夏と言えば京都というイメージがあります。7月には「祇園祭」。8月には「五山送り火」と大きなイベントがあるからでしょう。この季節、昔は「怪談」や「ホラー」映画がテレビで放送されたものですが、最近はあまりそういう特集も少なくなったような気がします。もしあなたに映画「シックス・センス」の少年・コールのような力があったら、決して京都に行ってはなりません。街中幽霊だらけですから。
京都の三条・四条・鴨川・・・繁華街を歩くだけで、幽霊と擦違います。石碑を見つけたら読んでみて下さい。誰それの終焉の地とか、要はここで人が殺されましたよという碑だらけです。「坂本龍馬が暗殺された場所」も、「池田屋事件」の起きた場所も、京都河原町の中心地にあります。夏の京都でデートと言えば、鴨川の川原に数メートルおいて等間隔にカップルが並んでいますが、そこは昔から首がさらされていた場所。首切り場に座っている人達の心境が僕には分かりません。
京都と言えば、僕にとって連想する言葉は「暗殺」。それくらい京都では幕末のみならず、暗殺が行われたのです。その幕末において「四大人斬り」と呼ばれ、暗躍したテロリスト達の名前をご存知ですか?歴史のテストで「七歌仙」は出ても、「四大人斬り」は出題されませんが、答えは次の4人です。
肥後藩 河上彦斎
薩摩藩 中村半次郎
土佐藩 岡田以蔵
薩摩藩 田中新兵衛
いずれも倒幕側の人物です。ただし、田中新兵衛を除いて「三大人斬り」と呼ばれる場合も多いです。ここには入っていませんが、他には新選組の大石鍬次郎が「人斬り鍬次郎」と呼ばれ、有名です。
河上彦斎(かわかみげんさい)は「人斬り彦斎」の名で恐れられ、幕末に京都で1番多くの人間を斬ったと言われています。不知火流片手斬りの名手と言われるが、その剣は我流で「逆袈裟斬り」の異名と共に妖剣と恐れられました。文学は轟武兵衛、兵学は宮部鼎蔵、皇学は林桜園と、名だたる学者から高い教養を身につけており、人斬りにおいても誰かに指示されるのではなく、自らの意思において行ったと言われています。ただ、公式に斬ったことが認められているのは1人のみ。それが有名な佐久間象山暗殺です。暗殺に成功したものの、その際の象山の豪傑ぶりに感じ入り、以後人を斬ることはなかったと伝えられています。
中村半次郎は、薩摩示現流の使い手で「打ち廻り」と呼ばれる秘技を用いたと言われています。西郷隆盛に心酔し、彼の警護や命によって人を斬りました。戊辰戦争では切り込み隊を組織して活躍。西郷と勝の怪談を護衛。新政府では陸軍少将となりましたが、西南戦争において、西郷の自決を見届けた後、最後の進撃を敢行。眉間を銃弾で打ち抜かれて戦死しました。
岡田以蔵は通称「人斬り以蔵」。独学で剣術を学び、後に武市瑞山に師事して小野派一刀流を学ぶ。武市の命により、幕末の多数の要人殺害に関わったと伝えられています。「天誅」と称して暗殺を実行したことで有名。しかし、坂本竜馬に勝海舟の警護を命じられてからは、心境の変化か無闇に暗殺剣を振るわなかったといいます。勝を襲った剣客を一刀のもとに切り伏せた際、人斬りをたしなめた勝に、「それでも私がいなかったら、先生の首は飛んでしまっていましょう。」と返した逸話は有名です。彼の辞世の句は「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」。
田中新兵衛は、元は商人の子と言われていますが、俗に「二の太刀いらず」と呼ばれる、薬丸自顕流の使い手でした。京都にやって来た土佐勤皇党の武市瑞山と義兄弟になり、岡田以蔵と共に数々の暗殺を担いました。
彼らに加えて新選組やら京都見廻組やら、そして志士らが集結していた幕末の京都。危なくて歩けるような街ではなかったろうな・・・と想像してしまいます。ただこの時代は、名前が先に売れて有名になっても、顔と名前が現代のように一致しない時代だったのが、せめてもの救いであったと思います。西郷隆盛なんて今でも、本当の顔が特定されていません。沖田総司も人気抜群ですが、写真も残っていません。土方歳三は例外で、言い伝え通り写真を見てもいい男です。
今から200年にも満たない、ほんの少し前の日本は、若い人をはじめとして皆が国家の将来を考えていたのです。剣客と言われ、人斬りと言われた者でも、日本の将来に命を賭けていたのです。だからこそ、今でも明治維新を題材にした小説は書かれるし売れる。尊敬する人物を尋ねられたら幕末の人名が出る。国家の運命など、案外少数の人間によって変わる事は歴史が証明しているのです。