GABACHOP〜あがんにゃな日々〜

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対話下手な男の独白

2006年07月22日 | 日記・コラム
 人とコミュニケーションをとるのがどうも苦手で、なかなか難儀な毎日を送っている。とくに初対面の相手と話をする場合、会話中にどうしようもない間ができてしまい、あたりが気まずい空気にまみれてしまうことしばしである。

 周囲の人間は、「人と接する気がない」だの「自分の殻に閉じこもっているから」とか、したり顔で言うのだが、てやんでい、こちとら友達や彼女が欲しくて欲しくてたまらない、“超”がつくほどの寂しんぼだい、そう堂々と胸をはって宣言できるくらい、コミュニケーションに心魅かれる、精神年齢が15歳くらいで止まったまんまの、三十路前の独身男である。もう、ほんっとに色々手を尽くしたさ。正面からぶつかって砕け散ったことも、小細工を弄して墓穴を掘ったことも数知れずだ。行動は起こそうと試みているのだよ。ところがどっこい、だがしかし、全くそこから次の一手に繋がらないのである。なぜか。

 僕は、人に何かをしゃべろうとするとき、必ずある疑問が頭をよぎる。この言葉になにか意味があるのだろうか、相手になにかを伝えるための言葉ではなく、会話をするため便宜上の言葉、仕方なく発せられる言葉ではないだろうか。もしそうなら、それって相手に失礼ではないか。
 そこをなんとか納得し飲み込むと、次にその内容を相手に伝えるための手段が一度に数十通りほど、頭の中に羅列される。そしてそこからひとつずつ効果的でないものを消去、最後まで残ったものを、さらに咀嚼して整理し、その事による相手の反応を予測し、どういう返答が帰ってくるかの不安と緊張にまみれながら、ようやく言葉を発する。いや、発せられればまだいい。時には、選択肢全てが消去の対象になってしまい、そこから新たに言葉を紡ぎださなくてはいけなくなるもしばし、結果、発する言葉がなくなり、あたりを無言の闇が覆い尽くすのである。

 僕の最も嫌いなことは、相手のつまらない言葉に対して、その場を取り繕うために愛想笑いで応じることである。これ、すなわち、相手をだまして自分の印象をよくするという、私利私欲に目のくらんだ忌むべき行動ではないだろうか。当然、この嫌悪にまみれた行為を相手に課すことも愚の骨頂であり、そうならないためにも、僕は必死に言葉を探し、選び、そして寡黙になってしまう。

 ちなみに言うと、僕の仕事は営業である。無論愛想笑いの毎日であるが、これは仕事なので許される。かなり矛盾している発言だが、なぜなら、仕事とは「利潤を追求する行為」であり、この行為を突き詰めた結果の行き着く先は、大抵ろくでもない末路であることは、名作「まんが日本昔話」などでも語られているところである。すなわち、仕事という行為自体が悪徳にまみれているのだから、その中で私利私欲の行動を行ったたとして、誰に非難されることがあろうか。人間が生きるためには、その引き換えに絶えず周囲に毒を撒き散らさねばならないことは言うまでもない。

 しかし、しかしだ。友とは、友情とは、無償の行為である。自分のことは一番最後でないといけないのだ(by『キン肉マン』)。そこに私利私欲の行為が混じってしまうと、もはやそこに友情など存在しないのである。
 先日立ち読みした青年誌で、元ハイロウズの甲本ヒロトは、「人間は一人が当たり前。本当の恋人や友人ができるなんて事はほとんどない。だからこそ恋人や友人ができた時は心からラッキーなことと思い、全力で大切にしなくてはいけない」と(立ち読み記憶の引用なのでかなり適当だが、大筋こんな意味のはず)。

 誰彼に対しても愛想がいいというのは、逆に言うと、誰彼に対しても偽りを持って応対していることと同じである、とまでは言わないが、僕はこれからも「コミュニケーションがなんぼのもんじゃい」「一人身万歳」を唱え、引き続き今を一所懸命やり過ごして生きて行こう、と決意を新たにする。

 とはいえ、やはり、話し相手のひとつも欲しく、出会いなんかにも憧れるので、たまには偽りの自分を磨き、小細工を弄すことも忘れないで行こうかなとも、ちょっぴり思っている、ある蒸し暑い夏の日の夜。