小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

高井戸で暮らす日々 ~二人の娘たちへ② 長女出産まで編

2020年10月27日 | 娘たちの誕生物語
■娘たちの誕生日を記念しての娘たちが生まれるまでのエピソード。
前回①の続き②です。

2003年夏。
妊娠中期に内地搬送となり、東京日赤医療センターに入院となった妻。
50日間の寝たきりの入院を経て、9月下旬にようやく妊娠36週となり、めでたく退院となりました。
これから希望していた助産院で出産を迎える為に新たな困難に立ち向かう事になります。

まず驚いたのが、病院を退院して地下鉄に降りる時に妻が
「か、階段が降りれない!!」
と呟いていました。

これには驚きました。

なんと基本、寝たきりで平たいフロアとエレベーターで移動していただけの50日間。
階段で降りる筋肉が驚くほど衰えていたのです。

そして今思えばそれは氷山の一角で、その後様々な影響を及ぼします。

ひとまず、なんとか出産する助産院近くの住まいに移動します。

場所は杉並区の高井戸でした。

今思うと、出産で内地に滞在した5か月の中で、一番平穏だったのがこの時期だった気がします。
当時は必至で分かりませんでしたが(#^.^#)。

■若くして結婚し、夫婦双方の実家にステイするのも難しい状況の私達。
入院中は僕も妻も病院にステイしていたので、問題ありませんでしたが、
退院後の住まいを助産院の近くで見つける必要がありました。

内地の勝手すら知らない超田舎者の僕。
しかし、若さというものは色んな事を物怖じなく突入させてくれます。

色々模索した結果、黄ーファンー助産院(成田西)と井の頭線で数駅隣の高井戸のマンスリーマンションを借りることになりました。
家賃は月16万円。
普通のワンルームマンションです。

結婚したばかりの22歳の若い僕にはべらぼーな金額ですが、
赤ちゃんと妻の命がかかっていると考えれば背に腹は変えられません。

赤ちゃんが生まれた後の鳴き声、
お風呂に入れることを考えて、
トイレとお風呂が一緒のユニットバスは避けて、
台所がしっかりあって、防音がしっかりした部屋を選ぶことになりました。

現在、小笠原で出産できない事への処置として、40万円のお金が村から支給されますが、
これも当時は20万円でしたし、(その後の活動で増額できました!)
結婚して1年経過した後の出産にしか適応されないので、私達はその恩恵すら受けれませんでした。



■そんなこんなで、ようやく搬送後初めての夫婦で寝れる日常が帰って来ました。
僕も広尾商店街の弁当屋の仕事は辞めて、本格的に出産に向けて夫婦で取り組んで行く事になりました。

今思うと、初めての結婚や妊娠、仕事で必死過ぎて、
ゆっくり向き合えなかった私達夫婦にとって、
とても大事な時間だったと思います♪

助産院での様々なレクチャー、
とにかく歩いて、出産に必要な体力、日常に必要な筋力の回復、
いいお産に繋げるための助産院で学ぶ食生活。
色んな新しい生活が始まりました。

最寄りの駅は富士見ヶ丘です。
少しさびれた商店街があり、小さいけど有名な「神田川」が流れる静かな閑静な住宅街です。

慣れてくれば、交通量の少ない裏路地を沢山見つける事ができて、
大きなお腹と、弱った筋肉を労わりながら、
できる限り歩いて、夫婦で過ごしました。

「人生に和菓子あり」と書かれた踏切近くの柳谷という和菓子屋さん、
何故かいつもかに玉ロール3つだけが棚に置かれているだけ(笑)の謎の総菜屋さん、
ただ皮ごとミカンを4つに大雑把に切って試食を提供する、商売する気もないようなSEIYU、
神田川を泳ぐ錦鯉たち。
どれも新鮮で愛おしい日々でした。


料理担当は基本的に僕でした。
有難いことにそれまでユースホステルで教わって来た料理もあったので、
何の抵抗もなくトライできました。
この部分も、ユースのペアレントの等史さんに本当に感謝です♪

当時はゆっくり夫婦一緒に食事できる日々を噛みしめていました。
仕事しながらの父島での生活に比べて、とてもゆっくりとした時間だった気がします。

当時得意だった野菜たっぷりのうどん。
これはチャンスとばかりに色んな料理に挑戦した気がします。

品数は今より全然多く(笑)、
なんというか、とても頑張っている感を感じます(#^.^#)


退院した日から使っていた手作りカレンダー。
1日1日を数えながら、お産の日に備えて行きます。

この時間とプロセスが、未熟な私達を親へと近づけていってくれた気がします。
今でもまともな親になれてるかは疑問ですが(笑)。


■黄ーファンー助産院は妻が妊娠初期で探し出した、とても有名な小さな助産院です。

妻が妊娠初期で体が辛い中、
島から何とか出産できる助産院を探しに内地に行っていました。

今は分かりませんが、
当時の訪問した助産院は、【妊娠初期からの経過が見れないから、お産を受ける事はできない】という回答ばかりだったそうです。

助産院としては医療機関なわけではなく、
正常分娩のみを扱うものだから、
妊娠の経過をずっと見れてないというのは、高リスクになります。

元助産師の妻としても、そんな事は分かっちゃいるけど、
子供が住めない島に住んでいるからといって、
自分が主体的に産む「アクティブ・バース」ですら選択できない理不尽に打ちのめされて絶望の淵にいました。

とにかく自分たちが子供が産めない遠隔離島に住んでいて、
とても困っているけど、大事な命の誕生を妥協したくない、その気持ちを分かってもらいたかったのだと思います。

内地からの電話越しに泣きながら「今日もダメだった…」と言われ、
島で必死で働いている僕にもその辛さが伝わって来ていました。(きっと現実的にはピンと来ていなかったと思います)

しかし、ファン助産院に訪問した時に院長の杉山先生が、
満面の笑顔で「いいでしょう。うちでお産を受けましょう」と一言で承諾してくださったそうです。

それまでの経緯や一般常識からすると信じられない言葉です。
聞くと「だってあなたがそうしたいと思ってるんでしょう?」と。

あまりの受け入れてもらえた嬉しさに、
助産院から泣いて帰って来た妻からの連絡を忘れられません。

その時は、まさかその後に搬送・入院になるとは夢にも思ってなかったのですが、
入院生活を通して、その先に「受け入れてくれる助産院がある」というのはとても有難い目標となりました。

妻が日赤に入院中も1度、僕が現状を伝える為に伺いました。
本当に親切で、「ああ妻が嬉しかったわけがわかった」と思いました。

その後も杉山富士子先生の笑顔には沢山救われました♡


■助産院で畳の上で好きな姿勢で産む。
フリースタイル出産というやつだそうです。
妻から聞いてはいたけど、僕にとってはまったくの想像以上の世界です。

出産に立ち会う事すら想像してなかった22歳の僕も、
次第に出産に立ち会わないのがあり得ない、と思えるほどになってきました(笑)。

河合欄さんが提唱するイメジェリー
・幕の内さんの「粗食のススメ」
・大野明子さん「分娩台よさようなら
・管理される出産でなく、自然の時を待つお産

もう17年も前の事なので、沢山抜けているとは思いますが、今思い出せるトピックはこんな感じです。
本当にすべてが新鮮で、若くて頭の柔らかい当時の僕(笑)は、どんどん吸収して行ったと思います。


■「イメジェリー」は出産ジャーナリストの河合蘭さんが日本に紹介した、
「誘導されたイメージ」のこと。つまりイメージトレーニングです。

非常に珍しい男性バースエデュケーター・カール・ジョーンズさん。
蘭さんによると、「男性なのに奇妙なくらいに妊産婦の心理が分かる人」と書かれています(笑)。

蘭さんはファン助産院の杉山富士子先生ともよく一緒に様々な著書、活動をしていて、
私達も1度一緒に食事したことがあります。

妻が目をつぶり、僕が読み上げる、お産に向けて色んなうまくいくイメージのトレーニングをしていきました。
自分にとって特別な場所ースペシャルプレイスーを想像し、
色んな想像をしていた日々を思い出します。

色んな事を考え込んで、色々心配になってしまう妻にとって、
このイメジェリーを夫婦で行うことはとても意味のあることだったと思います。

次女が生まれる頃は、もう長女の世話やらでそんな暇はありませんでしたが(笑)。


■その後の食生活の変化に大きな影響を及ぼしたのが、幕の内秀夫さんが書いた「粗食のススメ」です。
これもファン助産院で紹介してあって、さっそく購入しました。

日本人の根本となるその季節に採れる作物で、
その素材を生かした簡単な調理で食べて暮らす。

その粗食こそがまさに成人病の割合が低い、日本人の秘密だというのです。

欧米食化した若い現代人ではなく、
質素な和食で暮らしている高齢者がなぜ健康で長生きなのかに触れていました。

私達が食べるもの、子どもの食べさせるもので、
その子供の体が出来上がっていく、
そこに粗食というエッセンスが加わり、
その後、無農薬や在来の野菜をその土地、その気候に合った時期に食べることの意味を意識するようになりました。

人参の葉っぱも大根の葉っぱも食べるようになりました。

その後、家族で自給自足を学びに旅に出たのも、この食生活の学びがあったからだと今でも思います。


■とても有名な著書「分娩台よ、さようなら(大野明子・著)」。
これは分娩台が当たり前と思っていた僕には衝撃の考えでした。

お産と言えば夫は手術中のランプを見ながら廊下で待機、
「おんぎゃあ~!」の鳴き声で生れたことに気付くものだと思っていました(思いっきりTVのイメージ)。

本来、人はずっと分娩台ではなく、何かに掴まったり自由な姿勢で子どもを産んできたそうです。

それがいつの日か、分娩台という明るいライトに照らされて、いきみにくい仰向けで、産むのが主流になっていきます。
しかも誘発剤などで出産日ですらコントロールさせる場合もある、現代のお産。

でもそれは赤ちゃんや妊婦の為ではなく、
すべて医師の為の管理である場合が多いというのです。

よく考えれば分かる事なのですが、
現代では疑問すら持たずにそれが当たり前にまかり通っていると。

その現代に痛烈にメッセージを与えた本だと思います。

妻は落ち着いた照明の畳のお部屋で、
自分と赤ちゃんの自然なタイミングで、
丁寧にお産をする事が出ました。

その事を理解するには十分な本だと思います。

ちなみに著者の大野明子先生は産科の医師であり、
なんと当時僕たちがステイしていた高井戸で「お産の家 明日香医院」をやっています。

元助産師の妻曰く、
「現代医療の中で究極の自然が残されているのがお産の世界だと思う」というコメントがとても響き納得できました。


そんな色んなご縁のお蔭で、当時はこんな食生活になっていきました。
独り暮らし用のお部屋なので、足りない食器は100円ショップで揃えました。

そんな今でも続く、色んなご縁を頂いて、
全ては初めてばかりの中、新しい夫婦の僕たちは一生懸命に、
来たるべきお産の日を待っていました。

10月中旬のとある日の朝早くに、妻が叫びました。
「起きて!破水した!!」
そこからついにフィナーレともいえるお産が始まりました。

続きの③長女誕生編 は次回をお楽しみに(#^.^#)

SUPで海と繋がる1ヶ月~ついにイルカに逢えました♡

2020年10月21日 | SUPライフ 母島
■念願のSUPが母島に届いて1ヶ月。
ほぼ毎日SUPを漕いでいます(笑)。
SUPにどハマりしています(*^_^*)

強風でボードを運ぶのが危ない日以外は基本的に毎朝SUPを漕いでいます。
(時化で沖に出れない日は脇浜内で練習)
ここまで自分がハマると思っていませんでした♡

そしてついに昨日、SUPで念願のイルカちゃんに出逢う事ができました♡

と言っても、漕ぎながら写真を撮れるほどではないので、この写真は先週船から撮ったハシナガイルカの群れです。
SUPで会った場所もだいたい同じです。

SUPをしていて、時々遠巻きにイルカを見かける機会はありましたが、
昨日は見事にSUPのすぐそばで出逢う事ができました♪

可愛いハシナガイルカ達でした(*^_^*)
40匹くらいの群れです。

沖からSUP方向にやってきて、
囲まれました(*^_^*)

しかし、ボートに比べて速度も出せないSUP(ハシナガイルカはスピード好き!?)。
素っ気ない野生のイルカたち(*^_^*)。
ちょこっと様子見をされた後は、何もなかったように行ってしまいました(笑)。

しかし、僕はとっても幸せな気持ちでした♪

エンジンのある船でなく、動力を使わないSUPやカヌーでイルカに逢えたことに、どこか安堵感があるのです。
感謝の気持ちに包まれました♪

ウミガメや沢山のお魚、海鳥たちにも毎日逢えています(*^_^*)

最近はアジサシやカツオドリとの時間が楽しいです♪


■毎朝のSUPは朝焼け、朝日から始まります。
これが1日の始まりとしては最高なんです♪

まず海に一礼してから、海に入り、毎回お祈りをします。
大自然に感謝し、
家族、島のみんなに感謝し、
無事に帰って来れる事を祈ります。

そのあとは15分くらい脇浜の海上でヨガをしてから沖に出ます。

基本的には向かい風、向かいのうねり方面に30分漕いで、帰って来ます。

凪の時はこの時間で四本岩くらいまで行けますが、
荒れている時は波の立つところでずっと波乗り練習です(全然まだ乗れませんw)。


僕はよくこのオオモリ博士のサップチャンネルの動画を参考にさせてもらっています!
本当に分かり易くて、とても為になっています♪
ありがとうございます!

南風のときは南の蓬莱根を目指します。

荒れて、波がある海も楽しいけど
久々の凪の海は、やっぱり気持ちいい♡

距離を測ってみると6.5kmありました。
これくらいだと途中泳いだり休憩をはさんで90分くらいのコースです。

SUPはなんと1時間で1000kcal消費するエクササイズなのだそうです!
数か月後、これで引き締まった体になるはず(笑)!?

SUPはとにかく常にバランスを取りながら、パドリングをするので、
体幹が鍛えられるそうです。
そして、パドリングはカヌーで漕ぐのとほぼ変わらないので、
毎朝パドリング練習ができます♪

僕は母島でカヌーを漕ぐ時はステアをする場合が多く、
なかなか集中してパドリングだけする機会が少なく、
自分にとっても課題になっていたので、これは嬉しい側面です(*^_^*)


蓬莱根は世界で一番美しい場所とも言われているので(*^_^*)、
毎回その風景が楽しみです♡

SUPは目線が高いので、
とても景色がいいです(*^_^*)

朝の気持ちのいい景色の中漕げるのは、
本当に有難いことだと思います。

そして人数を集めなければ沖に行けないカヌーと違い、
ひとりでも沖に行けてしまいます。
これはこのコロナ渦では本当に有難い側面でした。

久々に行った大潮の満潮時の蓬莱根は砂浜が水没していました(*^_^*)


■SUPについては簡単に書いていますが、
ここまで来るのには20年の島暮らしと、
カヤックやカヌーで日々沖に行く経験、
素人ながらも毎日漕いでいる経験で沖に行けていると思ってます。

間違っても気軽には行っていません。

マリンスポーツを極めている訳でも、
毎日漁に出て海を学んでいる訳でもありません。

しかし、風、うねり、潮の流れ、危険な生物、色んな要因があるのを考慮しなければいけません。
色んな想定を考えて、何度もトライ&エラーを繰り返します。

SUPはあまりに気軽な為に実際に海難事故も多く、
沖に行くと帰って来れないケースもあるそうですので、
初めての方は本当に良く気をつけて、練習をして、備えをして臨んで下さい。

絶対に死んではいけないし、島の漁協さんなどに迷惑をかけるようなことにはならない様に注意して下さい!
そして、「海にお邪魔している」という気持ちを忘れないでやっていこうと思います。


そんな朝SUP海面から拝む朝日が本当に美しいんです(*^_^*)
毎日違っていて、全然飽きません。

北風や北のうねりの時は北の四本岩を目指します。

途中のおりょう根付近など、いい波が立つポイントがあるので、そちらも楽しみのひとつです。
くどいようですが、まだ全然波に乗れません(笑)。

■そんな夏の終わりを感じさせる10月の母島。
すっかりお日様も沈み、
夜の帳が迫って来ているのに、
海面のSUPに飛び乗るという新しい遊びを始める島の子供達がいます。

あまりに楽しそうで帰るぞとなかなか声をかけづらい(笑)。
こーゆーのを楽園というんでしょうね(#^.^#)

前浜から見ていて、なんて平和な景色なのだろうと思います。


子供達は放っておくと真っ暗になるまで海で遊んでいます。

これは毎日の夕方の光景です(笑)。


■一方、祝日の健全な昼間もやっぱり海は子ども達の世界。

みんな飛び込みが大好きです。

保育園児や小学校低学年の頑張る飛び込みも楽しいし、
上級生の美しい飛び込みも見ていて、そのフォームの美しさに感激します♪



■大人はそんな子供たちを横目にシュノーケル(笑)。

今日の北港はアホみたいに魚だらけでした♡

今年は台風も少なくて、いつも冷たい北港が水温30度超えの異常事態でした。
現在は28度まで下がり、白化減少したサンゴも少しずつ戻って来ています。
産後は詳しくないので種類は分からないのですが、
テーブルサンゴも枝サンゴも真っ白になっていましたが、少しずつ戻って来ています!

そんなまだまだ海で遊べる小笠原です。



■なんと母島には普通の信号機がありません。
だけど、時々道路工事に伴う信号機が置かれます。

内地ではなんでもない信号待ちですが、
島暮らしではなかなか待つのに慣れていないかも(笑)。

ちなみに
父島には2か所も信号機があります。
父島には道路のセンターラインもあります。


■10/11は御嶽神社の例大祭の日でした。

新型コロナの影響で、農業者のみによるご祈祷のみとなりました。

午前は神社、及び参道の掃除。
日々の収穫、自然に感謝し、今後の豊作を祈ります。

今年もローゼルを奉納させて頂きました。


ご祈祷の瞬間だけ、まさかの土砂降り。
来年の水不足の心配はなさそうです(笑)。


ご祈祷後は美味しい手作りお弁当を家族で頂きました。

いつも当たり前にできていたことが、できなくなって、
その当たり前が本当に有難いものであったことを実感します。

そして、その中で、できることを模索し、前に進んでいく大切さも再確認しました。
本当に有難うございました!!

Hau`oli la Hanau~ 二人の娘たちへ① 長女搬送編

2020年10月16日 | 娘たちの誕生物語
■ハウオリ・ラ・ハナウ( Hau'oli la hanau)、これはハワイ語でHappy Birthdayの意味があります。
我が家には二人の娘がいるのですが、誕生日は10月の中旬に1日違いで生まれています。

この写真は2010年6月、長女が6歳、次女が0歳8か月の頃の写真です。可愛い~♡

今回は長女がカナダ留学しているおかげか、日本とカナダの時差があって、
二人の誕生日がなんと同じ瞬間に重なっている時間があります。(日本がカナダ西部より16時間進んでいるのです。)

母島との距離を測ってみたらなんと約7,777㎞も離れていました)^o^(

それを記念して、6歳離れた二人の娘が生まれるまでの思い出を書いてみようと思います。
どちらも平坦な道のりではありませんでした。

我が家に可愛い娘が二人も授かったことは、
奇跡であり、本当に有難いことです。

22歳という、若くして父親になった僕は、
最初から大人だ、父親だなんて自覚は微塵もなく(笑)、
子供達と一緒に過ごす日々のお蔭で、一緒に成長させてもらって来ています。

今でも全然まともな父親にも、大人にもなれている気は一切しないのですが(笑)、
間違いなく素敵で魅力たっぷりな娘に育ってくれていると思っています。

共に育ててくれている、
この家族、
島のみんな、
この大自然と、
ご縁のある出来事すべてに深く感謝します。

どうもありがとうございます。


日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕です(笑)

■さて、今年17歳に長女は2003年に東京の杉並区にあるーファンー黄助産院で産声をあげました。
しかし、その無事に生まれるまでが波乱万丈でした。

当時22歳の若い僕は、結婚したばかりで何も分からずにがむしゃらに生活をしていました。
仕事は父島の小笠原ユースホステルで働いていました。
お金のない僕たちは、父島の元飯場の部屋を間借りし、
お風呂とトイレが共同の中で暮らしていました。

当時は、等身大の僕が一生懸命というか、精一杯に生きていたのですが、
本当に何もかもが初めてで、今思っても幼い父親の僕は何も分からない故に、
色々自由だった気がします(笑)。

妻は初めての妊娠で悪阻(つわり)や体の変化にとても戸惑い、苦労していたように思います。

今でもよく覚えているのは
「何か体に悪いものが食べたい!!」
と事あるごとに妻が言っていたのを思い出します(笑)。

つわりで痩せ続ける状況の中、
食べれるものは何でも食べた気がします。

当時、ちょうど食生活に気をつけようと思い始めた矢先のことでした。
お菓子や、衣が付いた揚げ物を特に好んでいた気がします(*^_^*)

つわりというものは、
女性自身には体に新しい命が宿り、大きな変化の為にあると思うのですが、
パートナーに対しては、全然事の重大さに自覚できない男に対して、
【緊急事態発生!フォローすべし!】のためのメッセージを伝える為につわりはある気が勝手にしています(笑)。


■さて、妻のお腹が目に見えて膨らんできている最中、(妊娠28週くらいだったかな?)
お腹の張る状況が続き、診療所で「切迫早産」の診断を受けました。

つまり、早産してしまう兆候が見られるので、なるべく安静にして十分な週数まで過ごしてくださいというものだと思っています。
妻は家で横になって、あまり立ち歩いてはいけない日々が始まりました。

今も当時も小笠原では出産できる施設はなく、
皆、妊婦は32週までに定期船おがさわら丸に乗らなければいけません。

しかし、切迫早産で症状が少しずつ悪化している中、
診療所の医師が揺れる可能性のあるおがさわら丸での上京は厳しいと判断し、
内地に飛行艇で緊急搬送されることが決まりました。

急な展開に、大慌てした記憶があります。
確か午後に診断されて、診療所に入院し、翌日昼前くらいに搬送するというものだった気がします。

日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕。この頃はよく頭にタオルを巻いていました

■暖かいユースホステルのオーナーと同僚、お客さんたちが色々贈り物をくれたり、
自衛隊基地から飛び立つときに、青灯台で見送りダイブをしてくれていました(#^.^#)

初めての飛行艇もドキドキでしたが、それ以上にドキドキしていたのが一緒に同乗してくれていた、
産科の研修医のドクターでした。

ポケットに沢山の参考書を詰めて、
万が一搬送中に出産の可能性も考え、色んな用意をして内地から乗って来てくれていました。

その為か、顔が青白く緊張がMAXの表情でした。
貼り止めの点滴している状態での搬送でしたが、点滴のペースをコントロールする機械がカテーテルと合わず、
悪戦苦闘していました。
研修医のTさんは頭真っ白だったと思います。

そこで、元助産師の妻が、「何秒に1滴のペースを維持して下さい」みたいな指示を出していました。
すると、研修医Tさんはギョッとして「ひょっとして医療関係者ですか?」と聞いてきて、
そうだと知った瞬間の安堵した表情が忘れられません。

本当に急にわざわざ内地から飛行艇で乗って来てくれて、感謝です。
ありがとうございます。

タンカーに縛り付けられている妻はまったく動けない状態ですが、
ただの付添いの僕は外の初めて見る父島の美しい空の景色を眺めていました。

この搬送には本当に沢山の人が関わり、多額の費用がかかっています。
本土まで1000kmという超遠隔離島の暮らしを支えてくれている
搬送に携わってくれた自衛隊、村役場、診療所の皆さん、
沢山のフォローをしてくれたユースの皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

妻も僕も妊娠期間中、お腹の子の命が絶対大丈夫という確信はなく、
ずっと不安がある中、過ごしていました。
新しい命が生まれるということは、少しも当たり前の事ではなくて、
本当に奇跡なんだなと今はさらにそう思えるようになってきました。



■飛行艇は羽田空港(厚木基地だったかも)に島を離陸して3~4時間くらいで着陸しました。
普段24時間かかる距離をあっという間に渡ったものなので時差ボケを起こすほどでした(笑)。

飛行場から搬送される予定の広尾の日赤医療センターまでは救急車で運ばれていきました。
この救急車がまあ飛ばすし、揺れるので、切迫早産の妻にはとても辛かったようです。

一生懸命搬送してくれている消防庁の方も、
どいてくれない一般車や周囲の愚痴を漏らしていて、なんだかとてもイライラしていました。

正直、そんなに急ぐよりも、揺れないで搬送してほしい、そう伝えてからは少しマシになった気がします。

日赤の病室からの景色。ほとんど動けない妻にとっての変わらない広尾の景色です

のどかな島から、一気に都会に降り立った僕たちは、
暮らしている人たちの大きな変化に戸惑っていました。

無事に日赤医療センターについて、参加のドクターに
「私は助産院で出産したい希望があります」と伝え、それを承諾してもらいました。
生まれても大丈夫な36週までの50日間、日赤に入院することになったのです。

日赤医療センターはお産、産科にとても力を入れていて、
希望者にはフリースタイル出産、産後母子同室も実施していて、
産科病棟で働く看護師はみんな助産師の資格を持っているという徹底ぶりでした。

僕は日赤のお見舞い家族関係者の一時滞在用のお部屋をお借りすることができて、
超有難い低価格の滞在をすることができました。

ワンルームのお部屋で病院の裏手にありました。
トイレもバスも台所もついていて、お金のない僕たちにはとても助かる滞在先でした(*^。^*)

妻の面会は毎日あるのですが、
広尾商店街のお弁当屋さんで働くことになり、
新しい土地での生活が始まりました。

丁度、初めてのデジカメを買ったのもこの頃です。
写真が主に入院以降なのはその為です。
携帯電話はあったけど、SNSもスマホもない時代です。
そんな日々がなんか懐かしく思えます。


■「助産院で畳の上で子どもを産みたい」
これが妻が妊娠してから言っていたことでした。

お産なんて何も分からない22歳の僕。
病院の廊下で手術中のランプを眺めて、産声を聞いて誕生を知る程度しか知識がない僕にとって、
妻からの申し出はまるっきり未知なるものでした。

助産師であった妻はアクティブバース、つまり受け身ではなく、主体的にお産に臨みたいという姿勢でした。
超新米パパの僕にとっては何もかもが新鮮過ぎる日々でした。

しかし、あまりの若さというものは
時に色んな現象を素直に受け止めれる心の柔軟さがある気がします。

次第に助産院で畳の上で産みたいという意味が分かって来ました。
病院で管理されたお産ではなく、できるかぎり自然な現象として、
そして自分の力で新しい命を迎えたい。

36週に退院するまでは、
面会に来てくれる友人や、慣れない共同の病室での日々、
都会での暮らしに戸惑いながらも楽しく日常が過ぎて行きました。

変わらない景色の中。お腹の張りが辛くて、寝たきりの妻は腰が痛くなったり、
色んな辛い状況もあった気がします。

お腹の上からも動いている赤ちゃんを僕も感じながら、
一生懸命にその日々を生きていた気がします。

50日間の入院を経て、ようやく退院する日を迎えることができました。

日赤から歩いて麻布十番の浪速屋総本店のたい焼きをよく買いに行った覚えがあります。
同じ病室の皆さんにも届けたりした気がします。
当時、同室だった妊婦同士は今でも年賀状とかで交流が続いています(*^。^*)

妊娠、搬送、退院、出産、産後、
どの場面でも大変ですが、この退院するまでが一つの節目だった気がします。

二人の娘のダブル誕生日をきっかけに書いてみましたが、
いつも通りあまりに長くなりそうなので、複数回に記事を分けることにします。

続きは次回②をお楽しみに(#^.^#)

母島 中秋の名月~秋の母島

2020年10月10日 | 母島 日常 日記
■母島も少し涼しくなり、秋の雰囲気を感じられるようになりました。
まだまだ日中は海で泳いでいる日々ですが、
風は間違いなく涼しくなっていますし、
山々や畑でも色んな場面で秋を感じさせてくれています♪

今年も10/1の中秋の名月の日にお月見をしました。
今年はなんと次女が栽培した黒小豆を使った大好きな「ふきゃぎ」が僕の心のメインです(#^.^#)

ふきゃぎは沖縄伝統の塩おはぎの一種です。

ふちゃぎ(吹上餅)、本来は餅粉に水を加え、こねて蒸したものに、
塩茹でした小豆をまぶしつけたものだそうです。
北陸地方でささげ餅と呼ばれるものと同種のものだそうです。

旧暦の8月15日(十五夜)に、豊作を祈願してヒヌカン(火の神)と仏壇、神棚に供えた後に食べる縁起物とされています。
小豆には魔除けの意味合いがあり、小豆をつぶさずにまぶすことで当年の災難避けを祈願するとか。

今年は次女自身が白玉粉で可愛く作ってくれました♪

お月見は本来、秋の収穫祭です。
そこに沖縄の災難除けをコラボした感じになるでしょうか。

日本しょっぱ党の僕は、この塩の利いたおはぎが大好きです♪

あんこ星人でもあり、日本甘党の妻は、毎度見事なおはぎをこしらえてくれます。

豆から作る、塩加減な絶妙なおはぎは、我が家のハレの日の名物です♪

いつもいつもこうした季節の行事を大事にしてくれる妻に感謝です♪
ありがとう(#^.^#)


■最初は曇り空で諦めていたお月様も、美しく魅せてくれました。

以前、母の危篤でカナダに行った時に、日本から遠く離れているのに、
同じ満月が見えるのが不思議で、でも、どこかホッとしたのを覚えています。


今期初物のローゼルを使ったハーブティー。
夏場は主に葉ローゼルのルビーローゼルが主流なのですが、
やはり本家のローゼルの旨味は絶妙です♪


ローゼルティーにスプライトを足したフルーツポンチ。
これも美しくて美味しいお月見名物です(#^.^#)


今年は不作で沢山出荷することが出来ずに残念ですが、
毎年こうして実ってくれることに感謝です。


野外に特設したお月見の食卓も、家の中より涼しいし、気持ちいいし、
ずっと外でダラダラしたくなってしまいます(#^.^#)


そんな今年のお月見も無事に終える事ができました。
感謝ですm(__)m



■さて、小笠原で秋と言えばセミです。
本来は、人と外で会話できない程、オガサワラゼミの合唱が聞ける季節でした。

しかし、近年外来種のアノールトカゲが父島、母島、そして兄島に侵入し、
次々と固有の昆虫を捕食して、オガサワラゼミも激減しています。

今年は、母島の庚申塚で久々の大合唱を聞く事ができました。

オガサワラゼミは小笠原にしかいない固有のセミです。
国の天然記念物に指定されています。

このオガサワラゼミは沖縄のクロイワツクツクと鳴き声や姿もそっくりなので、
明治以降、人が入植した頃に土に入って運ばれたのでは?と考えられていましたが、
江戸時代の書物の中でも鳴き声が沢山するなどと記述があったことが分かり、
さらにDNA解析すると140万年以上前に種分化していた事がわかったそうです。


鳴く時期は9月ごろから鳴き始め、遅いと年越しまで鳴いていたそうです(現在は遅くても10月くらいまで)。

海洋島で生息しているのは珍しいそうで、ハワイやガラパゴスなどではセミは住んでいないそうです。

今年はあまりに大合唱が凄いので動画にも撮ってみました。


羽が透明で美しく、胴体はほんのり緑かかっています。
よぉく見るとバルタン星人ですが(笑)、綺麗なもんです。


内地でセミを捕まえたり、羽化を眺めるのが好きな次女はさっそく捕まえていました。


近くには小さな抜け殻も沢山発見できました。


最初に書いたように、外来種の影響で激減しているオガサワラゼミ。
その原因となるアノールトカゲをオガサワラにペットとして運んだのが人間です。

現在も人が住んでいなくて、アノールがいない属島では大合唱が続いています。
母島よりアノールの侵入が10年早かった父島では、なかなか大合唱は聞けないそうです。

10年後の母島もそうかもしれません。
人間という一番の外来種が自然に及ぼす影響は計り知れませんね。

南崎では衝撃的な写真が撮れました。

オガサワラゼミを捕食するアノールトカゲです。
変な鳴き声をしているセミがいたので、見上げて発見しました。
あんなに大きさがあるのに、飲み込まれてしまうのですね。


■そんな何とも言えない気持ちになりつつも、季節は巡り、日々の日常は進んでいきます。
島に届いて3週間のSUP。
もう楽しくて、ほとんど毎日漕いでいます。

凪の海も楽しいし、まだまだ下手くそですが、波に乗れるのも楽しい♪


漕ぎながらも色んな事を感じて、
色んな事に想いを馳せている事ができます。

季節や収穫、日常に感謝できる行事というものもとても大事なものです。
「やらなきゃいけない」に縛られて気が重くなるのは、あまりいいかなと思っていますが、
「やりたい」と思って、大事にしてくれる気持ちはとてもステキだと思います。

今は朝の5時。
これからSUPに行ってきます!

2020年 母島産ローゼル販売開始!!でも…

2020年10月08日 | ローゼル販売
■お待たせしました!
今年も10/1より母島農協にてローゼルの出荷を開始しました(事後報告)♪
本日も母島農協に出荷します(#^.^#)

しかし、今年は生育が悪く、品質も実の大きさも十分なのですが、収量が少なめな印象です。

毎年内地から購入してくれているお客様には大変申し訳ないのですが、
今期のローゼルは基本的に小笠原JAでの販売のみにしたいと思います。


できて父島出荷程度で、毎年楽しみにしてくれている内地向けのキロ単位での出荷は残念ながら厳しそうです。
本当に申し訳ありません。

去年は大豊作の状況でしたが、猛烈な台風被害があり、それもまた悔しい思いもしました。

今年は、春から雨が多く、立ち枯れも過去最高の数にのぼりました。
木自体の生育も今一つです。

毎年、安定して作物を出荷している農家さんの凄さを改めて思いました。
毎年気候が違う中、本当に凄いことだと思います。

そして今シーズンはネズミの害も酷かったのです。
いつもは種を食べられる程度でしたが、今年は未熟な実ですらもの凄い被害を受けています。

当農園は殺鼠剤すら撒かないのです。
新たに策を講じなければいけない状況に追い込まれました。

自然が相手の畑なので、いつも同じようにできないものですが、
これを教訓に次シーズンも頑張っていく所存です。

そんな中でも実ってくれたローゼルに感謝し、細々と出荷させて頂きます(#^.^#)



■ローゼルとの出逢いは2006年の家族で日本中のWOOFを旅した時に、
西表島の「マナの店」で売られていたアンパンの中央にローゼルの塩漬けがあり、妻がそれに気付き、
そのままお店の人に畑を見せて貰い、種を分けてもらったのが始まりです。

その後、母島に引っ越して畑を借りて、毎年種を取り続けてきました。
毎年、木が大きくなり、母島の気候に作物が合って来ていると感じていました。

そんな最中で今年、一昨年と不調な年が発生して来ていました。

これも新しい学びのきっかけなのだと思います。
この自然からのメッセージを汲み取って、今後に生かしていくしかないと思っています。

ブログでは様々な加工の記事を書いています。
葉や種の料理利用など、まだまだ色んな方が使い方を開発してくれています。

まだまだ今後が楽しみな作物なのです(#^.^#)
色んなレシピを教えて下さい☆
どうぞよろしくお願いします!



■さてさて、渇水に苦しんだ2018,2019年の小笠原。
今年は意外と雨も多く、貯水率が大丈夫と思っていましたが、なぜか乳房ダムは80%です。

秋の台風や雨で降らないと、また来春が心配な状況なんです。

こちらは最近見事に溜まらない魔法の玉川ダム。
何故か今年はたっぷりです。


8mが満水なので、なかなかの量だと思います。


■先日の日曜日の午後は次女とお友達が何時間もSUPで遊んでいるのを横目に読書をしておりました。(何時間遊んでいたのだろうw)
全日空の機内誌「翼の王国」の人気コーナーでもある、
【おべんとうの時間】の阿部ファミリーが母島に取材に来てくれたのですが、今回はそのライターの奥さん・阿部直美さんが書いた半生記です。

内容はめっちゃ面白かったです!
直美さんの知らなかったバックボーンを沢山知れて、ああ、なるほどなぁ~と思ったり、意外性の連続だったり。
父親との確執から、終末期まで。
無料通話でいっぱい電話してくるお母さん。
そして、アメリカに高校留学!

ちょっと、最近まともに連絡を取り合っていない長女に連絡取ろうかなと思ってしまいました。

ホームステイ先のファミリーやキムとの間柄。
描写がスリリングで、読んでるこっちがドキドキしちゃいました。

2015年に出版された「おべんとうの時間3」に当時の僕や長女、島の素敵なメンバーが取材されて載ってます。
懐かしい~
こうしたご縁で繋がれて本当に感謝♡

当時のブログ記事です。
みんな若い、幼い(笑)!!!


■そしてこないだの週末で2週間連続SUP Dayでした!!
本日は仕事ついでに一番海が荒れている東港へ。

ベタ凪も気持ちいいけど、
最近は荒れた海も楽しめるようになって来ました♪

乗れる波と乗れない波(うねり程度)の区別がまだまだです(#^.^#)
明日もRide on!!台風接近ですが、SUPは毎日漕いでます(笑)!

東港の大時化の中、
SUPで波に翻弄されている僕をひたすら眺めていたトリさん。

あなたはクロハラアジサシちゃんですかね?
オオアジサシさんも来ていましたよ。

そんな秋の母島でした(#^.^#)