったの!」
 要は、環の顔のあたりに無造作に視線を投げながら、全身で、笑っていた。何か、もっと大事なことを言いたくて、うずうずしてるような感じだった。だけど要は、それ以上は何も言おうとしなかった。ただ、ふと目を空にずらして、いかにも幸せそうにくすくすと笑いながら、一言二言、こうつぶやいた。
 ばらのみ。ばーらーのーみ……。
 だから環には、要の見つけた音の秘密が何なのか、とうとうわからなかった。環は、きょとんとして、要のうれしそうな顔を見、そしてもう一度、ばらの実を見た。
 小さな丸い実は、まるで、横たわった鈴のように、見えない音を中に閉じ込めて、ひっそりと上をむいていた。環はその小さな丸みが、なんだかとてもかわいく思えた。すると、
胸の中がほかほかとあったまってきて、あ、この気持ち、前にも感じたと思って、環は広田くんを振り向いた。
 広田くんは、環たちに背を向けて、懐中電灯をもった手をだれかに向かって振っていた。すると、夜の向こうから誰かが走ってくる気配がした。
「タマキぃ! カナメぇ!」
 金切り声に近いおかあさんの声が、ばたばたと転がるように近づいてきた。環たちは思わず、声に向かって、駆け出した。両手を広げて、真っ青な顔で明かりの中に駆けこんできたおかあさんは、靴さえ、はいていなかった。

 その夜、環は夢を見た。
 前に何度も見た、迷路の中を、環は歩いている。天井にドアのある部屋、三つに別れた階段、果てしなく長い廊下……。でも、環の足取りは重くない。なぜなら、迷路を抜ける道筋は、もう知ってるからだ。
 この階段を下り、狭いにじり口をくぐり、廊下をわたってつきあたりのドアを開けると、そこは、鳥籠がいっぱいある、例の部屋。一見したところ、前に見た時と変わりはないが、薄汚れた感じがなくなって、きれいに掃き清められているような感じがした。だれかが掃除をしたのかな。環はそんなことを考えながら、少しためらいがちに、鳥籠の一つに近づいていく。
 よく見ると、それは鳥籠ではなく、鳥籠の形をした、精密な石の彫刻だった。中には何も入っていなくて、ただ、開いた小さな窓だけが、かすかな風に、音もなくゆれている。
 ……なあんだ。
 環は、くすっと笑って、隣の鳥籠に目を移した。どれもみな、同じだった。
 きっとこの部屋のどこかに、出口があるわ。
 環はそう考えて、周囲を見回した。見ると、壁の一角に、硬く閉じた窓がある。観音開きの大きな石の窓には、やはり浮彫の彫刻がしてあって、月と太陽を両目にした不思議な笑顔が、もの問いたげな目で環を見つめていた。
 環はその笑顔に引き込まれるように、窓に手をあてて、押し開いた。すると、すがすがしい夜風が、かすかな花の香りを環のもとに運んできた。
(いい香り……、ばらの香りだわ……)
 見ると、黒いビロードのような夜が、ちりちりと痛いような無数の星々を抱いて、無言で広がっている。環が下界に目を移すと、そこには果てしない向こうまで、ばらの花がずっと咲いていて、それはまるで、いつか見た花もようのソファーカバーを、夜の空間に無限に広げたようなのだった。
「きれい……」
 環はひとりごとのように言った。耳をすますと、どこからか、誰かがそっとささやく声がする……

 環は、気配を感じて、ふと目を開けた。ぼんやりとした意識のままで、目をドアの方に向けると、少し開いたドアの向こうから、ぼそぼそと階下の話し声が聞こえてくる。
「……宅配便で、よかったのよ……」
「たいしたことはないさ」
 あれ、おとうさんの声だ。おとうさん、帰ってきたのかな?
「でもびっくりしたわ。いきなり帰ってくるんだもの」
 おかあさん、声がうれしそうだわ。よかった。おとうさんが帰ってきて。
「お仕事の方は、どうなの?」
「うん。なんとかなった。クレームがしつこくて、一時はどうなるかと思ったけど。みんながんばってくれたからね」
「たいへんだったのに、無理させてごめんなさい」
「……あやまるなよ。亜智さんが一生懸命やってるんだってことぐらい、おれにもわかるよ。それにタマキのやつも、あれでいろいろと、無理してるからな」
「そうね。あの子、何も言わないけど……」
「つらいのは、みな似たり寄ったりさ。笑い飛ばしちまうのがいちばんいいんだけど、タマキは気持ちをためこんじゃう方だからな」
「私にそっくりだって、言いたいんでしょ?」
「ああ! やっぱり家で食べるごはんはうまいな! さて、ちょっと寝るか。亜智さん、悪いけど、五時に起こしてくれる?」
「ええ? さっき帰ってきたばかりじゃない」
「明日の十時には、支社の会議室にいなきゃならないんだ。まあしかたないよ。これも上司の命令だし」
「まあ、上司ってあの、カバみたいな部長さん?」
「……ばか、違うよ。ほら例の、気取ったじいさんのことさ。白ヒゲもじゃもじゃで、年甲斐もなく、派手な赤服着て……」
「……おとうさん、たら……」
 ふたりの、笑い声が、聞こえた。
 環は、何ともいえない幸せな気分で、また目をつむった。

 いつしか、環は花畑の中に一人立っていた。周囲のばらたちは、すでに花を終わらせて、実を作り始めている。環は、花たちが、かすかな吐息で、小さな小さな風船をふくらますように、刻々と実が大きくなっていく様子を、息を飲みながら見つめていた。
 やがて実は、十分に大きく、赤くなった。ルビーの玉のように、つややかなそれは、環の吐息に反応するかのように、やがて、くるくると回りはじめて、あちらこちらで、ポンポンと弾けはじめた。
「うわあ!」
 まるで、ポップコーンのように、無数の赤い実が、一斉に弾けた。一つ一つの赤い実は、そこらじゅうをノミのようにはね回ると、やがて白い静かな光の筋をヘタからはき出して、すうっと、音もなく、夜空の奥へ吸い込まれて行くのだ。
「あ!」
 光は、夜の深遠の中につぎつぎと取り込まれ、そのたびにきらめく星たちが輝きを増していく。環は空を見上げながら、全身をぬぐうような寒気を一瞬感じた。そして、体の中で、何かの留め金がいきなりはじけたかのように、突然、わかった。
「これ、『み』だ!」
 ……『み』はね、ちいさくて、くるくるとまるくて、それでいて、どこかへ向かって、すうっとのびているの……。要が前にそんなことを言っていたのを、環は思い出したのだ。
「そうか、音が見えるって、こういうことなんだ!」
 環は言った。すると、どこからか、おとうさんによく似た、深い男の人の声が、聞こえてきた。
「そうだよ。よくわかったね」
 驚いて、環は振り返った。辺りをきょろきょろと見回したが、だれの姿も見えない。
 環は、体の中で、何かが震え出すのを、感じた。そして、空に向かって、もう一度、叫んだ。体中が響いて、全身が声になった。きっと、答えは、返ってくる。
「ねえ! これ、もらっていい? 妹にあげたいの!」
「ああ、いいよ。いくらでも、持っておいき」
「……ありがとう!」
 環は、走りだした。そして、そこら中をはねている『み』の群れの中に飛び込んだ。驚いた蛍のように、『み』はあわてて散らばり逃げていく。環は息を切らせ、花畑中をあちこちとかけ回り、そして、小さな一つをようやくつかまえて、両手でそっと包んだ。
 暖かくてくすぐったい感触が、手の中で踊った。環は、ほんの少し、手を開いて、中をのぞいてみた。すると、『み』は、かすかな光を中に宿しながら、歌でも歌っているかのように、静かに、静かに、震えていた。

(つづく)



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