「映像文化を志す人へ 小津安二郎の映像を読み解く」。
著者は長年テレビ局に勤務、ドキュメンタリーやドラマの制作に携わった人だけにビジュアル面から小津安二郎作品に迫り、解釈していくという形式です。
主に紀子三部作「晩春」「麦秋」「東京物語」を取り上げ、独自に絵コンテを起こして解説しているので、イメージしやすく、とても楽しく読めました。
でもなんか読み進めていくとですねぇ...まるで「この世界の片隅に」の解説をしているような錯覚をおぼえてしまうという奇妙な感覚もありました(^_^;
「例えば“笑い”というシチュエーションを考えてみる。観客の潜在的な感情が作品と重なった時、初めて笑いを誘うのである。そこにあるのは”嘘”のない笑い、これがリアリズムだと思う。決してギャグではない”真”の笑いである」
「作品の意図した”もののあわれ’”を表現するには、ドラマチックなものは妨げになると小津は常々考えていた。だから劇的な表現は自分の作品には不必要なものである。”もののあわれ’”という東洋的な映像を印象づけて描き出すには、静かに鎮ませた鈍色の映像が不可欠というのが徹底した信念であった。観客自身に、少しでもドラマの余韻を埋めさせるにはこの方法しかないと小津は腐心した」
小津作品の論考として特に目新しいものではないのですが、映画作品としての「この世界の片隅に」触れた後だと、やはり自分は小津的な要素に喜びを重ねていたを再認識できるんですね(^_^)
逆にいえば、監督の片渕さんは「この世界の片隅に」をもって、アニメ作品で初めて「もののあわれ」の領域に到達できたんじゃないかと思ったんです。
「この世界の片隅に」は説明調になることを避け、ドラマとしての起伏やテンションの高低差も少なく淡々としていますが、観客がその行間を埋めることで完成するという理想的な作品です。
「余白」とか「余情」と言われるものにつながっていきますが、これは以前、高橋治著「絢爛たる影絵」をご紹介しましたが、その中で若き高橋が執筆したシナリオを見ての小津の鋭い感想を思い起こします。
「上手くないね。君のは勘定合って銭足らずだ」
「どういう意味ですか」
「ああ、なにもかも全部書いちゃっちゃ駄目だということさ」
『東京物語』の撮影中、隠せ、隠せと出演者にいい続けた小津の姿が咄嗟に頭に蘇った。
「大事なのは勘定が合うことなのかい。それとも銭が残ることなのかい」
自分の体験を脚色したものだっただけに、そのシナリオは思い入れが過剰で、確かに説明的だった。 シチュエイションとストーリーはよくわかる。が、それが人を揺り動かすものに高まっていない。それを小津は勘定だけが合っているといったのだ。
「映画の人物というのは、懐に、なんか刃物のようなものをのんでなきゃ駄目なんだよ。確かに刃物がある。それがどんなものか、いつ抜かれるか。客はわくわくしながらそれを待っててくれるのさ。あのシナリオはあけっぴろげで、腰巻チラチラさせてる女みたいだな」
まさに袈裟がけに一刀両断だった。
世の中「あけっぴろげで、腰巻チラチラさせてる」作品がどれだけ多いことか!(^_^;
時空を超えて、今でも小津安二郎は問いかけ続けていると思います。
「この世界の片隅に」が好きで、何度でも映画館に足を運んでしまうのは、正に「銭が残る」からなんです(*^o^*)
著者は長年テレビ局に勤務、ドキュメンタリーやドラマの制作に携わった人だけにビジュアル面から小津安二郎作品に迫り、解釈していくという形式です。
主に紀子三部作「晩春」「麦秋」「東京物語」を取り上げ、独自に絵コンテを起こして解説しているので、イメージしやすく、とても楽しく読めました。
でもなんか読み進めていくとですねぇ...まるで「この世界の片隅に」の解説をしているような錯覚をおぼえてしまうという奇妙な感覚もありました(^_^;
「例えば“笑い”というシチュエーションを考えてみる。観客の潜在的な感情が作品と重なった時、初めて笑いを誘うのである。そこにあるのは”嘘”のない笑い、これがリアリズムだと思う。決してギャグではない”真”の笑いである」
「作品の意図した”もののあわれ’”を表現するには、ドラマチックなものは妨げになると小津は常々考えていた。だから劇的な表現は自分の作品には不必要なものである。”もののあわれ’”という東洋的な映像を印象づけて描き出すには、静かに鎮ませた鈍色の映像が不可欠というのが徹底した信念であった。観客自身に、少しでもドラマの余韻を埋めさせるにはこの方法しかないと小津は腐心した」
小津作品の論考として特に目新しいものではないのですが、映画作品としての「この世界の片隅に」触れた後だと、やはり自分は小津的な要素に喜びを重ねていたを再認識できるんですね(^_^)
逆にいえば、監督の片渕さんは「この世界の片隅に」をもって、アニメ作品で初めて「もののあわれ」の領域に到達できたんじゃないかと思ったんです。
「この世界の片隅に」は説明調になることを避け、ドラマとしての起伏やテンションの高低差も少なく淡々としていますが、観客がその行間を埋めることで完成するという理想的な作品です。
「余白」とか「余情」と言われるものにつながっていきますが、これは以前、高橋治著「絢爛たる影絵」をご紹介しましたが、その中で若き高橋が執筆したシナリオを見ての小津の鋭い感想を思い起こします。
「上手くないね。君のは勘定合って銭足らずだ」
「どういう意味ですか」
「ああ、なにもかも全部書いちゃっちゃ駄目だということさ」
『東京物語』の撮影中、隠せ、隠せと出演者にいい続けた小津の姿が咄嗟に頭に蘇った。
「大事なのは勘定が合うことなのかい。それとも銭が残ることなのかい」
自分の体験を脚色したものだっただけに、そのシナリオは思い入れが過剰で、確かに説明的だった。 シチュエイションとストーリーはよくわかる。が、それが人を揺り動かすものに高まっていない。それを小津は勘定だけが合っているといったのだ。
「映画の人物というのは、懐に、なんか刃物のようなものをのんでなきゃ駄目なんだよ。確かに刃物がある。それがどんなものか、いつ抜かれるか。客はわくわくしながらそれを待っててくれるのさ。あのシナリオはあけっぴろげで、腰巻チラチラさせてる女みたいだな」
まさに袈裟がけに一刀両断だった。
世の中「あけっぴろげで、腰巻チラチラさせてる」作品がどれだけ多いことか!(^_^;
時空を超えて、今でも小津安二郎は問いかけ続けていると思います。
「この世界の片隅に」が好きで、何度でも映画館に足を運んでしまうのは、正に「銭が残る」からなんです(*^o^*)