小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

カノーの石器が語りかけるもの

2023年09月21日 | 小笠原 先史時代
■9月は議員になって2回目の定例会で、色んな質問や動き、まとめをしていたら、
あっという間に20日間も経過していました(#^.^#)

議会の方は議員HPFacebookページの方でアップしてありますので、
そちらをご覧ください(^^♪

この間、議会の他には4年ぶりのカヌー大会や素敵なライヴイベントなどがありました。
そちらは追々アップしていきたいと思います。

まずはタイトルの通り、カノー(アウトリガーカヌーの島の呼び名)の石器を今回、
手に触れて感じたことを書いていきたいと思います。


■この一見、ただの細長い石。

これはただの石ではなく、
磨製石器と呼ばれるもの。

先史時代に小笠原の島々に人の暮らしがあり、
カヌーを彫っていた石器と言われています。
そのきっかけとなった、昭和58年に父島の西町で見付かった丸ノミ石斧。

このドラマは発見者の方からのリクエストで、現在の保管場所を探すことから始まりました。
この石斧は父島の教育委員会の金庫に大切に保管されています。

発見者は現在、島の暮らしを支える貨物船、共勝丸の所長さんです。
たまたま5月、島のおがさわら丸ドック中の物資問題で東京の共勝丸事務所を訪れて話していた時から、
カヌーの話になり、この石斧の話になったのです。

島に戻ってから父島の教育委員会、
そして東京都のビジターセンターの係の方にも一生懸命探してもらいました。

そして、なんとかこの石斧が見つかりました!。
その節は本当にありがとうございました☆

これは先史時代に小笠原にカヌーの民が暮らしていたことを示す、重要な発見でした。

発見が地層とかではなく、旧島民の改築の家からだったので、
出所が不明で重要文化財の指定にはしにくいようですが、
戦前から確実にトウモロコシ等を潰す道具として使われていました。

この石斧の発見がきっかけで東京都の考古学調査の予算が2年間分ついて、
三日月山の遺跡、母島の沖村遺跡、北硫黄島の石野遺跡の発見につながっているのです。

それらの発見は、現在定説となっている江戸時代に最初の定住者と言われているナサニエル・セーボレーらの時代から
現代に至る小笠原定住の歴史の前の時代に人の暮らしが島に有った事を示す、重要なものでした。

カヌー文化研究会の映像を同じ議員仲間の清水さんのFacebookで知ることが出来ました。
9分ごろから小笠原のカヌーについても触れられています。


この石斧へのドラマをきっかけに、島のアナログ映像資料のデジタル化、
その後はケーブルテレビやYoutube配信で有効に活用できる仕組みができないかと思っています。

9月の議会で小笠原の文化財産の管理と有効活用について、
一般質問を行いました。
→議事録はこちら

今回の一連の動きで、デジタル保存化は進むことになったので、
とても嬉しく思います★


■そんな石斧にまつわる発信をしていたら、
世界的にも有名なハワイの伝統航海カヌー「ホクレア」の話が友人から舞い込んできました(#^.^#)

2026年、ハワイの伝統航海カヌー「ホクレア」が太平洋航海を実施し、
日本にも寄港することが決まっています。

小笠原では先史時代に人が住んでいたことが分かっていて、
その手掛かりはカヌーを彫っていた石器の存在があります。

石器は父島、北硫黄島から見つかっています(母島は貝の道具が発見)。

その石器は伊豆諸島とマリアナ諸島の石器に類似していて、
先史時代にカヌーで人が行き来していたと考えられています。

ホクレアは70年代に建造され、最初のハワイ~タヒチ間の伝統航海を成功させてから、
各地の先住民のアイデンティティを蘇らせてきています。

日本で現代に通じる文化の中で、一番最初にアウトリガーカヌーが伝わったのが小笠原です。
今もカヌーは使われています。

しかし、文化という意味でも太平洋戦争時の強制疎開が大きな影響を与え、
戦前と戦後では大きく分断し、現在はまさに文化の形成途上にあると思います。
そんな小笠原だからこそ、ホクレアに来てもらいたい。
色んな島のスピリットを蘇らせたいと願っています。

そして、小笠原とミクロネシアを繋ぐルートを復活させたいと願っています。

今、僕が踊っている郷土芸能の南洋踊り。
これは確実に南から来ている文化です。

カヌーを漕ぎ、南洋踊りを踊る時に意識することは、
先史時代の島の民の暮らしと、南への航路なのです。

昨晩、ハワイのネイティブの教えを学ばせてくれた、
たろちゃんと久しぶりにお話をして、
丁度、先日大事な石器を手で触れて、
改めて、歴史と文化とご縁が繋がる奇跡を感じています。
どうもありがとう!

たろちゃんがアロハ未来という、
2007年ホクレアの日本公開の時のドキュメンタリー映像を教えてくれました♪

He Wa’a He Moku, He Moku He Wa’a
Mahalo!!!

Aloha 未来

台風で遅れた入港配達を終えて思った事。

2019年09月10日 | 小笠原 先史時代
■今日は台風15号で船が遅れに遅れて、
通常の2日遅れ、時間もさらに3時間遅れの到着となりました。
先ほどようやく郵便や宅急便の配達が終わりました。
お疲れ様でした♪

沢山の物資を運び、
届けながら、
小笠原の先史時代のカヌーの民の事を考えました。

先日の父島母島ボヤージングの時の風景がオーバーラップします。

外との物流がほとんどなかった小笠羽の石器時代。
島の民はどのように暮らしていたのか。

きっと、
カヌーで魚やクジラを獲り、
陸ではコウモリや海鳥を食べ、
山の山菜を集めていたのではないでしょうか?

そして、島で自給自足をしていた民が、
どうして絶滅したのか?

資源を搾取し続けたのか、
大渇水に襲われたのか、
超巨大な台風に翻弄され、
食べものを失ったのか。

港で大きなコンテナを動かす様を見て、
そんな事に想いを馳せる入港日でした(*^_^*)


■島の憩いの場として親しまれている母島のガジュ下。


朝は釣り人、日中は子連れのお母さんやお年寄り達、
アイスや飲み物休憩する仕事の人、
夕方は仕事上がりのみんな、
夜は若者が集う飲む場。

僕も幾度となくお世話になっています(笑)。

母島を行き交う人の人生を、このガジュマルはずっと見て来ている気がします。

道路にせり出していて、視覚となり実際は危ない部分もあります。
幾度も切られる話が持ち上がりましたが、島民の熱意がそれを阻止してきました。

戦前からあるこのガジュマルが今も母島の中心の憩いの場であることが、
本当に愛おしい限りです♡


■昔は島の土地の境界線と防風林として植えられたタマナ並木。

タマナと言う言葉はどこかポリネシアの響きがあります。
清水良さんが教えてくれたコペペじいいさんがやってきたギルバート諸島にTamanaという名前の島があります。
日本の和名はテリハボクです。

Bonin islandにやって来てテリハボクを見たコペペさんは、
故郷の島に似たものを見つけたのでしょうか?

このしっかりとした皮、島では建材として使われたタマナ。

ロマンが広がります♡

小笠原とアフリカとカヌーの縁

2019年06月20日 | 小笠原 先史時代
■先日、父島に長女が通う高校の文化祭があり、日程の都合で父島に3泊しました。
文化祭を見に行ったはずが、思わず予想外の出逢いがありました(笑)。

それが、小笠原とアフリカ、そしてカヌーの関係です。

まさか小笠原とアフリカに縁があるとは驚きました。
しかし、それは奇妙な偶然で繋がって知った事でした。


これは父島のビジターセンターに展示されているアウトリガーカヌー。

今回の父島滞在は、小笠原の先史時代に想いを馳せて色んな所に行き、話を聞きました。

なんと、先月に発刊された小笠原の考古学の本「小笠原を発掘する」。
まさに今自分が一番知りたかった情報が詰まっています♪
 ※この本は父島のビジターセンターに寄贈されています。

江戸時代から始まったとされる小笠原の歴史。
それ以前は無人島だったから付いた英名が「Bonin island」。

しかし、近年の発掘調査で石器時代に小笠原で人が暮らしていた遺跡が発掘されたのです。

それは、ポリネシア人が太平洋の島々をカヌーで自由に行き来していた時代に、
小笠原諸島にまでそれが及んでいたことを示す重要な発見でした。


■今回、父島に行ったらなんとケニアン・ナイトというアフリカ音楽のイベントが予定されていました。
時間があったので、ワークショップ、ライヴも行く事にしました♪


ワークショップはケニア伝統太鼓「ンゴマ」奏者の大西匡哉さんを中心に、
ジャンベや島のカカでみんなでアフリカのリズムを堪能しました♪

問題はその次の日、コーヒー山に行って、プーランの良さんとカヌーとアフリカの話をしていたら、

アフリカのマダガスカルにはポリネシアの言葉もアウトリガーカヌーも存在していて
父島にはその地をルーツとしている欧米系のレジェンドが今もいると言うのです。

心底、ビックリしました!!
そのレジェンドは昔からよく知っている方でした(*^_^*)

まさかアフリカの島にまでアウトリガーカヌーとポリネシアの言葉が残っているとは、
思いもよりませんでした。

そして丁度、ケニアン・ナイトのタイミングでこれを知れたのは、
なんだか不思議な縁を感じずにはいられません♪

そんな中、最高のケニアンナイト。
アフリカのリズムと歌はあまりに根源的で、魂を心の奥から踊らされる最高のひと時でした♪

人の起源はアフリカ。
それは問答無用で根源的であるはずです。
千晶さんの歌とかけ声も素晴らしい♡

超短いですが、動画もあります。


匡哉さん、千晶さん遠路はるばる、
ありがとうございました!
このご縁に感謝です♡


■さらに、ビジターセンターでまたまた驚きの過去が!
なんと、小笠原に伝統航海術で渡ってきたという記録があるというのです!

それは1986年(昭和61年)にヤップ島からタマナで作ったカヌー「ペサウ号」で若者が小笠原に渡ってきたというのです。

その3000㎞の航海は、現代機器を使わない、
スターナビゲーションと言われる伝統航海術で渡って来たそうです。

ガーヤンさんという長老が船長で、ガーヤンカヌーと呼ばれていたようです。


当時の小笠原では盛大に迎えられたようです。

このタマナのカヌーはその後、
兵庫の園田学園女子大学に展示されているそうです。

この小笠原返還20周年記念誌に載っています。

この時の様子を知っている方、お話をぜひ聞かせて下さい!!


■そんな色んなご縁が舞い込んでくるものなので、父島では停めてあるカヌーを眺めにいってしまいました。

父島には色んなカヌーが残っています。

みんなそれぞれ微妙に違っていて、面白いです。


現役の漁師さんのカヌーもあるのです。

カヌーを眺めていたら、持ち主の知人が現れ、色々カヌーについて語ってくれました。


■そしてプーランの良さんが家宝として大事にしている、ハワイのビショップ博物館で購入したというカヌーの図鑑。

とても分厚く、全部英語でものすごい情報量です。

これは太平洋の島々でアウトリガーカヌーが廃れて無くなってしまいそうな事に懸念を抱いて、
徹底的に調べ上げられたものだそうです。

ちゃんと小笠原のカヌーも載っています。

さすが、日本で一番最初にアウトリガーカヌーが伝来した土地ですね☆

小笠原についても書かれています。

■7月にカヌーレースがある父島では子供たち向けのカヌーレッスンが盛んに行われていました。

これがまたとても、いい感じなんです♪

僕が今回見たのは小学2,3年生なのですが、
見ているそばからグングンと上手くなっていくのです。

子ども達もイケイケになっていきます♡

それを眺めるみんな。

あまりに平和で素敵な光景で、うっとりしてしまいました♪

母島も今年からキッズのカヌークラスが始動します。
みんながカヌーの気持ち良さを知ってくれるといいな(*^_^*)

どんどん経験と知識と文化と島がカヌーを中心に繋がっていってます♡
ああ、毎日ワクワクが止まらない(*^_^*)

そして久々に父島のウェザーステーションで夕陽を見ました。
久々の晴れということもあり、本当に美しかった♡

島のみんなも久々の夕陽を味わっている。
観光客も夕陽をただ見に来ている。

島で暮らしていて、
ふとこんなとき、
自然に感謝の念が湧いてきます♡


■最後に今回の本来の主目的(笑)、小笠原高校で文化祭「ビーデ祭」です。

当日はあいにくの大嵐でしたが、高校生達は精一杯文化祭を運営し、楽しんでいました♪

小笠原高校に通う長女にとっては、最初の高校の文化祭。
自分自身も頑張っていましたが、先輩たちの頑張りはいい刺激になったのではないでしょうか?

以前、父島に住んでいた我が家にとっても10年以上ぶりに見に行けた、ビーデ祭。

みんな一生懸命で、
とっても素敵な時間を過ごせました♡

まさに「青春」の2文字がピッタリ(*^_^*)

島の高校生達はとっても輝いていました♡

本当にお疲れ様でした!!


石器時代・古の小笠原カノー時代を想う ~モアナを観て

2018年04月08日 | 小笠原 先史時代
■昨晩、小3の次女と大昔の小笠原の話しをしました。

それは小笠原貞頼が発見し、
ナサニエル・セーボレーが定住を始めた江戸時代ではなく、
その遥か昔の石器時代に人が住んでいた小笠原の時代です。
今から約2000年前、約1世紀頃に小笠原に人が暮らしていたと考えられています。

その頃の時代の名残として、
父島の三日月山や北硫黄島で遺跡が発見され、
カヌーを掘った石器や貝細工、斧が発見されています。

それは、何世代も建造物が残る欧州などの石の文化ではなく、
季節の流れで風化してしまう木と石の文化です。

その頃から、
直接ではないにせよ文化的に今でも受け繋がれているもの…
アウトリガーカヌーとフラに思いを馳せるようになりました。



■形状的にはフィリピンやインドネシア系ではなく、
ハワイ系となる小笠原のアウトリガーカヌー(カノーと呼ばれていました)。

日本では小笠原が唯一ハワイ系が直接伝わってきた場所だと聞いています。

何気なく始めて、
今も母島カノー部に所属し、関わらせてもらっていますし、
フラも素人ながらにやらせてもらっていますが、
まさかそれらが古の時代の小笠原に繋がっていることを知ったのはずっと後の事でした。




■遥か昔の石器時代、
太平洋に住む民たちがカヌーを使い、自由に島を移動していた時代があると言います。
大航海時代にキャプテンクックが太平洋の島々を渡り歩き、
遠く離れて交流すらなくなった島が
なぜか似た文化を持っていることを発見したそうです。

調べてみると、
昔は船で自由に島間を自由に行き来していたが、
その島で自給自足ができるようになると、
海を渡る術を忘れてしまってきていた様なのです。

それはまだカヌーの帆が大陸から綿が伝わっておらず、
タコノキ(アダン)の葉を用いて作られていた時代です。



■その伝統航海術、
いわゆるGPSはもちろん、海図や羅針盤など、
一切の近代器具を使わず、
星と波と風だけを頼りに海を渡る術【スターナビゲーション】を現代に復活させた人達がいます。
それがハワイのホクレア号です。

15年前、僕が父島でカヌーを始めた年に、講演会がありました。
太平洋の島々の文化を研究する後藤明さんと、
ホクレア号の初来日に携わったシーカヤッカー&海洋ジャーナリスト内田正洋さんです。

二人の話を聞いて、沢山の感銘を受けました♪

小笠原の考古学の話はなんとなくうる覚えで知っている程度でしたが、
これをきっかけに、カヌーという具体的な存在を経て、
遥か昔の小笠原に想いを馳せる事が出来たのです☆

その伝統航海術というのは本当にすごくて、
その星見となる人は、船の行先のすべてを司り、
目的地にたどり着くまでの数週間、
一度も睡眠を取らず、うつらうつらした状態のまま、
今、自分たちが地球のどこにいるのか、
どこに行こうとしているかを把握し続けているというのです。

星の見える夜はいいものの、
星の見えない昼間や荒天時は、
風の匂いや温度、水の感触、
うねりや波から、地形を意識していると聞きました。

星見の人が出発地から目的地までの道のりを
完全にイメージできるまでは、
カヌーは出発できず、待ち続けるのだそうです。

僕はこの話を聞いて、感動して震えていました。


今こうして眺めている海と島に、
そんな時代があり、そんな技術があったなんて!!


■そんな事を色々思い馳せるにはことがあったのです。
昨晩、次女と初めて映画「モアナと伝説の海」を観ました。

その中で、小笠原にも良く似た風景の中、
遠い昔の太平洋のカヌー文化が描かれていたのです!

タコノキの葉で作った帆を使い、
木のパドルで船を操舵し、
遥か大海原を星を見て渡る場面。

この映画の製作者はとても研究しているんだなぁと感じました。
そしてポリネシアに対してとても深くリスペクトしているということがひしひしと伝わってきました。

DVD/BDに映像特典のメイキング・ドキュメンタリーが付いているのですが、
映画を作るにあたって、足かけ5年間、何度も何度も太平洋の島々を巡り、
キャスティングもほぼポリネシア人、
脚本も多くの現地の有識者を巻き込み作成されている場面が描かれていました。

ホクレア号の伝統航海術ももちろん取材されていて、
スタッフもどんどんポリネシアに対する見方が変わり、
リスペクトしていっていました。

その象徴という場面、
ずっと西洋に文化を否定されてきたけれど、
現代の西洋が行き詰っているのを感じた時に、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語ります。
「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
ハッとされられます。
まさに究極の発想です!!
本当に大切なヒントは、実は先住民の文化だったと多くの人が気付き始めているのです。



■ガイアシンフォニー(地球交響曲)という映画の第三番に
ハワイのホクレア号のナイノア・トンプソンが出てくる場面があります。
その取材の時の話で、
僕が大好きなエピソードがあります。

撮影前にクマに襲われて亡くなってしまった写真家・星野道夫と
ハワイのカヌーがなんと不思議な縁で繋がる場面です。

それは監督:龍村仁さんがナイノア・トンプソンを取材していて、聴いていて偶然繋がった奇跡の話です。

当時、ホクレア号を建設するときに必要な大きな大木が必要となりました。
しかし、ハワイにはそんな大木はなく、頭を悩ませていたそうです。

ですが、ある時アラスカから海流で流されてくる大きなトウヒの木が、
ハワイに流れ着き、それを使って大きなカヌーを作っていたことに気が付いたそうです!

偶然にも取材前に不慮の事故で亡くなってしまった星野道夫の撮影の舞台はアラスカ。
まったく別に取材していた二人の点が線で繋がった瞬間です。

そして星野道夫の生前最後のエッセイのタイトルが「旅をする木」。
あまりにも不思議で魅力的なこの話をしたとき、
鳥肌が立つほど感動したのを覚えています。


■先日、にっぽん丸に乗ってきたKONISHIKIさんが母島で素敵なライヴをしてくれました。
そう、彼はハワイ出身。
そしてフラ。
カヌー。

この小笠原に暮らしていて、古から今に繋がるものがこんなにあるなんて!!

ハワイはそのまま人が定住し、先住民となり今も暮らしていますが、
小笠原では石器時代の暮らしは今まで直接は繋がっていません。

太古の小笠原の暮らしはどうして続かなかったのか?
どんな暮らしだったのか?
その部分にとても興味があるのです。


きっと太古の子供たちも今と同じように海に飛び込んで遊んでいたでしょうし(笑)、


今はいない色んな鳥もいたはずです(これはメジロの巣立ちヒナです)。


水のない島に人は定住できなかったといいます。
今は水をたたえて美しいこの風景も、
ダムを作った現代ならではの島の風景です。

文化や暮らし、農耕、狩猟をしていても、
古の時代の暮らしをいつも想像しては、
色んな事に想いを馳せます。

きっと人の営みは基本的には何も変わらず、
幸せに生きる為に、
頑張っていたのではないかと思わずにはいられないのです。