小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

戦争の爪痕を感じる1年~終戦記念日

2024年08月16日 | 戦争と貧困
8月15日は終戦記念日。
日本武道館で全国戦没者追悼式が執り行われました。
※映像は最後に貼ってあります。

小笠原村での戦没者追悼式は
母島では台風7号接近に伴い、時間を変更して17時から
父島では予定通り17時半から実施されたそうです。
これは硫黄島の摺鉢山にある特攻隊の慰霊碑です。

僕自身、
今年は戦争の爪痕をこれまで以上に肌で感じられた1年でした。
2月に硫黄島(小笠原村)、
5月に靖国神社(東京都)、
8月にひめゆりの塔(沖縄県)、
を周ってきました。

沖縄ひめゆりの塔。この下のガマ(鍾乳洞)で沢山の若い命が奪われました。

7月の硫黄島訪島事業では妻と娘ふたりが、
初めて激戦の地、硫黄島に行くことができました。
貴重な機会を
本当にありがとうございました。

行ってきた人からの感想や投稿を拝見していると、
やはり現地での学びの深さに改めて意義を感じています。
靖国神社 戦争で亡くなった方々が祀られています。

■本来の予定であれば、
母島に帰って、戦没者追悼式に出席する予定でしたが、
台風でおがさわら丸が欠航となり、
この日を内地本土で迎えることになりました。

小笠原、沖縄、本土と
それぞれに色んな見方はあるのだけれど、
平和に暮らしていた人々を戦地に繰り出し、
戦後79年経った今も、
色濃く戦争の影響をあらゆる場面で感じられると、
二度と戦争は起こしてはならないと強く感じます。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。戦争で亡くなった方々のご遺骨が納められています。

戦争がなければ、
硫黄島は楽園のままで、普通に島民が今も暮らしていたはずだし、
小笠原の在り方、文化も今とは違うものだった気がします。

沖縄も全く違った、米軍基地のない、
あんなに悲惨なガマでの自決もない今があったはずです。
沖縄ひめゆりの塔に献花をしました。

ただ、もう過去は変えれないので、
あとは今を生きる私達がどうしていくのか、
だと思うのです。

今は戦争をリアルタイムに語れる方が残る、
最後のタイミングだと思います。
ぜひ、足を運び、現地に行ってまずは知り、学んでほしいです。
靖国神社の横にある遊就館に展示されている人間魚雷「回天」。
ここに人がひとり入って、そのまま敵艦に突撃するのです。

難しい年表や背景、軍の部分よりも、
生々しい戦後遺族の手記、
最後の親への手紙、
弾痕しか残らない激戦の地の爪痕、
若き未来ある若者を強制的に散らせた時代の流れ、
稼ぎ手、働き手を失った家族の苦労、
沢山、沢山学んでほしいです。

何度も何度も言っていますが、
小笠原には戦跡と平和の鐘はあれど、
戦争の事を学ぶ施設や戦争資料を保管する場所がありません。
靖国神社横の遊就館に展示されている硫黄島の戦跡遺品の数々。


戦後79年経って、遺族に保管を頼まれた方も、
高齢化が進んで自宅に保管する限界に来ています。

小笠原の父島か母島に平和祈念館、
戦跡資料を保管、展示する場所が必要なのではないでしょうか?
このまま失われていいのでしょうか?

2023年12月の議会でも一般質問しています。
アーカイブ映像→
ぜひ多くの方に声をあげてもらい、実現したいです。
もう残された時間があまりないのです!


令和6年度 全国戦没者追悼式


まずは知ることから~小笠原でガザの映画上映会!!

2024年02月11日 | 戦争と貧困
■ガザ上映会(母島)が終了しました。
「こんなにも理不尽に人の尊厳を、
 子供の命までも失っている、
 現在進行形の状況をリアルに知って、
 溢れる想い、辛い気持ちで胸がいっぱいでした。
 ぜひ多くの人に知ってもらいたい。」
島の若きホープ、宮澤かれんが企画して実現した小笠原でのガザ映画の上映会。
冒頭が僕の感想です。
この映画を観るまでガザの現実の厳しさをよく理解していませんでした。
どんな機会からでもいいので、まずは知ることから始めなければと思いました。

主催の宮澤かれんの報告はこちら

住民の5%を集めた父島の翌日は母島での開催でした。
1/27(土)父島 3本立て 動員111人。
1/28(日)母島 2本立て 動員74人。
なんと人口比でいうなら父島を超える多くの島人が映画を観に来てくれました!

僕は大したことはできないけれど、準備や運営に関わらせてもらい、
涙が出る程嬉しい島の若者のアクションで素晴らしい学びの機会を頂きました。

かれんの呼びかけで、学校や島の中学生、卒業生なども準備や運営に関わってくれて、かれんの人徳をヒシヒシと感じました。
本当にお疲れ様でした☆

昼の部、夜の部と2回映画を観て、
ガザにも行き、今も支援、伝える活動をしてきている並木麻衣さん、
ガザに行った経験で平和実現を目標に様々な映画事業をしている関根健次さんのお話を聞いて、
本当に知らない事ばかりで、
このイベントに関わらせてもらって本当に有難かったと思いました。

12月の議会でも停戦を訴える決議に関わったし、
前々からうっすらと知ってはいましたが、
こんなにも丁寧にガザの現状とこれまでを知る機会はありませんでした。

去年11月にかれんが「ガザの事を知りたい!」を思って観た映画なのです。
映画を観て島での上映会を決意し動いた事に本当に感謝です。どうもありがとう!

■映画を観終わり、並木さんの講演を聞いて、
あまりの現実に言葉を失い、気持ちが重くなりました。

ガザが名古屋市程度の大きさと人口であること、
2007年から封鎖され、物資も人も自由に外と行き来できないこと、
200万人の人が限られた土地と物資で暮らしているので、
飢餓、貧困、病気、精神的な重圧などに悩まされている事、
ガザにある大学はすべて破壊され、小中学校も避難所になていて、子供達が学ぶ機会も奪われている事、
若者が未来に絶望し、イスラエル側に投石をして撃たれて、亡くなったり、手足を失う日々が今も続いている事、
そんな中でも3年おき位に戦争が勃発し、特に去年の10月からのハマス討伐の為の攻撃があまりにむごい事、
この3か月で2万2千人が亡くなり、そのうち5千人を超す子供が亡くなっていること…

それに向けた歴史背景も少しだけ学ぶと、
同じ夢を持ち、当たり前の日常を夢見ている人々の暮らしが
こんなにも蹂躙されている事に言葉を失いました。


■現在進行形の
ロシア・ウクライナでも、
チベット、モンゴル、ウイグルでも、
東ティモールでも、
知れば知るほど、人の愚かさ、恐ろしさが伝わって来ます。

と同時に、
どこでも同じ人間の普通の営みがあって、
戦争、ジェノサイドに巻き込まれたりしているのは
一般の市民・子供達だという辛い現実を
どうにかしていけないものかと感じさせられました。

今、自分にできる事はお金の支援や、
こうして人に伝える事だけだけれど、
もっともっと人の根源に関わるこの問題に
向き合って動いていきたいと思いました。

■僕が所属している小笠原村議会は12月の小笠原村議会定例会で、
清水良一議員からとても大切な発議があり、
全会一致で可決されました。

平和都市宣言をしている小笠原村の村議会からの平和へのメッセージです。

●パレスチナ自治区ガザにおける平和の早期実現を求める決議

「平和都市宣言をしている小笠原村は、世界中の人々が、恒久平和を誓い、
 平和を分かち合えることを願っている。
 パレスチナ自治区ガザにおける戦闘において、
 多くの人々が傷つき亡くなり犠牲となっている現状は、決して看過できるものではない。
 小笠原村議会は、平和的解決による「人道的即時停戦」のための努力を強く求める。

 以上決議する。
                           令和5年12月14日
                             小笠原村議会」

僕は村議会議員としても、イチ個人としても、
清水議員のこの提案に賛同し、調整に関わらせて頂きました。

戦争はいつも罪のない一般市民や子供達が命を落とすことに深い憤りを感じています。
あまりに悲しいニュースが日々流れてきます。

小笠原は激戦の地、硫黄島があります。
今も1万のご遺骨が眠ったままです。

父島にも母島に戦跡が残り、
大砲跡はあるし、
今も畑からは弾薬が出てきます。

もう二度と戦争なんて馬鹿な真似は
起こさせたくないと思っています。

どうか、少しでも戦争が無くなることを祈っています。


■今回、次女もガザの事を自主的に学び、積極的に関わり、
家に帰ってからもガザの事を話していました。
学校でも先生がガザの事を教えてくれていたそうです。

長女も当日、色々準備や運営を手伝ってくれて、
未来にも微かな手応えを感じました。
本当にお疲れ様でした!!

チームで支えてくれた皆さん!
映画を作ってくれた皆さん、
並木さん、関根さん、
大金額を抱えても企画、主催してくれたかれん
どうもありがとうございました!!

そして大切なのはこれからどうするか!?だと思います!

参考URL ガザ地区とは?

映画『ガザ 素顔の日常』予告編

戦没者追悼式と大好きな先輩の旅立ち

2023年08月26日 | 戦争と貧困
■今年も8月15日がやって来ました。
終戦記念日です。

毎年、この時期になると、広島、長崎の原爆被害、戦争を考え、
命について考えさせられます。

太平洋戦争の激戦の地となった硫黄島がある小笠原。
21,900人が戦死し、まだ1万柱以上のご遺骨が眠ったままの硫黄島。
毎年、遺骨収集は行われていますが、ご遺族の高齢化も進んでいると聞いています。
戦後78年を迎える今も、硫黄島の戦後は終わっていないのです。

小笠原に移住してから、この8月15日はずっと戦没者追悼式に出れる限り出席してきました。

僕は小笠原に移住するまで、
戦争を経験していない、戦争の話を直接聞くことの経験があまりありませんでした。

この追悼式に出席する事、それから島の戦跡や歴史に触れる事、
介護や硫黄島訪島事業でご遺族の話を聞くこと、
沖縄に行って様々な戦争を知る機会などで
少しずつ戦争というものが、どれほど悲惨な事かという事が少しずつ分かって来ました。

今も、ロシアとウクライナの戦争は1年半以上も続いているし、
様々な小さな紛争はこの今も起こっています。
軍事費が増やされ、核抑止論などもよく語られるようになってきています。

凄く悲しいことです。
戦争を決定するのも、動かすのも国の上層部ですが、
いつも被害を被るのは一般市民です。
世界平和を実現しなければなりません。

日々、島のレジェンドと関わると、
戦争当時の話を聞くことがあります。
親戚や、優しかったあの兵隊さんが硫黄島へ向かい、
帰らぬ人となった話など幾つも聞くのです。

小剣先山の麓で、米軍に機銃掃射を受けた時、
パイロットと目が合って、相手は笑っていたという話も聞きました。

今お話を聞かせてくれる80,90代のレジェンドは
多感な十代を、島の暮らしを戦争に翻弄され、
強制疎開で慣れない本土での生活を強いられたのです。

その度に胸が締め付けられます。

戦争が無ければ、あのまま楽園だったと思える硫黄島。
今回の8月15日は本当に色んな事が起きて、
沢山の学びとなりました。

■母島の戦没者追悼式はお昼少し前に始まります。
12時ちょうどの防災無線による黙祷に合わせる為です。

今まで、一般島民や青年会、PTA会長など、
色んな立場で出席してきましたが、
今回は村議会議員としての参加でした。

今回は準備から関わらせて頂きました。


そして、この日をずっと緊張して準備を進めていた人がいました。
次女です。
追悼式の「平和の誓い」として、
子供代表で出席していました。

次女はこの時、中学2年生。
丁度硫黄島の勉強をするタイミングでした。

夏休み前の硫黄島訪島事業(上陸無しの3島クルーズ)は、
なんとコロナに感染してしまい、残念ながら次女はお休みになってしまいましたが、
夏休みに母親と広島の平和記念公園に行き、
原爆の被爆者の話を直接聞いて、
戦争への理解、そして自分たちの今後の行動についてもよく考えているようでした。

そして、8/15に母島にいる中学生は次女だけということが判明し(夏休みでみんな留守!)、
彼女が平和の誓いをスピーチすることになりました。

前日の夜は日付を跨ぐほど、文章を考える程、
ずっと話す言葉を選んでいました。

当日、ドキドキのリハーサルを経て、
しっかりと本番では平和の誓いを話していて、とても素晴らしかったです!


次女がスピーチする前ですが、
みんなで黙祷する1分間、平和の鐘が鳴らされます。
その瞬間、いつもみんなの祈りの波動を強く感じるのです。
とてもとても大切な時間だと思います。

平和への祈りが力を感じさせてくれました。

1日もはやく、世界が平和になるように、
1日もはやく、ご遺骨が見つかって本土、ご遺族の元に帰れることを願ってやみません。


■そして、今回の8月15日は別の意味でもとても大きな1日でした。
その日の朝に大好きな母島の先輩が亡くなったのです。

50代という若さで、天へと旅立って行きました。
あまりにはやいお別れでした。

大好きな小笠原太鼓を叩き、
優しく教えてくれて、
カヌーも一緒に漕ぎ、
男フラの時のパーカッション(一斗缶と便所スリッパw)をしてくれた、
大好きな大好きな先輩でした。


その3日後の8/18に火葬式を行うことになりました。
内地から急遽、ご親族も来島し、
大好きな先輩のお別れとなりました。

みんなの太鼓が鳴り響き、
先輩が大好きなレゲエが流れる、
厳かで温かい雰囲気の火葬式でした。


父島からも村長や課長さん、
友人が駆けつけてくれました。

僕は去年から母島の火葬場のオペレーターとして仕事をしていて、
すでに数回経験をしています。
誰一人知らない人を火葬したことはありません。
みんな生前、話したことがあるし、
仲良くさせてもらっていた方たちばかりでした。

年齢も100歳を超えるレジェンドもいらっしゃって、
本当に心からお疲れ様と思える火葬をしてきました。

でも、今回は、
僕は骨を拾いながら、
急に寂しい気持ちがこみ上げてきて、
目から涙が溢れました。
ただただ、寂しい気持ちが溢れてきました。

前日まで、思い出コーナーとして準備する写真の取り込みや、
遺影の写真を選ぶ作業をしたりして、
ああだこうだ言いながら、
でも家族の先輩を想う気持ちがすごく優しくて、
骨を拾うまで、こんな気持ちにならなかったのに…
この文章を書いている今も寂しい気持ちが溢れて止まりません。

きっと天国で先に待っているお師匠と、
笑顔で飲みながら太鼓を叩いていると思います。

大好きだった先輩、
心からご冥福をお祈りします。



■この1年間、
こんなに命の事を考える事はないのでは?と思うほど、
色んな魂を見送って来ました。

誰にでも平等に死は訪れるものだけれど、
こんなタイミングってないでしょ⁉って思うような別れがあります。

当時は疑問にも思いませんでしたが、
39歳で亡くなった父も、55歳で亡くなった母も、
今思えば早すぎるのです。

あまりの現実に心が追い付いてこないのです。

僕自身もいつ死ぬか分からないので、
後悔のないように生きようと強く思わされます。

戦争をなくすことはもちろん、
みんなが笑って過ごして、
みんなが笑って最期を迎えれるような、
そんな世の中にしていきたいと思える、そんな夏の日でした。

どうもありがとうございました。








戦後77年の終戦記念日に

2022年08月17日 | 戦争と貧困
■8月15日。
終戦記念日。

この夕焼けは8月15日のものです。
圧倒的なこの焼けを見ながら、色々思うことがありました。

今この瞬間もロシアによるウクライナ侵攻で戦争が続いているし、
報道されない紛争や略奪、不当な苦しみで過ごしている地域があります。

最近ではチベットやウイグルの人たちの祖国と文化を奪われる悲惨な本などを読んだりして、
世界は全然平和じゃないと落ち込んでしまったりもします。

ロシア、ウクライナについても様々な情報が飛び交い、
ロシア側のプロパガンダ的な発信は信用できないと思うし、
西側メディアの情報も鵜呑みにできないと思っています。

核の保有や軍の配備、どちらかに従う事などで戦争がなくなるワケがないのは百も承知です。

でも、やっぱり世界平和は多くの人が強く願っていることだと思うのです。

昔、山梨と新潟が本気で戦争して殺し合いをしていたのに、
ヨーロッパなどの王国や国々が戦争をし続けていたのに、
EUや時代で今では戦争が相当起こりにくい状態になっています。

そんな状態が地球規模で成り立ったら、どんなに素晴らしいのだろうと思っています。


■今年も小笠原では戦没者追悼式典が行われました。
僕は父島に住んでいたころから、すっとこの式典に参加していました。
家族もコロナ禍の前まではできる限り参加していました。
とても大事な事を思い出させてくれる場所なのです。
近年は招待されて出席する場合も多くなりました。

村長、議会、総合事務所所長、東京都小笠原支庁長が来賓としてスピーチしていました。
現在の戦争や紛争、そして太平洋戦争で失われた命に対して追悼の言葉を述べていました。

毎年、その言葉を聞きながら、
戦争を実体験として経験していない自分にとってできる事はなんだろうか?
今を生きる、未来に生きていく子供たちに戦争や紛争のない世界をどうやって作っていけるのか?
をずっと考えていました。

力ではなく、対話を。
といっても侵略されてしまったら?
今回のウクライナ侵攻で、北方領土をすぐ数十キロ先に構えているリアルさを痛感しながらも、
インドネシアから独立した東ティモールの行動が痛烈に思い出されました。
家族が無残に殺されてもなお、復讐ではなく、
27年もかけて説いて理解を求めていったという行動
を強く思い出しました。


■これは硫黄島の摺鉢山です。
手前の海岸は米軍が上陸してきた海岸です。
2016年の硫黄島訪島事業の時に始めて訪れることが出来ました。
太平洋戦争が終わってもう77年経つのに、未だに故郷に島民が帰れていない、埋まったままのご遺骨が1万以上も眠っている…
そう、小笠原はまだ戦後が終わっていないのです。

77年前、太平洋戦争があった時、今私たちが住んでいる小笠原諸島は日米両方にとって、とても重要な位置として考えられていました。
その中でも平らで空港を作れる地形の硫黄島は最重要軍事地点として定められました。
ここから日本本土へ直接空爆に向かえるからです。

その為に硫黄島は地下に何十キロと壕を掘り、島全体が要塞となりました。
沖縄とは違い、一般島民は日本本土に強制疎開となりました。
硫黄島は米軍が上陸してきて、激戦地となりました。
幾人かの島民は軍に所属して、硫黄島でも多く亡くなっています。

父島や母島は上陸して戦闘になる前に終戦を迎え、
空襲などで済んだそうですが、上陸戦に備えて、要塞化されていて、
今もその戦跡がいたるところに残っています。

小笠原はそんな歴史的な背景から、平和都市宣言を行っています。
僕はそんな小笠原だからこそ、平和に向けてできる事がもっとある気がします。

戦争を直接体感していない世代の僕たちは、
もっともっと戦跡や硫黄島の今も弾痕だらけの岩壁を見て、
戦争の事を考えなければいけないと思うのです。

~小笠原村平和都市宣言~

平和で豊かな自然の中で暮らす我々小笠原村民は、世界中の人々が平和を分ちあえることを願う。
この願いは、小笠原の生い立ちが物語つている。

我々の先人が築いた文化を、歴史的に分断した強制疎開。
今なお一般住民の帰島が許されず、遺骨収集もままならぬ玉砕の地硫黄島。

このような地小笠原に生きる者として、戦後50年を迎えるにあたり、
不戦と恒久平和を誓い、豊かな自然を後世に残すために、
小笠原村が平和都市であり、またその使命を全うすることを宣言する。

平成7年8月15日
小笠原村




■広島に原子爆弾が落とされた8月6日に平和記念式典がありました。
そこで核について、とても心に染みる言葉で否定した湯崎英彦広島県知事。
ここに紹介したいと思います。

本日、被爆77年を迎えるに当たり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して、謹んで哀悼の誠を捧げます。
そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

あの時、川土手で、真っ赤に燃え盛る空の下、中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていたお母さん。
その声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった。

生き延びても孤児となった子どもは、転々と身を寄せた家に居場所もなく、廊下に風呂敷を置いて着替え場所とし、被爆者の病気はうつるなど、差別に苦しんだ。
被爆者が、人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、この原爆の、核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。

その思いが原動力となり、今年6月、核兵器禁止条約第1回締約国会議が開催されました。
被爆者の切実な思いが、世界をもう一歩前に進めた瞬間でした。

他方で、東欧では侵略戦争が勃発し、あまつさえ、その侵略国は核兵器の使用も辞さないとあからさまな脅しを世界にかけるばかりか、当事者でない国の人々さえ、身を守るためには核兵器が必要だと言い始めています。
我々の多くが、侵略者の脅しが単なる虚勢ではなく、実際に核兵器が使用される危険として認識したのではないでしょうか。
つまり核兵器は、現実の今、そこにある危機なのです。

ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。
世界の長い歴史の中で、理不尽で大量の死を招く暴力は、悪により、しかし、時に正義の衣をかぶりながら、連綿と繰り返されてきました。
現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言い難いかもしれません。
人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば、この歴史の事実を直視し、これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。

しかしながら、力には力で対抗するしかない、という現実主義者は、なぜか核兵器について、肝心なところは、指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。
本当は、核兵器が存在する限り、人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。

今後、再度、誰かがこの人間の逃れられない性(さが)に根差す行動を取ろうとするとき、人類全体、さらには地球全体を破滅へと追いやる手段を手放しておくことこそが、現実を直視した上で求められる知恵と行動ではないでしょうか。

実際、ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。
今後、繰り返されうる対立の中で核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。

地球温暖化は200年、パンデミックは2年超かけて、人類の持続可能性に疑義を突き付けました。
核兵器は、誰かがボタンを押せば人類の持続可能性は30分かもしれません。
核兵器廃絶は、人類の持続可能性のために最も喫緊の課題であることを認識し、最後の核弾頭が解体・破壊され、この地球上から核兵器が完全になくなるまで休むことなく全力を尽くすことを改めてここに誓い、平和へのメッセージといたします。

令和4年8月6日 広島県知事 湯崎英彦



■「戦争は究極の自然破壊行為です」
鳥類学者の川上和人さんが島のガイド講習で言っていた言葉を思い出します。

固有種や貴重な動植物を抱える小笠原。
今もその保全活動に莫大な予算と手間がかかっています。

だけど、戦争になればそんなものを保護するゆとりなんて無くなります。
自分たちの命がかかってくるからです。

その証拠に火山列島の北硫黄島、南硫黄島は山ばかりで戦争の舞台になりにくかったことからか、
貴重な動植物が沢山残っていますが、
一番大きくて豊かなはずの硫黄島はその貴重な動植物がほとんど残っていません。
(飛べたり、風で飛来できるコウモリやハトはいます)

島で畑で普通にライフルの弾や砲台を見る時、
山の中の戦跡を見る時、
こうして終戦記念日に黙とうをして、戦没者に追悼するときに、
追悼だけでなく、自分たちが未来の平和にないして何ができるかをさらに考えるようにしたいです。

最後に僕は歴史や戦争に全然疎かったのですが、
高校の時の歴史の先生が
「君たちに一番大事なのは近代史、戦争の事だ。
 教科書に載ってない戦争の本当の姿を教えるからな!!」
と熱く授業をしてくれた恩師のお陰で一気に戦争に対して学ぶことが出来ました。

今回の資格取得旅で仙台に行き、久しぶりにその恩師に再会できて、
すごく嬉しかったです。
あの教えがなければ、あの年齢の頃から戦争について前のめりになれなかったと思います。
今でも深く感謝しています!
本当にありがとうございます!

※最近の参考
田中優さんのウクライナ紛争の記事が色々と勉強になっています。

THE BOOMのMIYAが語る戦争と島唄と三線

2019年10月01日 | 戦争と貧困
■2017年2月、僕は沖縄本島のやんばるにある自分のルーツを辿る旅をしました。

これは伊江島のとあるお店に飾られてあった三線です。
この三線が作られる背景について語られた印象深い記事を見たので紹介したいと思います。

僕は小笠原に来た頃によく歌っていた曲があります。
それは20代の頃。
THE BOOMのヴォーカルMIYAこと宮沢和史さんが組んだユニット、
MIYA&YAMIのシングル、「神様の宝石でできた島」です。

元々は父島のおがさわら丸出港の時に、サザンクロスVという船が見送りの時に大音量で流していた曲です。

僕が小笠原ユースホステルやアンナビーチ母島ユースホステルで働いていた頃に、
毎便出港日の前の夜の宴で歌ったものでした。

大事な人の出逢いと別れに歌て来ていて、
今でも歌詞やコードは見なくてもすべて弾ける曲の一つです。


■そんな大好きなTHE BOOMのMIYAが語る戦争と島唄と三線の記事を見つけたので紹介します。

記事の内容です。


【「沖縄」を考える】島唄、三線弾けなかった一節 宮沢和史さん

「朝日新聞デジタル」2019年9月30日05時00分

 母方の祖父は硫黄島で戦死しました。
毎年8月15日が近づくと、私の母は、戦争の特集番組を流すテレビに向かって、「なんでだ」「まったくだ」とつぶやいていました。
母の怒りの矛先は敵国ではなく、どうやら「日本」。子どもながらにも、そのことが気にかかっていました。

 その意味に気づいたのは20代に入ってから。
音楽への興味から通い始めた沖縄で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたときでした。
10代の女子学生たちが軍国教育や日本軍によって死に追い込まれていったことを知りました。
そうした死も、祖父の死も、政府と軍が選んだ誤った道の果てにあったのだと思い至りました。

 何よりも、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦という日本の歴史を、
20年以上も生きてきて知らなかったことが恥ずかしくなりました。
どうしたらいいのかと考え、僕には歌しかないと作ったのが「島唄」です。
ウージの森(サトウキビ畑)を走り回っていた幼なじみの男女が、
地下のガマで互いに殺し合ったという話も、歌詞にしました。

 〈ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら〉

 この一節です。レとラを使わない琉球音階をベースにした曲ですが、この歌詞の部分だけは西洋音階です。
琉球音階を使えなかった、三線(さんしん)は弾けなかったという方が正確です。
「日本」が彼や彼女を死に追いやったと知ったからです。

 今は辺野古の問題をめぐって日本政府と沖縄の民意が対立していますが、
沖縄の人たちの怒りの中心にあるのは、尊厳の問題なんだと、私は感じています。
同じ目線に立って話をするという当たり前のことを本土の側はしてこなかった。
日本政府の態度やものの言い方には、尊厳に対する敬いや配慮が足りない。

 僕の発言で何かが変わるとは思っていないし、こうすべきだと言うつもりもありません。
ただ、遠回りでも地味でもいいから、僕とかかわった人が沖縄について、平和について何か気づいたり、考えたりするような活動を続けたい。

 その一つとして、三線のさおの材料になるリュウキュウコクタンを沖縄で育てる活動を始めています。
育つまでに100~200年くらいかかる。僕も含めて誰も生きていませんが、
育てた木で三線が作られるなら、その間は戦争が起きなかったことになります。
(聞き手・藤原慎一)

 
 みやざわ・かずふみ 音楽家 53歳 山梨県出身。
「島唄」で知られる「THE BOOM」(解散)のボーカル。沖縄民謡の保存にも取り組む。

※写真は全て2017年の沖縄で撮影したものです。

そしてこんな裏エピソードがあったそうです。

「島唄」を発表した何年もあとに三線職人の方々と呑んでたら、
「あの歌はとっても良かった、おかげで三線もたくさんの人が弾いてくれるようになったし、俺たちも作り甲斐があるよ。
でもね、あの後から三線の棹を制作する木材、琉球黒檀が足りなくなって輸入が始まったんだよ」と。
その時には、三線職人の方も場を盛り上げるために話してくれたんだろうと思うんですが、僕的には笑えなくてね……。

三線が普及したことがいいことだけど、琉球黒檀の三線が必要な人に、届けることができないということ。
だったら植えて育てるしかないということで、色々調べてみました。

すると、黒檀という木は、三線の棹になるくらいだからとても硬い木。
なので材料として使えるようになるには、最低100年、ものによっては200年〜300年かかるということが判明。
これは、ひとりでできることではないと、平田大一さん(前・沖縄県文化振興会理事長)にお話したんです。

そしたら、数年前に読谷村の座喜味城跡の敷地内で三線を植える事業があったが、
それが終了し半ば宙ぶらりんになっているから、それを引き継がないかと。

それでスタートしたのが『くるちの杜100年プロジェクト in 読谷』です。

月に一度、草刈りをしたり、年に一度は音楽祭をしたり、おかげさまで徐々に参加人数も増えてきてます。
この木が三線になるまでには、100年以上かかりますから、いま草刈りしている人たちは、この木で作った三線の音は聴けないわけです。
でも、「子どもたちがこれで三線を作って弾いてくれるといいな」という共通の夢を持つこととができる。
浪漫ですよね。そして、もしこの木が三線になるということは、
この島には100年〜200年、戦争がなかったということになる。そういう裏のテーマもあります。



■あの大ヒットした名曲、「島唄」が沖縄の戦争について歌っていると知ったのは、
なんと5年ほど前でした。

100年以上かけて育つリュウキュウコクタン。
子どもの、孫の世代を考えて、
三線が作られる時代が続けば、
その分戦争が無かったことになる。

人として、ミュージシャンとしてのMIYAの言葉に心打たれました。

そしてなんと祖父が小笠原の硫黄島で亡くなっていたとは…
僕のひいおじいちゃんは沖縄本島の辺野古です。

沖縄と小笠原と戦争と音楽。

不思議なご縁を感じずにはいられませんでした。

以前、2016年に硫黄島を初めて訪れた時の記事があります。

これは硫黄島の米軍が上陸した浜からすり鉢山を望んだ写真です。

小笠原も戦争さえなければ、
あの時の強制疎開、硫黄島の玉砕が無ければ、
今とは全く違う文化や暮らしの残る小笠原だったと思うのです。

二度とこんな哀しいことが起きないように、
私達は戦争のない世界をどうにかしてでも作り上げなければいけないのです。

9.11-18年前の今日。

2019年09月11日 | 戦争と貧困
■今日はあの世界同時多発テロがあった9月11日。
今から18年前の2001年。

その頃学生で、朝まで友達の家でゲームをしていて、
TVを付けたらビルに飛行機が突っ込む陳腐な映画をやっていると思ったら現実だったのを思い出します。

ミレニアムの雰囲気を一気に吹き飛ばすインパクトがあり、
そこからアメリカは中東に大量破壊兵器があると因縁を付けて戦争を仕掛けます。


■色んな世界の、
色んな国で、
今もなお戦争や紛争が続いています。

複数の飛行機をハイジャックして、
ビルに突っ込むほどの恨みを持たせた背景、
そこに生まれた報復の負の連鎖。

今の日本と韓国や中国、北朝鮮、
香港、チベット、シリア、中東など、
身近にも人の強欲と意地とプライドで、
理不尽に生活を追われ、
無残にも命を奪われる一般の市民。

沖縄の米軍基地の問題も解決しないまま、
住民の反対を押し切り、
高江のヘリパットは作られ、
辺野古の基地工事は進んでいます。

小笠原に至っては、
激戦の地、硫黄島にはまだ1万の骨が埋まったままになり、
島民が帰島できていません。

戦争によって文化と伝統と暮らしを絶たれた小笠原の戦後もまた、まだ終わっていないのです。


■この世界の争いを変えていくには、
どうしたらいいのでしょう?

負の連鎖を断ち切らなければ、子どもが笑顔の未来はないと思うのです。

途方もないことだけど、
まずは自分の家族、
身の回りの人と対話し、
価値観が違くても、
お互いが尊重し合える関係を作っていくことから始めないと行けないと思うのです。

肌の色が違くても、
国籍や文化が違くても、
みんな一つの地球に住む家族です。

地球という名前の大きなカヌーを漕ぐには、
もっともっと、それぞれがお互いの事を想わなければいけません。

とりとめがなくなりましたが、
9.11とその背景を考えたら、
少し、シンプルに自分の立ち位置を見直すきっかけになりました。


人の心の闇について考える

2019年05月28日 | 戦争と貧困
■本日、午前中に山で仕事をしていたら、仕事の同僚が言いました。
「川崎で男が刃物で10人以上も刺して、最後に自分も刺したんだって。
 刺されたのは小学生や周囲の大人だって。もう怖い。」
小学生と高校生の娘を持つ身として、胸が張り裂けるおもいでした。

スクールバスに並んだ子供たちを狙って、
51歳の男が及んだ犯行。
小学六年生の女の子と成人の男性が亡くなり、18人が刺されたというこの事件。

犯人は自殺してしまったので、動機や真相が分からないのですが、
この日本において、こうした事件が続いています。
人の心の闇が引き起こすことだと思います。

そんな心の闇を増大させ、
行動を起こしてしまう加害者を作ってしまうこの「社会」を作っているのが、私達なのだと思うのです。
このままにしておいては何の解決にもならない。

まったくもって他人事ではないと感じたのです。

■2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件
トラックで交差点に突っ込み、
更に刃物で刺して7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した事件です。

こちらの犯人は母親との確執、社会への怨念があったようです。

2001年に発生した大阪池田小学校で発生した無差別殺人事件
凶器を持った男が侵入し、次々と同校の児童を襲撃し、児童8名が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った痛ましい事件。

これも厳格な暴力を振るう父と、家事ができない母親が犯人の人格形成に大きな影響を与えていたようです。

自分自身もきちんと娘たちと親子関係か築けているか、今一度見つめなおしています。


■こうした事件を起こした犯人を逮捕したり、
実刑を行ったり、法律を厳しくしたりで対処するわけですが、
問題は加害者が何故このような犯行に及んだのか?が重要になってくると思います。

そして、そのほとんどの根底が親子関係にあるような気がするのです。
そして、そのような環境で育った人をフォローできない社会が問題だと思うのです。

しかし、問題定義で終わってはいけません。
それではずっと社会はこのままでしょう。
自分に何かできないか?
行動することが必要だと思います。

■今の先進国・日本は世界でトップクラスの自殺者を誇る国になってしまっています。
生きるのが辛い、
仕事がうまくできない、
人間関係がうまく築けない、
誰からも愛されていない。
孤独と孤立感。

忙しくて倒れている人を助ける事もしない社会。
電車で赤ちゃん連れやお年寄りに席も譲らない社会。
インターネットでは匿名であることをいいことに思いやりもない罵倒の嵐。
SNSでコミュニケーションの頻度は増したけど、対話の質は下がった気がします。

どうして日本はこうなってしまったのだろう?
多くの人がそう思ったと思うのです。

それは自分たちがこの社会を作っているという、
当事者意識が薄いからだと思うのです。
(僕自身もまだまだ薄いと思っています。)

こうなってしまったことに対して、
人のせい、犯人のせい、社会のせい、法律のせいにして終わってしまっていないだろうか?

自分の住んでいる地域や職場で、
何か困っている人、苦しんでいる人を見過ごしていないだろうか?

自分自身に問いかけます。

自分が困っていた時、沢山助けられました。

今、自分に出来ることはないか?

人の為に出来る事はないか?いつも自問自答しています。


■平和な小笠原だって例外ではないのです。
悩み、苦しみ、辛くなっている人が沢山います。

超楽天家の僕ですら、そんな時もあります。
死にたいと思うことだってありますし、
もうこの現実が嫌だと思うときもあります。
(さすがに人を殺してしまおうと思ったことはありませんが)

そんな時は島の自然や野生動物、
友人や家族、島の人が助けになることが沢山あります。
本当に有難い限りです。

だからこそ、自分が人に出来る時はできる限り困っている人や苦しんでいる人をフォローしたいと思っています。
それが、支えてくれた人たちへの恩返しだと思っています。


■今回の川崎殺傷事件もそうです。
車が子供たちに突っ込む事件もそうです。
9.11テロだって、サリン事件だってそうです。 

失った命は二度と帰って来ません。
取り返しのできない尊い命。

その命の犠牲を無駄にしない為に、
私達はしっかりと自意識を持って、行動し、暮らしていかなければ社会は変わらないと思うのです。

マスコミは視聴率さえ集まれば何でもいいので、
凶悪事件、芸能人のゴシップ、スポーツの報道三昧でしょう(TVがないので予想です)。
それを求める私達がいる限り、マスコミも変わらないでしょう。

結局、犯人を悪者にして刑罰を与え、法律と制度を整備して終わりです。
先生が「いじめは悪いことだからやめましょう」と言っても、
根本的に解決していないので、ほとんど意味がないのと同じだと思います。

根本的に人が生きづらい社会を自分たちが変える意識を持ち行動しないと、
こうした事件はいつまでも続くと思うのです。

家庭が、
社会が、
生きづらいから、
第2、第3の加害者を生んでしまう。

人のせい、人任せにしないで、
自分たちが社会を作っていく意識と行動。

そして調和してく社会を作っていかなければいけないとひしひしと感じた1日でした。
亡くなった皆様のご冥福を祈るとともに、
負傷した被害者の皆様の一日も早い回復、
子ども達のトラウマがはやく癒える事を祈っています。


沖縄と米軍基地問題(沖縄本島滞在記③)

2017年02月20日 | 戦争と貧困
■今回の沖縄本島に行った目的の一つは米軍基地問題を
この目で見て、聞いて、感じることでした。

今回はメディアでもよく見にする辺野古と高江にフォーカスしました。
自分が住む小笠原も沖縄と同じくアメリカ統治時代がありました。
小笠原は沖縄と違い、徴兵された島民以外は皆内地に強制疎開されているので、
日本人が住んでいない長い期間があり、
文化も伝統もほとんど失ってしまった経緯があります。
今も激戦の地、硫黄島には一般住民は帰れず、
小笠原も沖縄も戦後が終わっていないと言えると思います。

※これは伊江島の山山民具資料館の外にある砲弾です。

■僕自身、沖縄は2000年、2006年と3回目。
2000年の時は僕自身がまだ10代で、新しい世界を見るだけで精一杯でしたが、
2006年は当時2歳半の長女を連れて家族で日本を回っている時でした。
その時は高江のヘリパットの問題は浮上していました。
同様に信州・大鹿村をぶち抜くリニアモーターカーの話も耳にしました(どちらも今は進んでます)。

その時、感じたのはこんなに反対している人がいるのに、
突き進める行政の理不尽さを感じていました。
しかし、今回は同様な気持ちも感じたのですが、
色々な側面から見て、聞いて、感じることが出来ました。

※伊江島の洞(ガマ)から出てきた遺骨。

■まずはじめに辺野古に行きました。
友人も知人も多くの自然を大切にする友人が反対運動に関わっています。

僕自身も基本的にはこれ以上今ある自然を破壊して、
基地を増やすのは反対だと思っていますが、
その土地に住んでいない僕が大きな声で言えないと考えています。

レンタカーでまず辺野古の集落に止めれる場所を探しました。
そこに年輩の方が現れて、声をかけられました。
「なにしにきたんだ?」
と聞かれたので、辺野古のゲート前の現状を見に来たと言ったら、
「あんなところに行くんじゃない!ここら辺じゃ反対している人は3人しかいない。
みんな賛成しているのに、外からきた奴らが反対運動している。とても迷惑だ」
と言っていました。
そこで僕は賛成反対をしに来たのではなく、
現状を見て学ぶために来たと話したら、
「そんならぜひ行ってこい!車も停めて良いぞ!」
と言ってもらえ、色々話を聞かせてくれました。
つまりは今の暮らしは米軍基地があるお陰で生きていけるから辺野古にとって必要ということでした。


■その後、基地ゲート前に行きました。
沢山の車が米軍基地に入り、出て行きます。
そのゲートを過ぎると、辺野古基地拡大のための工事作業入り口になります。

そこには多くのテントが並び、
これまでの経緯や記録、
機動隊や海保との衝突の写真が飾られていました。

その場書を過ぎると多くの人が座り込みをしているゲート前になりました。
その後ろには機動隊の人がずらっと並んでいました。

暴力や過激な方法でなく、
平和な行動として座り込みで反対する人々。
話を聞くと沖縄の人も多くいましたし、
僕が行ったは東京から来ている人達も沢山いました。

噂では反対運動をするとお金がもらえる、
座り込みをしている人は県外の人ばかり、
と聞いていましたが、
現実はそんなお金をもらえるならどこから?と思えるほど、
質素なものでしたし、
県外の人は土日は増えますが、
やはり沖縄の人が多く来ているようでした。

話を聞くと、もう3年も続けているが、
本当に疲れてくるが、政府には頭に来る。
日本の多くの人がこうして自腹を切って現場に来てくれるのはとても嬉しい、
お陰でまだやれる元気をもらえるということでした。

しかし、残念なことに反対運動しに来る人の中には
過激な思考をもつ人が時々来るのも事実で、
ネットで凄い嘘をかかれて、それが報道されて多くの人
が嘘の情報を鵜呑みにしてしまったことがあったそうです。

僕はこうして日当を頂いて、どういう本心かは分かりませんが、
警備や監視、作業にあたる人がいる中、
自分の仕事も休んで、3年も座り込みを続ける人達が心底、凄いと思ったのです。

全身に想いがつまったAKOちゃんがぜひ!
というので座り込みの前でマイクで発言することに。
僕は賛成反対ではなく、
もっとシンプルで
自然をこれ以上破壊しない方法を考えて欲しいこと、
自分たちの子供の未来に二度と戦争が起こらないようにしたい、
そういう意味でこの座り込みを応援していると話しました。

■今回行った伊江島では「命どぅ宝資料館」という戦争の悲惨な歴史、
戦後に政府やアメリカと血の滲む活動の歴史を展示している資料館があります。

生々しい戦場の遺品、
集団自決して生き残った手記、
壕の中で泣くわが子の首を絞めて、
その後抜け殻になってしまう母親。

一般住民は何も悪くないのに、
戦争はそんな市民を巻き込むことを忘れてはならないと強く思い知らされました。

国のために人は命を懸けて戦ったのに、
国は沖縄のために理不尽なことばかりをする、
そんなウチナーンチュの想いがグッと肩にのしかかります。

■東村高江のヘリパットは住民の反対の座り込みを無視し、
新たに2つ作られました。

政府の駆け引きや情勢は関係なく、
東村の人達は静かな平和な暮らしを望んでいました。
多くの人は昼夜けたたましい爆音で上空を戦闘機や輸送機が飛ぶのを望んでいませんでした。

ベトナム戦争時、この沖縄北部訓練場でジャングル訓練を行い、
沖縄の基地から直接戦争に、人殺しに行っていたそうです。
まともな感覚では戦争はできないので、
そんな銃を持った訓練中の兵隊と住民が畑や山のやぶから現れて恐ろしかったそうです。
同じことをするなら、
もっと一般人のいないところですればいいのに。
純粋にそう思いました。


■小笠原を含め、東京の人は中国と沖縄が仲がいいのが許せない印象を感じることがあります。
しかし、沖縄は琉球王朝の時代から中国との交流は深いのです。
マイクでも話したのですが、
僕は中国人も日本人もアメリカ人も大好きです。
でも中国政府、日本政府、アメリカ政府は好きではありません。

小笠原も中国の密漁船が来て珊瑚を取り、
住んでいた私たちが怖かったことも記憶に新しいのですが、
やはりそれで中国のすべてを否定する気にはなりません。
チベットの問題も納得はいかないのですが、
やはりみんな平和に暮らせることを強く望みます。

そのためにはインドネシア政府からの虐殺を耐えて、
27年間ずっと愛を持って自分の家族を殺した相手を許していって、
そしてついに独立を勝ち取った東ティモールの国民のような姿勢が大事な気がしてなりません。

侵略、防衛、武力保持、なのではない、
新しい国の在り方を模索する時期にきていると感じます。


■原発もこの米軍の基地の問題も、
結局、問題はお金なんだと思いました。
人はずっと利権や資源、お金でずっと争っている。
そんなことのせいで家族内でいがみ合い、
集落でいがみ合い、
国内でいがみ合い、
世界でいがみ合う。
なんてくだらなくて、
なんて悲しいんだろうと思いました。

これを根本的に解決するには、
ひとりひとりが気付いて行動して、
お互いが自分も相手も大事にする心の時代にシフトするしかないと思いました。

★沖縄本島旅行記2017 記事アーカイブ

沖縄本島への旅路(沖縄本島滞在記①)

馬と暮らすという事~伊江島 (沖縄旅行記②)

沖縄と米軍基地問題(沖縄本島滞在記③)

やんばるの自然~ヤンバルクイナという存在(沖縄本島滞在記④)

やんばるの百姓たち~自然農とパーマカルチャー(沖縄本島滞在記⑤)





安保法案 強行採決 自分たちにできること

2015年09月19日 | 戦争と貧困
■小笠原は現在、台風20号(クロヴァン)の接近の真っ只中。
勢力(950hPa)を保ったまま、島を直撃しています。

家の外ではゴォォォと強風がうなり、
ものすごい雨が雨戸を打ち付けています。

そんな中、国会ではもめにもめて安全保障関連法が
参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決され、成立しました。

歴史の因果か、
満州事変の起こったその日に強行採決されました。

この法案が意味するものは賛成、反対派でも大きく主張が違い、
解釈次第ではどっちともとれる部分がありとても難しいです。

しかし、個人的にはこの法案自体は反対ですが
それ以上に、
この決め方に問題があると思っています。

国会の周囲を多くの国民がデモを行い、
国会の内部でも多くの反対が叫ばれる中、
この大事な法案を強行採決したことに大きな懸念を抱いています。

納得できない人が多い中、
説明不足感は否めません。

正直、僕にはわからないことが多く、
もっと学ばなければいけないと思いますが、
この強引な決め方は間違っていると心底思います。

僕は3.11の原発事故以降、
政府はまったく信用置けないものと思っていますので、
自分には何ができるか悩みながら生きて来ています。

ここまで強引に採決するということは、
もの凄くこだわりがあり、必死だったのでしょうが、
3.11以降の政府へ行動は
多くの無関心であった国民を目覚めさせることとなりました。

70年代安保闘争以降、
どんどん政治に無関心な人が増え続けて多くの人が心配していましたが、
これは大きな転換期なのではないでしょうか?

長女が学校から持って帰ってきた社会のテスト。
その中で聖徳太子は
「国民の不安を和らげるために、政治を行った」
という言葉があり、ハッとさせられました。

そう、今の政府は国民の多様な不安に対応できなくなっています。
そして、
そんな政府を選挙で選んできているのもまた私たち自身なのです。

多くの無関心と私利私欲のまみれる選挙の時代、
意味のある投票になり、
自分たちのおもいを上に届ける政治家を選んでいかなければいけません。
そして政治家任せでなく、政治に関わっていかなければいけません。

■妻や長女がネットの国会から目が離せずにいます。

そんな中、ひときわ気になる答弁がありました。
学生さんの答弁です。
明治学院大学生で学生団体「SEALDs」の奥田愛基さんは
「国民投票もせず、解釈で改憲するような、違憲で法的安定性もない、
そして国会答弁もきちんとできないような法案を作ることなど、
私たちは聞かされていない」と批判し、廃案にすべきと訴えました。

また、デモについて
「新しい時代はもう始まっています。もう止まらない」と話し
「政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見をきいてください」と話しました。


答弁全文

素晴らしいスピーチだと思いました。
そしてここまで行動できる若い世代の存在がとてもカッコいいなと感じました。

妻が紹介してくれたコメントの中でなかなか分かりやすいのを教えてもらいました。
井上達夫さん(東大教授)のコメントです。

みんなそれぞれ色んな考え、解釈があり、とても勉強になります。
強行採決された今でも思うのは、
大事なのは自分自身のこれからの行動です。

戦争をやらない、
平和を守る、
安全に生きていきたい。
子供達に笑顔の未来を。
その為には自分たちに何ができるかを常に考え、行動していかなければと思います。



バレンタインに「チョコ」と「フェアトレード」を考える

2015年02月18日 | 戦争と貧困
■先日2月14日はバレンタインデー。
我が家の女子3人(妻と娘2人)はお菓子作りの2日間(前日、当日)でした。
僕もその恩恵に肖り、友人からもチョコを頂きました♡
どれも美味しく、嬉しかったです。
どうもありがとうございました(*^。^*)

我が家のバレンタインはチョコを使いません。
主にキャロブを使います。

キャロブ (carob) は、マメ科の植物であるイナゴ豆を乾燥させ粉末状にしたものです。
これをチョコやココアの代わりに使用し、
甘さ控えめにヘルシーに作ります(*^。^*)


次女・マリア(5歳)はお母さんのフォローの元、こんな可愛いバレンタインのクッキーを作りました♪

この1部を大好きな保育園のお友達のお宅に届け、笑顔のスキップで帰ってきましたヽ(^o^)丿


長女・凪穂(11歳)は…頑張って贈り物を仕上げました!
とっても美味しく、最高の出来!!
行方についてはお年頃なので秘密にしておきます(*^_^*)


妻はグラノーラ、ココナッツ、キャロブをふんだんに使った美味しいクッキーを作ってくれました。

どれも愛溢れた美味しい仕上がりで、存分にバレンタインを楽しむことができました♪


■今回はこの機会に長女とチョコと児童労働について学ぶことにしました。
事前にある1冊の本を娘に贈りました。
「チョコレートと青い空(そうえん社)」です。

内容は農業の研修で日本の農家に来た、カカオの一大生産地・ガーナのエリックさんを
迎えた家族が、世界に目を向け、少しづつ心が変化していく様を描いています。
様々な世界の実情も詳しく書かれていて、読みながら、かなり勉強になりました。

長女はこの本を読んで、
「フェアトレードのチョコを買っていきたい」
「自分の夢が少し変わりそうだ」
と言っていました。

この本に描かれていますが、
日本のチョコレートの多くを生産するガーナの現場では多くの児童労働でカカオ豆が生産されているそうです。
そこでは学校にも行けず、朝から晩まで娘と同じ世代の子供達が汗を流しています。
そして驚くほどの低賃金。

そのガーナの子供達は驚くべきことに、
美味しいチョコレートを食べたことがない子がほとんどだそうです!

詳しくはNGO ACE「チョコレートと児童労働」をどうぞ!

カカオ農園で搾取子どもたち


賃金を安く抑えれる児童労働や低所得者の労働のお陰で
日本の格安のチョコレートは成り立っていることがわかります。

それらの労働にきちんと見合う報酬を返そうと「フェアトレード(公正な取引)」が昨今叫ばれています。
しかし、フェアトレードを掲げていても実際には生産者まできちんとお金が届かず、
中間の業者が利益を搾取してしまう場面があるそうです。

人間が化石燃でが生み出したグローバルな流通は、
顔の見えない流通を実現させました。

生産~流通~販売~消費
ローカルな島の中で完結していれば顔が見えるこの流れも、
島を離れ、グローバルになると途端に相手の顔や実態が見えなくなります。

これからは地球規模のグローバルな意識を持って、
地域で経済や物資を循環させるローカルな暮らしこそが、
持続可能な世界を築けると信じています。

綱渡りのような現在の大量消費の貨幣経済の中で、
確かな真実を見極める心の目と愛、そして子供達の未来を意識した行動が求められています。

現在、小笠原ではカカオの生産がはじまりつつあります。
今後は顔の見えるチョコも遠い未来ではないかも知れません☆

■この学びの中で僕も安いお菓子や商品の裏側を見つめ、自分の行動でできることを考えます。
「消費(買い物)は投票である」by坂本龍一
購入する時にその生産まで視野に入れて購入する事も今できることのひとつ。

いつも凄いと尊敬しているとあるヨガの先生が素敵な事を語っていましたので紹介したいと思います。

<トリアエズ革命>
               
“自然保護運動、原発反対運動、戦争反対運動、さまざまな運動をして革命を起こしたとします。

これらの革命で、自然をとりあえず守ることができるかもしれません。
原発をとりあえずとめることができるかもしれません。
戦争をとりあえず止めることができるかもしれません。
だから、必要なこともあると思います。

しかし、恒久的に止めることはまず不可能です。なぜでしょう。

それは、運動でひとの価値観を変えることはできないからです。

経済、お金、モノ中心の価値観が変わらない限り、何も根本的に変えることはできません。
革命で、社会の主義や仕組みを変えても、何も変わりません。

必要なのは、人ひとりひとりの、個人の価値観が変わることです。
内面の革命です。
これができない限り、ひとりひとりの内面の革命が起きない限り、恒久的な平和、平安が訪れることはありません。

今、極めてきわめて微力ではありますが、私はこの働きをするために歩き回っているんだな。
ということが、今日旭川からの帰りですが、空港からのバスの中ではっきりとしてきました。」


なんてクリアな素敵な革命でしょう♪
とても目から鱗でした。

ちなみに朝からすり鉢でごま塩を擂る保育園児の次女がいたりします(笑)。
これは自ら進んでやる大事なおうちのお仕事です☆

せっかくの愛を伝えるバレンタイン。
この機会に学んでみるのも素敵だなと思う出来事でした♪

戦争というビジネスが生む負の連鎖

2013年09月07日 | 戦争と貧困
■日本では遠くの国の出来事であまり関心はないでしょうが、また中東で戦争が起こされようとしています。
私たちの暮らしとこれらの戦争は実は繋がっているのです。
世間が先進国の市民を骨抜きにする「3S政策」でスポーツ、スクリーン(TV、シネマ、ネット)、セックス(性産業)にうつつを抜かしている間に、利権が絡む大人達はお金と資源のために人殺しを行い、さらに計画を進めているのです。
私たちの「無関心」がこれらの戦争を支援していることになるのです。

薄利多売の多くの企業、銀行は戦争ビジネスに出資しているので、私たちの現代の暮らし方はそのまま戦争を支援することになるのです。

■アメリカの前ブッシュ大統領が「大量破壊兵器を持っているから」と言って戦争を起こし多くの市民を皆殺しにしまた。
しかもその大義名分の大量破壊兵器は見付からず、世論から多くの避難が浴びせられました。
今度のオバマ大統領はノーベル平和賞を受賞しているにも関わらず「生物兵器の脅威」の名の下にまた戦争を起こそうとしています。

僕のように現地に行ったことも無く、あまり詳しくない人間にとってもこれらの戦争に対する違和感は間違いないだろうと思います。

大量破壊兵器や生物兵器なんて、もはや戦争を起こす口実に過ぎず、戦争自体が人の命を犠牲にした大きな利益を生むビジネスで、いつも化石燃料の利権争いが背景にあることはもう弁解の余地がありません。
そしてそんな大人のエゴの人殺しが新たに憎悪を生み、またどんどん負の連鎖が続いていきます。

戦争しないと国の経済を立て直せないと思っている先進国って信じられますか?
もう土地争い、資源争い、利権争い以上に、戦争自体が巨大なビジネスなんて子供に胸を張って言えますか?

そんな腐った先進国(日本も含む)のエゴのせいで今日も普通に生活していた市民が幼い子供がどんどん犠牲になっている…..。

戦争も原発も大量消費社会もグローバル化して、遠くの国に多くの犠牲を生んでいます。
もうこの持続不可能な仕組みを変えていかなければならないと思います。

私たちはもっと関心を持って暮らさなければなりません。
この同じ地球に住む人の暮らしを想像する力。
ジョン・レノンが歌ったように、みんなが平和を願い、行動すれば世界に平和が訪れます。
ダライ・ラマやガンジーの様に非暴力で平和を訴えていかなければ負の連鎖は断ち切れません。

今私たちにできる戦争を減らせる方法はなんでしょうか?
まずは関心を持つこと。
私たちの暮らしと戦争は繋がっていることを。
今も世界のどこかで理不尽に人が、母親が子供が殺されていることを。

物を買うとき、ふと考えて選ぶだけでもいいのです。
家族でご飯を食べるとき、ふと戦地のことも考えてみると、当たり前の日常の有り難さが身にしみます。

母島でのほほんと子供と楽しく暮らしているその瞬間もこの世界のどこかで、親を亡くし子供が泣きわめき、子供を亡くして血を流す同じ親がいると思うと胸が張り裂けそうになります。

自分にはなにができるのかをいつも自問自答しています。
そのひとつとして、持続可能な社会を目指すのは避けられないとも思います。

世界の子供達が笑顔の未来を築きましょう!!
War is OVER!! Nukes is OVER!!!

参考記事↓
em>アメリカとフランスによるシリアへの軍事攻撃が避けられない状況になってきたようだが、世界中の諜報活動専門家たちは、とてもじゃないが、軍事介入の正当性が立証されているとは言いがたいと警鐘を鳴らしている。オバマ政権は、フランスのオランド大統領と協力してシリア政府に制裁を加えると明言した。なぜ両国がそう主張するかというと、動かぬ証拠があるからだという。それは、化学兵器がダマスカス郊外で放たれ、多くの人が殺されたというものだ。

しかし、過去の紛争における情報機関の活動を詳細に調査してきたアナリストたちの中でも、次のような警告を発している人が増えている。それは、アサド政権と化学兵器使用との関連が完全に明らかになっていない、ということだ。化学兵器に関して世界でもっとも知られた専門家の一人でもあるジーン・パスカル・ザンダー氏氏は8月30日、ハフィントン・ポストUK版の取材に対して、「明らかに疑問が残る」と述べた。ダマスカス郊外のグータ地区で多数の死者が発生した原因として非難されている化学物質が、広範囲に広がっているという痕跡が確認できないのだ。

「我々は化学物質がどんなものか分かっていない」とザンダー氏は述べた。彼は最近まで欧州安全保障研究所(EUISS)で勤務し、安全保障・防衛問題の調査を行っていた人物である。「誰もがサリンだと言う。(サリンのような)神経毒に関わりのあるようなものは確かにある。しかし、すべてがサリンだと断定できるものではない」使われた化学物質そのものこそ、決定的な証拠となりうるとザンダー氏は話す。というのも、神経ガスのような兵器を含む神経毒素材には、ねずみ駆除に使うような工業製品も含むからだ。そのため、実際の化学物質が特定されるまでは、アサド政権が関与しているという根拠としては弱い、とザンダー氏は述べた。

「もし、例えば、神経毒が工場から持ちだされてグータ地区で使われたとしたら、その責任を負うべき当事者の数はもっと増えることになる」ザンダー氏の警告は、シリア攻撃の正当性が妥当かどうかに対して異議を唱えている経験豊富な専門家たちのあいだから噴出している、懐疑的な見方の一つにすぎない。29日に、ローレンス·ウィルカーソン氏は、シリア攻撃の準備について根拠がないように思えるとハフポストUS版に語った。ウィルカーソン氏は、10年前、イラク戦争を正当化した当時の国務長官コリン・パウエル氏が提出した機密情報の再調査を行っている。

ウィルカーソン氏は、現在行われている議論を、のちに虚偽だと判明したパウエル氏の証言を用意するために何日もかけたことになぞらえる。「イラクのフセイン前大統領大量破壊兵器を所有している、絶対間違いないと私に言った」そしてこう付け加えた。

「同じことが繰り返されているようだ」

そうした見解に続き、ハンス・ブリックス氏からも極めて強い警告が発せられている。ブリックス氏は、イラク戦争直前に国連武器査察団の委員長を務めた人物である。彼は「グローバル・ビューポイント」前編集局長ネイサン・ガルデルとのインタビューで、シリアでの「現象が確実に化学兵器使用によるもの」だと確定するまでは、現在軍事行動を検討している人たちも、国連査察官による調査が完了するまで待つべきだと述べた。

「以前から分かっていることではあるが、政治力学はは法の正当な手続きに先んじるものだ」とブリックス氏は話す。そうした力学はブッシュ政権がイラク戦争を起こした時にとったやり方を彷彿とさせる。「シリアが今になって査察に協力するのは『遅すぎる』とアメリカが声明を出しているが、それには賛同できない。軍事行動をとるための下手な口実だ」極めてはっきりと、ブリックスは警告を発している。アサド政権の化学兵器の製造能力根絶を狙ったミサイル攻撃は、事態の悪化を招きかねない。

「巡航ミサイルを使って武器貯蔵庫へ攻撃したら、思うに、かえって不利な状況となる。攻撃場所付近に化学兵器が拡散することになるからだ」EUの化学兵器専門家であったザンダー氏は、さらにこう言及した。諸外国はアサド政権を非難する材料となる化学兵器の攻撃を受けた範囲、あるいは地理的な位置を確信を持って特定することはできない。彼は、YouTubeなどウェブ上に広く流布している苦痛で痙攣した犠牲者の画像をピックアップして次のように述べた。

「こうした映像がどこで撮影したものかは不明だ。いつ、誰によって撮影されたかもわからない。あるいは、同じ時に起きた出来事なのか、違った時に起きた出来事なのかすらわからないのだ」ザンダー氏はさらにこう付け加えた。「誰が実行したかもわからない。動画がどこで撮影されたのかもわからない。わかるのは、何かがどこかである時に起こった、ということだけだ」

Hasan reported from London. Sledge reported from New York.