青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

ビックボーイ ~真夜中の集合場所

2021-09-26 | 昭和の喫茶店

喫茶店だけではなく、友達と会うのに便利だったのはファミレス!駐車場は広いし、24時間やっていたから、夜中にお腹が減ったと繰り出すこともありました。



その中でも最初に利用し出したのが、蛍池の空港線沿いにあった「ビッグボーイ」です。ここは古くから長くやっています。ファミレスさえも今はどんどん無くなって行く。日本だけが経済が伸びず、安い物ばかりが残っている。みんながどれだけお金が無いのか?

車が買えない以前に免許が無い。だから、電車の駅近くには無い、幹線道路沿いのファミレスは、すたれる一方です。

iPhoneの値段が物凄く感じます。日本独特のものです。欧米の人はiPhoneの値段が上がっても、給料も上がっているので、そう高額だとは感じません。日本人は何十年もの間給与水準が変わっていないので、海外の品物を買うとなると高額に感じるのです。この状態は今後ずっと続くかも知れないのです。

このビッグボーイで1番の思い出は、姫路に下宿していた親友Iと、夜の11時過ぎに電話で「久しぶりに会いたいな。お前はバイクも持っているんだから、会いに来いよ」と冗談を言ったのが始まりで・・・

「ガソリン入ってたかな?」
「開いてるスタンドないの?」
「あるけど」
「だったらガス入れて、今から走って来いよ」
「着くの2時過ぎになるけどな・・」
「いいよ」

そんな冗談話をしたのも忘れた、真夜中2時過ぎに電話が。(当時家に電話が1台の時代、僕は自分の部屋に、贅沢にも自分の電話を引いていました。)

「着いたよ!」

ビッグボーイまで行くと、何と僕の親友Iだけではなく、彼の友人達もバイクと車で大勢来ていました。

「どうしたの?」とボケたことを訊くと(笑)先輩Yさんが、「お前が呼んだから来たんやろ!」(笑)と。

「今度はお前が来いよ」と言ってくれたYさんの一言が、僕の泊まり先になる親友Iは迷惑だったろうに、僕が姫路に頻繁に車で遊びに行くキッカケになりました。みんな若くて、フットワークも特別に軽かった!遊ぶ時も学ぶ時も、生き生きしていました。


こんなに変わった!梅田のど真ん中!~大阪・北野劇場

2021-09-25 | 昭和の映画館

「この写真の場所どこ?」という方が多いかも知れません。

ここは梅田のド真ん中。画面1番左の建物は「梅田コマ劇場」で、現在の「ヘップ・ファイブ」、その右が「梅田・北野劇場」。僕が70年代に、よく足を運んだ思い出の映画館でした。現在の「ヘップ・ナビオ」です。

東宝系の北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座の入る梅田東宝会館は、昭和12年にスタートしましたが、昭和53年(1978年)老朽化による解体工事が始まり、その歴史に幕を閉じました。

北野劇場時代は、僕が梅田で映画を観始めた70年代に、数多くの名作洋画を観た劇場です。中学~高校という多感な時期に、良質の作品を沢山観たことは、僕の人生にいろんな影響を与えてくれたと思います。



その後1980年秋、ナビオ阪急が完成、最上階に1000席ある3つの大劇場(北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座)をそこに配置し、建物はHEP NAVIOと名称を変え、映画館も今日では「TOHOシネマズ梅田」と名前を変えました。

僕の心の中での北野劇場は、大劇場だった梅田東宝会館を指し、ナビオ時代のいわゆるシネコンの走り時代は、北野劇場の認識はありません。ナビオの映画館の1つという認識で、北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座を、勝手に「ナビオの上の映画館」という、勝手な俗称で呼んでいました。(笑)

だから80年代以降の映画を、「それはナビオで観た」と言うことはあっても、「北野劇場で、あるいは梅田劇場で観た」という言い方をすることは滅多にありません。そう言う時は、70年代の映画を指します。

1980年(昭和55年)10月24日、ナビオのこけら落としの際の新聞広告がこれです!



僕はこの内3本を観ました。「テス」で見たナスターシャ・キンスキー、綺麗でした。「アーバンカウボーイ」はサントラが良かった。(笑)ジョン・トラボルタは、この頃は俳優としてはまだまだでした。「レイズ・ザ・タイタニック」は今いち。「将軍」はアメリカで大ヒットしましたが、テレビの日曜洋画劇場で見ました。主演のリチャード・チェンバレンは悪役が多くて嫌いな俳優でしたし、島田陽子に魅力を感じなかったので(所詮、仮面ライダーのお姉さん)映画館には行かなかったのです。

この劇場では先輩がバイトで「もぎり」をしていたので、実は全部タダでした。(笑)そうそう、「レイズ・ザ・タイタニック」は、劇場のこけら落としという事で、全国より早く先行上映されていました。


チャーリーブラウン ~豊中ロマンチック街道

2021-09-24 | 昭和の喫茶店

豊中・ロマンチック街道。中央環状線の少路交差点から、国道171号線の牧落交差点を結ぶ県道豊中亀岡線の愛称で、かつては北摂地区随一のおしゃれなエリアと呼ばれていました。

しかし、不思議なことが1つあります。「ぴあmap」という、エリア別カルチャー&グルメスポットガイドの書籍が、80年代から毎年発売されていたのですが、その本(かなり有名)には、この周辺及び新御堂沿いの箕面から千里中央周辺という、2大デートエリアは掲載されたことがなかったのです。



だから、当時の資料はなかなかありません。この通りにあった「チャーリーブラウン」に思い入れのある昭和30年~40年男は多いようです。ガラス張りで内部が透き通って見渡せ、とにかく広い駐車場がありました。誰もが車で行くのに、実は真の姿はバーでした。この通りで飲酒検問をやれば、いくらでも違反者を検挙できるし、それを可能とする道幅の広い道路も空き地もあったのに、ついぞここで飲酒検問を実施したことがありませんでした。(笑)

昼間は喫茶として利用できたのに、いつもガラガラ。日が沈むと共に人が集まってくるお店。とても開放的な広々とした店内には、ぎっしりとウイスキーの瓶が並んでいました。僕は昼夜共に使いましたが、お酒は静かに飲むのが好きなので、あまり行きませんでした。

学生時代、友人たちとここに行き楽しんだことを覚えていますが、酒代に回す小遣いが無かった苦しかった時代だったことも思い出します。


喫茶 「田園」 ~誰もが深夜まで座りました

2021-09-23 | 昭和の喫茶店

阪急東通りにあった、喫茶店「田園」ご存知ですか?

友人たちと昔のことを話すと、必ず出るのが喫茶店についての話題。今は、コーヒー・チェーン店ばかりで、個性あふれる喫茶店が本当に少なくなりました。増えることは無く、数少ない名店も、マスターの高齢化で閉店になって行きます。

富国生命ビルの前にあった田園も、いつの間にか無くなりましたが、記憶に残るお店でした。90年代初頭まではあったのですが、いつの間にか消えていました。この写真は、お店の写真を正面から撮ったものではありませんが、80年代始めの東通り商店街の写真です。右真ん中の白いお店の看板をご覧下さい。懐かしい「田園」のものです。この道を真っ直ぐ行き、新御堂を超えたら「フォーカルポイント」などのディスコがあり、後に戻れば阪急百貨店の前、ナビオの尖った先の交差点に出ます。この撮影地点を左折したら、OS劇場。右折したらお初天神通りへ。 

写真の左端のビルは、3階が「梅田ニューシネマ」です。ここは洋物のポルノを上映する映画館でした。当時大学生の方なら知っているかも。(笑)

お店は6階建てで有名バンドが生演奏をして、ステージが2〜5階までエレベーター式に上下するので、どの階のどの席にいても生演奏を聴くことが出来ました。夜中の遅くまで、タバコの煙がもくもくとする中、営業していたのを覚えています。いつ大勢で行っても、大抵席に困ることが無かったので、梅田でのコンパの後の2次回で重宝していました。夜はバンド、昼は音大生がフルートやピアノ演奏をしていました。

バンドは6回の楽屋からエレベーターに乗り、エレベーター式のステージで上下しながら演奏をします。ある階に綺麗な女性がいたりすると、その階での演奏時間を長くしたりしていました。(笑)客席の写真(右・真ん中)、右側に1人でおじさんが座っていますが、その後方ガラス張りの部分がステージの上下する部分です。40年も前に、こんな喫茶店が東通りにあったのですが、知っている人が少ないのが残念!

お店の外観は、90年代初頭のものです。写真左上の看板も、今日最初に掲載した写真よりも後に、新しく作られたものです。

現在は「アレグレ」「カンパーニュ」等という食事・パーティのお店になっていますが、かつての田園があった「田園ビル」を改装したもの。カンパーニュってフランス語で「田園」です。田園は、この東通りの本店以外にも梅田界隈に、オーナーが同じ名前で数店チェーン店を経営していました。 


改札口の切符切り ~国鉄大阪駅

2021-09-22 | 昭和・懐かしい大阪の風景

この駅は、「国鉄」大阪駅です。今とは随分変わりました。ヨドバシカメラを背に大阪駅を見た、1979年の光景です。



当時、阪急電車はとっくの昔に自動改札を採用していました。ちなみに阪急が1967年(昭和42年)に北千里駅に自動改札を設置したのは、世界初でした。(何と現在のオムロン製。この時は定期券だけに対応。)



僕が驚いたのは、80年代に入っても国鉄が、依然暫くの間自動改札ではなく、改札で切符を切っていたことです。民間企業と違い多額の人件費を支払いながら、赤字赤字と叫ぶ国鉄を、僕は当時あまり理解出来ませんでした。

それはさて置き、子供の頃に切符切りの玩具で遊んだことは、今でもよ~く覚えています。