どっと屋Mの續・鼓腹撃壌

引き続き⋯フリーCG屋のショーモナイ日常(笑)

大工原章さんのこと

2018年09月02日 19時05分00秒 | 
伝説のアニメ職人(クリエーター)たち〈第1巻〉 (アニメーション・インタビュー)」。

その中に大工原章さんへのインタビューが収録されています。この方について語られた文章を初めて見ました。

東映動画創設時から森康二さんと共に活躍され、名だたる多くのアニメーターを輩出に寄与された方です。

出身地やご家族のこと、そして戦前・戦時中の出来事など、このインタビューのお陰で初めて知ることが出来ました。

経営方針を巡る争議を経て、実力あるアニメーターが次々と社を飛び出していく中、実直に黙々と長く在籍し、自らのスタジオ「スタジオ・カーペンター」を起こしたのは60歳を超えた頃となります。

82年、私は同スタジオのアニメーター研修生に応募し、大工原さんに出会いました。

スタジオの向かい側にあった喫茶店が最終面接の場で、アニメに対して拙い夢をアレコレお話しし「君ってフランクな人だよねぇ(笑)」と言われ、呆気にとられたのを昨日のことのように覚えています。

7〜8人の同期と共に採用されましたが、私にとって客観的立場から能力を認めて頂いた人生初の人でもあります。

当時から大工原さんの事は知ってはいましたけど、前時代的な古くさく野暮ったい絵柄が若い自分には魅力的に映らず、同期の仲間とバカにしていたりしてましたっけ...(インタビューに添えられている大工原さんのイラスト、今見ると本当に美しく躍動感も素晴らしい...この魅力、当時の稚拙な私には理解できなかった...)。

20歳前後と余りに世代的隔たりが大きかったこともあり、仕事以外でお話しをすることもありませんでした。

そして...TVアニメの動画を数本やって、わずか数ヶ月で後足で土をかける様な真似をして辞めてしまいました。

若気の至りとは言え、自分の余りに身勝手で馬鹿さ加減に呆れ、一生の後悔を引き摺ったまま今日に至っています。

年齢を重ねる度に想いが募り、いつか機会あれば非礼をお詫びしたいと思っていました。

6年も前にお亡くなりになっていたことを最近になって知り、ある方からお墓の所在を教えて頂き、遅すぎではありますが、先日陳謝を果たすことができました。

取材時の写真は2001年当時のものかと思われますが、お会いした当時のスマートな紳士というイメージそのままです。

お眠りになっていた霊園は、私の所在地から極近いところでした。

何かご縁のようなものも感じ、今後も折に触れご挨拶にうかがいたいと考えております。




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