出津は潜伏キリシタンが存在した土地で、明治になってフランス人のマルク・マリー・ド・ロ神父がこの地に赴任し、出津教会堂を建設しました。
それだけではなく、当時は貧しかったこの地の産業振興、女性の自立に私財を投じて力を注ぎました。
現在、それらの施設が出津文化村として、見学できるようになっています。また、出津教会堂と関連施設として世界遺産候補にもなっています。
まずは、国道に近い、外海歴史民俗資料館の駐車場に車を停めます。
ここからは麺額ルートがしっかり整備されており、迷うことはありません。
崖沿いの整備された道を進みます。
しばらく進むと、漆喰で固めたおおきな瓦屋根の建物が現れます。
旧出津救助院です。
ここは、ド・ロ神父女性の自立支援のために建設した授産施設です。
内部は撮影禁止ですが、ガイドの方の説明を聞くことができ、いろいろと知ることができました。
ヨーロッパから取り寄せた機械を改造してかんころ餅を切る機械を作ったとか、ワイン貯蔵技術を応用した地下倉庫とか。
ここでは外国人向けのマカロニも生産されていたそうです。一方、日本人向けには素麺が製造されていたそうで、頭の高さの梁にはちいさい穴がたくさん開いていて、そこに棒をさして手延べしていたとのこと。
これが、先ほど道の駅で食べた、ドロさまそうめんの起源だそうです。
あとは、当時のレンガも一部残っていますが、当時は厚いレンガを焼く技術がなかったため、国産レンガは薄いとか、非常に勉強になります。
ちなみに、ド・ロ神父の実家は貴族で、日本に来るときには24万フランをポンと渡されたそうです(現在の価値で20億くらい)。その私財を出津のために投じたわけです。
出津に関してはあまり予備知識なくやってきましたが、ここに来るだけで相当の知識を得ることができます。
次は、出津教会堂に向かいます。
出津教会堂は、旧出津救助院からは少しはなれた高台にあります。
出津教会堂は、見学にあたり事前の予約が必要ということで、この日に予約をしておきました。長崎の教会群インフォメーションセンターのホームページから予約をすることができます。
ところが、行ってみると、どこにも受付らしき場所も人もいません。予約されていないのかと思って、長崎の教会群インフォメーションセンターに電話してみると、今日は担当の人が休み、入口の鍵は開いているのではいって見学してくださいとのこと。
これでは事前予約の意味がないようにも思いますが、団体客の集中防止や教会行事の時間帯を避けるという意味では効果があるのかもしれません。
しかし、この出津教会堂、なかなか精悍なフォルムをしています。
屋根が低いのは外海の強風に耐えるためとのことです。例えは適切ではないかもしれませんが、低くて幅の広い安定した形は、航空母艦を連想します。
入口には小学生の女の子が寝転んで遊んでいたりするのですが、電話の通り鍵はかかっていなかったので、中を見学させてもらいます。
内部も独特な造りで、天井は両端が丸くなった漆喰の平天井、まげわっぱの形といえばわかりやすいでしょうか。
この角度だと、城郭のようでもあります。
出津教会堂を見学した後、先ほど来た道を戻ります。
途中で見つけた不気味な光景。体液を吸収して動いているようで気持ち悪いですね。
次に訪れたのはド・ロ神父記念館。救助院の鰯網工場だったところです。
ここは、ド・ロ神父が持ち込んだいろいろな道具類が展示されており、非常に興味深いです。
タップ切とか、簡単な医療器具とか、実際の作業に必要な道具が残されています。あとは、助産婦教育用の人体模型とか。
当時の日本の、このような辺境の地に、個人の力でこれだけのものが入ってきていたことに驚かされます。この事実はもっと広く知られてもよいと思うのですが。
最後、外海歴史民俗資料館へ。ド・ロ神父記念館の入場券で見学することができます。ここは、まあ普通の資料館です。
思いのほか、非常に勉強になった出津文化村でした。
それにしても、ここまで、昨年九月も含め、多くの教会を訪問しましたが、共通しているのは迫害と潜伏の歴史です。
禁教による迫害を避けて二百数十年も潜伏したまま信仰を守り、明治になってからの激しい弾圧にも屈せず、自分の命をも惜しまず、解禁後は金銭的肉体的負担を厭わず教会を建設した人々。
なぜ人々はそこまでしてキリスト教を信仰するのか、非常に興味のあるところです。
<その6に続く>