小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

カナダで思う、自分の低い英語力

2018年07月26日 | 旅行記 カナダ
■カナダに着いて約一週間が経とうとしています。
3000km近くも車で移動する大陸のスケールの大きさに圧倒されています。

そして、今この貴重な経験をさせてもらっている現状に感謝の気持ちでいっぱいです♪

約一ヶ月島を離れる休暇のために、
関わる仕事の穴を多くの人に支えてもらっています。

留守中の畑を、家畜を世話してくれている友人がいれくれます。
メールでネットで応援して支えてくれる友人がいます。

一緒に力を合わせて旅をしてくれる家族がいます。

カナダで私たちを快く迎え入れてくれて、
毎日、何時間も車のハンドルを握り、
カナダ中を案内してくれて、
沢山の喜びとギフトをくれるステップファーザーのケビンがいます。

本当に感謝の気持ちでいっぱいです♪
どうもありがとうございます!



■ドラムヘラーの恐竜ミュージアムや、
ジャスパー、バンフの国立自然公園を回りながら、
日々色んな宿やお店を旅しながら、
やはり悔しいのが自分の英語力のなさです。

カナダ人のケビンと、
英語が大好きで堪能な長女のお陰で、
想像以上に快適に旅はできているのですが、
要所要所で自分の英語力がなくて悔しい場面があるのです。

*「Mt.ロブソンでごんす by長女」

元来、僕も人とコミュニケーションを取るのは大好きなので、
簡単なやりとりは、
ほぼ問題なくできてると思うのですが、
少し踏み込んだ質問や、
会話の深みに到達できない悔しさが募ります。

*ドラムヘラー、恐竜ミュージアムでのマンモスの全身骨格

■去年のバリ旅行でも同じような悔しさがあり、
重い腰をあげて、
ようやく僕も4月からインターネットの英会話を始めてみました。

長女はもうすでに去年の夏から毎日ずっと続けていて、
それはもう悔しいほど彼女の英語力は上達しています。

毎日、世界各国の人と会話するのは、
彼女にとってもかなり刺激的でしょう。

僕も遅れて始めたのですが、
やはりピチピチの十代の脳味噌とは雲泥の差です(笑)。
悔しいほど覚えられない!

それでも効果があったなと思うのは、
相手の言葉が大分聞き取れるようになったことです。


*Mt.ロブソンにて雪山の山脈と次女

もちろん、その単語を聞き取っても、
ぼくの拙い英語のボキャブラリーでは、
意味までは分からないことが多いのですが、
一応、なにを言っているかは聞き取れる事が増えた気がします。

これから、恐らく英語が必要な場面が増えるでしょうし、
自分自身、もっと英語を上手になりたいと思うので、
自分なりに頑張っていこうと思う今日この頃です。


*真夏のカナダの山の上には雪が残っておりました♪


■そんな英語について考えつつも、
カナダのスケールの大きな大自然は別の言葉を訴えかけてきます。

ヒトがこの世界に誕生する前の言葉です。

ジャスパー国立自然公園のロブソン山の上で、
いつの頃からあるか分からない、
残雪を触りながら(密かに長女はその雪を食べていた♪)、
広大な何万年前の氷河を前にして、
この現代に生きる私たちの奇跡と不思議さを想うのです。

今はバッドランドと呼ばれ、
草木も生えず、不毛な土地からは、
かつて地上を支配していた大型の爬虫類「恐竜」の化石が多く見つかっています。

そこには多くの植物や海に生きていたであろう恐竜の化石、
魚や鯨の祖先も見つかっています。

一見、今は不毛な土地でも
遠い古代に遡ると、
まったく違う風景だったのでしょう。

そう思うと、
当たり前なことですが、
今この瞬間も世界は変動していて、
同じ日など1日もないことが分かります。

そう思うと、
やはり今日という1日を存分に味わって、
精一杯生きたいと思えるのです。

*バンフ国立公園にある美しいルイーズ湖

その景色を眺めながら、
スケッチする長女の横でそんなことを考えました。

今日は大陸を離れて、ついにバンクーバー島に移動します。
どんな出逢いが待っているのか、ワクワクしてきます♪

Have a great trip!!



カナダに到着!! 

2018年07月23日 | 旅行記 カナダ
■長いフライトを終えて、無事にカナダのバンクーバーに着きました。
それから3日。
車で1日に500km以上も移動しています!

今はアルバータ州のヒントンに来ています。

今回の旅の目的は色々ありますが、
ひとつはちょうど10年前に母が住んでいたカナダで他界し、
パートナーのケビンとした約束を果たすためでした。

それは、いつか家族でカナダを訪問し、
母の灰を撒いたビクター湖を訪れることでした。


■バンクーバーに到着し、
日本との時差でもあるマイナス16時間(サマータイム時期)、
夜の9時過ぎまで普通に明るい季節、
日本の北海道より寒く感じる真夏。
道を走るあまりに大きな車に驚いています♪

どこまでも続く大陸、
美しすぎるロッキー山脈、
広大に広がる大地と針葉樹林…
見るもの、出会うものすべてがとても新鮮です☆
子供たちもいっぱい異国の地を楽しんでいます♪


母とケビンが過ごしたロッキー山脈のグランド・カッシュまで
車で1200kmほど旅してきました。
昨日はようやく念願の母の灰が眠るビクター湖を訪れ、
家族みんなでお祈りすることができました。

最愛の母を亡くしてから、
バンクーバー島に居を移したケビンも、
懐かしい知人に会って、僕らを紹介し、会話に花が咲いていました♪
凄く嬉しいひとときでした☆


■まだ旅はこれから約2週間続きます。
まだまだ陽がものすごく長いことに慣れない私たち。
ホテルで寝静まるのはなんと夜の12時の日々です(いつもは21時は寝ます)。
普段、当たり前にお日様の光でリズムを作っていることに、
今更ながら関心しています(笑)。
いつも眠くなる子供たちが夜の12時まで元気なのは骨が折れます☆

それでいて、朝はちゃんと5時過ぎには明るくなるのだから、
白夜のある極北の民の生活は想像を絶します(笑)。

これからはジャスパーやバンフの国立自然公園の自然を堪能し、
バンクーバー島に移動していく予定です。

2年前の北海道でも十分に驚きましたが、
やはり大陸はとてもとても広大ですね!!

ずっと道が続き、
この先なにがあるのか分からないまま進むと突然、
街が現れるのです。

そこは先住民が過ごしていた土地だったり、
金や石油が見つかり発展した町、
もしくはそこに至るまでの中継地だったりと、様々です。

ギュッと凝縮された四季の美しい日本、
美しい大海原に囲まれた固有の自然の小笠原、
それとはまったく違う大陸の多様な大自然と文化。

私たちはそこで得られる学びを存分に味わって行こうと思います♪
Have a nice trip!!

母島カフェMAMAYA サンセットライヴ2018.07.14

2018年07月18日 | 音楽
■先日父島の映像企画集団!?ボニンタイム主催の企画ライヴが行われました。
舞台は何と今年オープンしたばかりの母島CAFE MAMAYA!!

あまりにも美しく、最高のロケーションのお店なので、
すっかり気に入られて、ライヴする運びになったそうです。

だって、こんな夕陽を見ながら、最高の演奏を楽しめるのだから☆


まだ西日にもならないくらいの午後16時からガッツのDJタイムでライヴは始まり、
17時からは生演奏のライヴが始まりました♪


■まずは母島スケちゃんバンド。


出演者の可愛いお子ちゃま達は色んな所で、
可愛く遊んでいます♡
うちの長女はずっとこの子たちに遊んでもらっていました(笑)♪←子守りなのか!?


いや~いつもは室内でやることの多い母島のライヴですが、
この背景でのライヴはタマリマセンね~~♡


ステージ横に並んだギター群も様になりまくっています!


写真的には超逆光ですが(笑)、現場はまるで後光が差してきているようでした♪


フラも背後の太陽があまりにみんなを美しく照らしてくれる☆


■その後は父島のあべちゃんがカッコよくブルースを決めます(*^_^*)
みんな島レモンハイボールが効いてきて、
いい感じの顔になって来ていました♡


太陽もゆっくりと沈んできて美しい風景を魅せてくれます。


太陽から伸びるこの道を歩きたいっ!と島の小学生が懇願しておりました(*^_^*)


■こんな景色にうっとりしていたら、
母島・あいちゃんが太陽の光を反射するミラーボールの下で歌い始めました。
今回はなんとギター弾き語り!!
大好きなマイケル・ジャクソンやシンディローパーを見事に歌い上げます♪
凄く気持ちがいい(*^_^*)


夕陽のパワーにカフェママヤが夕陽色に染まります。
そうこうしていたら、
もうあの時間!

■そう、そろそろ待ち焦がれていた父島の風音(ふね)の出番!!
夫婦で素晴らし過ぎるハーモニーを奏でます♪

うちの長女はいつもCDで聞いていた名曲「時雨山」を聴けてうっとりしていました♡

■その後は自分たち、すりっぷ→おっとの出番でした♪
いつもは勢いと歪みで突っ走っていたバンドですが、
今回は都合により3人でアコースティックに演奏しました☆

アコースティックはごまかしが効かないので、
本当に難しいことを実感しました!!

今年は大好きなhideが没後20周年を迎える年だったので、
hideやXにまつわる曲、メンバーがそれぞれ希望を出した曲を演奏しました。

いっぱい失敗はしましたが、すごく気持ちよく演奏できたので良しとすることにしました(笑)!!


■トリは父島のゆうくんのバンドです。
シンプルな構成と、
オリジナルの歌で、
とても素敵でした!!

ストレートに響く歌は、長女も反応しているようでした♪
西日本の豪雨の被害についても言及し、
とてもトリに相応しいカッコ良さでした(*^_^*)


その後はDJタイムとなり、
夜遅くまでカオスの様にみんな踊りまくっていました…

■このライヴが決まってからそんなに時間はなかったのですが、
こうしてとても素晴らしいイベントになったのも、
関わった皆さん、声援を送ってくれた皆さん、飲み物・食べ物を用意・販売してくれた皆さんのお蔭です!

どうもありがとうございました!!

今日から我が家は少し早い夏休みを取り、
ずっと行きたかった所に行ってきます。

しばらくブログ更新が止まるかもですが、
再開時は報告もしますので、お楽しみに~(*^_^*)

小笠原返還50周年 記念式典&パレード 父島編

2018年07月08日 | 島のイベント
■今から50年前の1968年6月26日、小笠原諸島はアメリカから返還されました。
今年は返還50周年の節目の年です。
そして
6月30日に父島でパレードと式典、
7月1日には母島でパレードと記念セレモニーが行われました。

小笠原の父島・母島合わせて住んで15年。
この50年に一度の節目をこの目で見て、
感じるために母島から父島の式典を見に行きました。
その中で、この50年の月日に思いを馳せるとともに、やはり色々と感じることがありました。


■一番気になっていたのは、小笠原の航空路の問題です。
よく島民の悲願と言われ、報道されますが、
僕の周りの友人は空港を望んでいない人がほとんどです。

以前行われたアンケート(7年前だったかな?)で
賛成、条件付き賛成(環境を守っての空港ならありなど)を合わせて7割だったのですが、
その後の報道では「賛成が7割」と書かれ、いつもながらに酷いものだなと思っていました。
間違いなく“全島民の悲願”ではないのです。
マスコミの偏った報道にもいつも疑問があります。

小池都知事はあいさつの中で、
島民生活の安定と国境離島である小笠原の自律的な発展、
島民の安心、安全を守る観点から必要と考えているとのこと。

以前からの空港案の洲崎案、硫黄島案、飛行艇案のうち、
実現性の高い洲崎案に的を絞り、集中的に検討を進めていくとの事でした。

その際には自然環境に対して最大限配慮することが重要であり、
これまで検討していた滑走路案より短い1000m以下の滑走で運航できる機材を検討していくとのこと。
おそらく水上飛行艇とAW609などのティルトローター機(いわゆるオスプレイと呼ばれている機)で検討しているのでしょう。

それらのあらゆる可能性を追求し、前に進めていく意向のようです。

ハッキリと空港と作るという名言は避けました。
が、以前から言われている
滑走路を伸ばすために焼場の波がなくなるかもという心配や、
離陸、着陸時に邪魔となる中山峠の切り崩しなど、
島民が心配している自然改変、
島の観光はもちろん、雰囲気の変化など、
多くの不安があることは事実です。

観光目線ではなく、
生活航路として、介護や通院、出産など、確かに島の暮らしで必要なのは理解できます。

しかし、空港建設で失ってしまうものも確実にあります。

僕自身は空港を作るよりも、
医療や介護、出産など医療福祉面の充実を図り、
島で生れることも死ぬことも選択出来る島になることが理想と思っています。




知事の挨拶で予想外に嬉しかった事は、
G7のサミットで日本がサインをしなかった海洋プラスチック減少の問題に対し、
美しく恵み豊かな小笠原の自然を守るためにも
東京都はG7の提唱を強く支持し、
活動を進めていくと明言した事でした!

これにはハッキリ言って驚きましたし、とても嬉しかったです!

ドック中の代替え船に関しても、都が動いてくれているのもとても助かったと思います。


■そして返還と聞いて、まず初めに頭に浮かぶことは戦争です。
太平洋戦争がなければそもそも占領・返還などなかったのですから。

2年前に訪れた激戦の地、硫黄島
今もなお1万を超えるご遺骨が埋まったままです。

73年前、『楽園』と呼ばれた硫黄島は爆弾と火炎放射器、銃弾が飛び交い、
日米合わせて2万人以上の命を落とす玉砕の島へと姿を変えてしまったのです。

墓参や遺骨収集、訪島事業で年間数百名が硫黄島を訪れています。
しかし、父島・母島の年間観光客数を遥かに超える10万人の米国人が毎年、硫黄島の観光に来ている事実もあります。

そんな中、今も硫黄島の旧島民の帰島は叶っていません。
返還50周年を迎えても硫黄島の戦後は終わっていないのです。

島の人も文化も断裂させた戦争がなければ、この小笠原はどうなっていたのでしょうか?
僕は小笠原村の封筒の裏に書かれている平和都市宣言が大好きです。

【~小笠原村平和都市宣言~

平和で豊かな自然の中で暮らす我々小笠原村民は、
世界中の人々が平和を分ちあえることを願う。
この願いは、小笠原の生い立ちが物語つている。

我々の先人が築いた文化を、歴史的に分断した強制疎開。
今なお一般住民の帰島が許されず、遺骨収集も
ままならぬ玉砕の地硫黄島。

このような地小笠原に生きる者として、戦後50年を迎えるにあたり、
不戦と恒久平和を誓い、豊かな自然を後世に残すために、
小笠原村が平和都市であり、またその使命を全うすることを宣言する。

平成7年8月15日  小笠原村】


この言葉を胸にこの返還の日を迎えました。

戦争というものがこの世界からなくなるまで、
この気持ちは忘れてはならないし、
平和に向けての行動もしていかなけばと思います。


■式典の少し前に遡ります。
6月30日16時に母島からに父島に着いたら丁度パレードが始まっていました♪

南洋踊りは踊りながらずっと進み、


いつも楽しそうなちびっこクラブはシャボン玉を発射しまくりながら行進、


保育園は水鉄砲で周りに水を飛ばしながら行進(笑)!!

いや~父島の子どもたちもほんと元気ですね!
親の気合の入り方ももちろん、なんか振り切り方が圧巻です(笑)!


ウクレレ会も演奏しながら進み、


なんとLove&Peaceとしてマーメイドも車に乗って参加していました!!
これは意外な知人も混ざっており、結構驚きました(笑)!


中学生や大人女子のフラも美しく更行進していました!!

他にもスティールパン、スイングブロウ、消防団など多数のチームが参加していました!

翌日の母島の一体となるこじんまりとしたパレードも好きですが、
父島の島民が思いっきり参加しまくるパレードのパワーはさすがだなと思いました♪


■こうして50年かけて再生してきた小笠原の返還は大きな節目を迎えました。
これからも50周年のイベントが目白押しです(多すぎるっ!)。

僕も母島で運営として関わることも多いので、
楽しいし、嬉しい事なのですが、
あまりにイベント続きなのも少し疑問です。

今年に限っては、いつも恒例の行事ですら開催が危ぶまれていて、
大事にしたいのは一体なんなのか、
きちんと見据えてやっていかなければいけないなと強く思う場面も多くあります。

返還50周年。
間違いなく素晴らしいことですし、盛り上げたい気持ちもわかります。
多くの人が関わり、頑張ってくれています。

その中で自分たちの暮らし島をどうしていきたいか、
どうあるべきなのかを考えるきっかけになるといいなと思いました☆



小笠原返還50周年 記念セレモニー&パレード 母島編

2018年07月07日 | 島のイベント
■2018年6月26日、小笠原諸島はアメリカから返還されて50年の節目の時を迎えました。
そして
6月30日に父島でパレードと式典、
7月1日には母島でパレードと記念セレモニーが行われました。

これは母島のパレード風景です。
海上自衛隊横須賀音楽隊が奏でる音に合わせて、
森下村長、小池都知事、石井国土交通相、そして母島の中学生が先頭に行進しました☆

小笠原に住んで15年。
この50年に一度の節目をこの目で見て、感じるために母島から父島の式典を見に行きました。
その中で、この50年の月日に思いを馳せるとともに、色々と感じることがありました。

父島の方の式典やパレードは報道や多くの人が書いていますので、
母島の目線から書こうと思います。


■まず一連通して一番感動したのが、
小池都知事を乗せたははじま丸が母島に近づいたときに、
10隻の漁船が歓迎のお迎えをするシーンでした。

15年、小笠原に住んでいますが、これは初めて見る光景でビックリしました!!

漁船にはその家族や子供たちが手を振っています!

母島は第一次産業である漁業と農業が盛んな島です。
その第1次産業は燃料補助、運賃補助など、多くの補助に支えられています。
悔しいですが、まだまだ自立には程遠いのが実情です。

その補助の多くを支える東京都の代表である小池知事が初めて来島するのですから、
歓迎しない訳がありませんね!!

村長もこれには「やるね!漁協!これが母島ですよ!」の一言。

予想外にあまりに感動した僕は、
船の自衛隊音楽隊の皆さんや関係者に「こんな歓迎は10年住んでて初めて見ました!すごい事ですよ!」と伝えました(笑)。

聞くところによると、
最近の役人さんはみんな船ではなくヘリで来るので(今回も国土交通相はヘリでした)、
船の歓迎の迎えは横田副知事の来島以来だとか…

海況もそこそこ良いとは言えず、揺れましたが、
よく不便で時間のかかる船で来てくれました!

動画も撮ったのでぜひどうぞ!


■沖港に到着したら、多くの母島小中学校の生徒達が迎えました。
実は長女(中3)はこの時、重大な役目を任されていましたが、
なんと前の晩に人生初のぎっくり腰になっていました(10代の若さで!!)。

しかし、傷み止めとコルセットと気合で乗り切り、
午後には海に飛び込み、「泳いだら完全に治った~~!!」という滅茶苦茶な流れがあったことは内緒です(笑)。

その後、少し時間をおいてガジュ下から学校前まで150mほどのプチパレードを開催。
母島の中学生と役人、村長、そして海上自衛隊横須賀音楽隊が母島の短いメインストリートを歩きました。

島民の多くは国旗と返還50周年の記念旗を持って歓迎のアピール。

パレードの後に続くみんなが楽しそうです♪
なんだかんだ言って、シャイな母島の島民もパレードを楽しんでおりました♡
僕はその光景が楽しかったです。

学校の前までを過ぎてパレードは終了。

なんかどこか昭和チックでノスタルジーな感じがしました(笑)。

前日に見に行った父島のパレードはとにかく島民のパワーが凄まじかった印象があります。
母島は、みんなでお祝いしている雰囲気がなんかとても良かったです♡

その後は学校体育館で記念セレモニーです。


■学校の体育館で村長をはじめ、
返還50周年のお祝いの言葉が延べられました。
返還当時、欧米系が住んでいた父島と違い、
無人だった母島は父島の返還から5年遅れての開拓でした。

今こうして便利で幸せに暮らせているのも、先人たちが一生懸命に作り上げて来てくれた背景があるからです。
本当に感謝と尊敬の念でいっぱいです。
母島のセレモニーでは古くから地域を支えてきた母島クラブの副会長の方がお祝いの言葉を述べて下さいました。

返還当時、一緒に島を作ってきた仲間の多くが亡くなり、寂しいが、
こうして無事に50周年を迎えれたことが感無量であると。
これからは次の世代が島を支えていって欲しいというおもいが伝わってきました。


小池都知事は母島のスピーチでは空港問題には触れず、
母島の早くて4年後、太陽光発電で年間半年分の電気をまかなう計画を明かしました。

ソーラーパネルの為に新たに土地を開墾するのか心配になりましたが、
具体的には今年の3月に閉鎖した畜産指導所の跡地を利用するようです。
※旧ヘリポート先の美しい圃場がソーラーパネルになるのだろうか?それはあまり歓迎しないです。

個人的には太陽光発電は、
「発電自体はクリーンだが、
生産、運搬、廃棄に多大な化石燃料を消費し、
それで消費する化石燃料と、
その燃料で電気を作るのとさほど変わらない、
なので太陽光発電は大きな電池を買うものだ」と思っているので、
素直に喜べない部分も多いのです。

しかし、今の母島は火力発電所しかなく、
毎日ドラム缶5本近くの重油を消費している事を思うと、
ソーラーパネルさえあれば、
いざという時に自分たちの島にあるものだけで発電できる強みがあるのは事実です。

こういう挨拶というのはありきたりな言葉ばかりで、
さほどグッとくる言葉は少ないものだと思っていましたが、
小池都知事、この場でしっかりとした具体案を提示して、凄いなと思いました。


セレモニー1部の最後には全員で歌う「大切なもの」が歌われました。
これは以前母島に赴任していた教員が作曲し、子供たちが作詞した素敵な曲です。
教員も子供たちも島民もみんながステージに向かって、
素晴らしい合唱を聞かせてくれました。
妻はこれが凄く感動したと言っていました☆


■その後は海上自衛隊横須賀音楽隊の皆さんが素晴らしい演奏を聞かせてくれました。
この音楽隊の皆さんは音楽のプロとして自衛隊に勤務し、
世界各国で演奏を披露しているそうです。

音大出の選りすぐりのメンバーが揃い、
長い航海中は毎日ずっと練習しているとのことです。

素晴らしいアンサンブルに圧倒されました♪

1曲目は大好きな「南崎」。
母島の一番南にある半島部の事で、
海鳥が営巣し、美しい情景を歌っています。


2曲目は島の南洋踊りの古謡を織り交ぜた返還マーチ

を披露してくれました♪


■船が到着し、パレード、記念セレモニーと立て続けに続いた後は記念表彰された方と知事ら来賓の皆さんが、
島の皆さんお手製のお弁当を食べる昼食会をして、
その後はもうははじま丸に乗って島を発ちます。

父島と違い、日帰りの母島は滞在時間4.5時間。
その間に島内を巡視し、農園も見たりしているから、相当な過密スケジュールだったと思います。

それらを迎える島の関係者の皆さんのご苦労も相当だったと思います。
双方ともに本当にお疲れ様でした!

多くの島民と漁船に盛大に見送られて母島を後にしました。



■アメリカ統治時代、母島は無人島でした。
強制疎開で故郷を奪われた旧島民の皆さんが数々の返還を求める活動が実り1968年、小笠原が返還されました。

50年前、無人となりジャングル化した母島を少しずつ開墾して、
先人の皆様がインフラを整備してくれて、今の便利な暮らしがあります。

しかし、返還後、小笠原特別処置法の元、多くの補助で私たちの生活基盤は作られ、維持されてきています。
今はその補助がなければ、今のように暮らすのは難しいでしょう。
国境離島という立ち位置、
排他的経済水域の多くを占める小笠原は国的にも重要な離島なので、
補助がなくなることはきっとないでしょう。
人が住み続けるとこに意味があるからです。

しかし、この暮らしは持続可能とは言い切れません。
生活物資のほとんどを外に依存している暮らしです。

僕は50年後の100周年を迎える頃、
この小笠原が補助に甘えることなく、
今よりももっと持続可能に近づき、
少しでも自立した地域になることを願ってやみません。

大事なのは過去を知り、今をどう動き、未来をどう見据えるか。
返還50周年の節目にいる今、次の世代の子ども達が健やかに生きていけるように、
私たちは頑張っていこうと思います!!


最後に横須賀音楽隊の皆さんがアンコールに奏でてくれた「アオウミガメの旅」をどうぞ!