小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

硫黄島の暮らしの跡 ~ 8年ぶりの硫黄島②

2024年05月07日 | 硫黄島
①硫黄島行政視察のつづき

■前回の硫黄島記事からだいぶ間隔があいてしまいました☆
春は特に目まぐるしく、色んな島の日常があるので、
仕方ないと自分に言い聞かせつつ、
硫黄島視察の報告は自分のクレアナ(使命、責任)と思っているので、
ちょこちょことやっていきたいと思います。

さて、今回は今回の視察のメインとなった、
島暮らしの跡を巡る部分を書きたいと思います。

今までの視察では、戦跡などがメインだったそうですが、
今回は渋谷村長のご意向で、
旧島民の会の1世、2世、3世の皆さんと共に、
戦前の暮らしを意識しながら巡るという、
とても貴重な視察となりました。

過去の視察に参加してきた議員先輩も、
「今までない視察だよ~」と言っていました。

特に印象深いのが硫黄島で生まれて、
11歳で強制疎開で島を離れた奥山登喜子さんのお話でした。


自衛隊員の方に支えられながらも、
色んな場所について、昔は自分の家があった場所だったなど、
色んな話をしてくれたのです。

今の硫黄島はほとんどがジャングル化していて、
こんな景色が続きます。


■今回の視察では、自衛隊の隊員さんたちが、
旧島民の皆さんから聞いた話を参考に、
硫黄島の様々な場所を開墾してくれていて、
新たに見つかった集落跡がいくつもあり、
そこを重点的にめぐりました。

上記の写真のように、硫黄島は圧倒的なギンネムと桑の繁茂で、
普通ではその中に何があるかなんて見当もつきません。

しかし、過去の硫黄島訪島の時もそうでしたが、
旧島民の方はそのジャングルの中に入って行って、
自分の集落跡を発見し、トウガラシやパイナップルなどを手に
戻ってくるのです。

本当に硫黄島は楽園だったのだなと感じさせられました。


これが硫黄島の唐辛子です。
大きさはネズミの糞ほどですが、
その小ささでは計り知れないほど、辛みがあり、旨味があります♪

僕はあまり辛いのが得意なタイプではないのですが、
硫黄島唐辛子の青い状態の旨味と辛みのバランスが好きで、
お刺身の醬油に入れて、箸の先で潰すと最高の味が出てきます♡

唐辛子は雨が少ない地域ほど辛みが増すと言われています。
父島にも母島にも自生(母島は少ない)していますが、
世界に誇る香辛料なのではないかと思っています(^^♪



■こちらは硫黄島でこの1年以内に開墾して発見された、
暮らしの跡です。
サトウキビを擂るための設備だそうです。

母島では石臼が多いのに対して、
こちらの臼は鋼鉄製でした。


隊員さんが視察に合わせて、
島に残るサトウキビも用意してくれていいました。
本当にありがとうございます!


この溝はサトウキビを絞った汁が流れていく部分で、
その先で受け止めて、煮込んでいく行程に入っていきます。
小笠原で外来種として問題になっているアカギは、
このサトウキビを煮るための薪として導入されたそうです。


そんな暮らしの跡にもしっかりと弾痕が残っていました。
悲しい事ですが、硫黄島の岩やコンクリートに
弾痕がない場所がほとんどないほど、
島はそのすべてが戦場になっていたのだと感じます。


開墾にあたって、出てきた瓶などの暮らしの残骸も、
集められていました。
父島でも母島でも同様に山の中に瓶などがあったりします。
畑からライフルの弾が出てきたりします。



戦争というものがどれだけ暮らしに影響を与えているのか、
そこで暮らしていて、戦後80年経っても未だ島に戻れていない方と
硫黄島を巡っていると、
その圧倒的な理不尽さに言葉を失います。


「どうか、硫黄島を忘れないでください!」
硫黄島から返ってきた翌日の明治大学で行われた
シンポジウムでの登喜子さんの言葉が、
ずっと僕の頭の中でリフレインしています。
生涯、忘れられない言葉です。


■大きなガジュマルがある場所に案内してもらいました。
こちらも最近の開墾で集落の跡が見つかったといいます。


小笠原は沖縄と同じく、防風林としてガジュマルが植えられてきた経緯があります。
大きなガジュマルがある場所は人が暮らした場所であった事が多いのです。


近くには墓地がありました。
硫黄島のお墓ではとにかく水をよくかけて供養します。
戦争当時、みんな飢えと渇きで苦しんだからです。

僕も母島のレジェンドから頼まれた分も含めて、
沢山の水を撒いてきました。
先人たちのおかげで、今の暮らしがあるのです。


これは登喜子さんが住んでいた集落近くに残っていた、
硫黄島のパイナップルです。
今の母島ではあまりみかけない細い葉っぱの品種です。
こうして、代が変わりつつも今も戦前のものが残って息吹いている。
これってとてもすごいことだと思うのです。


■こちらは硫黄が丘にある船見台という岩です。
以前はここから海が見えたはずだといいますが、
硫黄島の活発な火山活動の隆起の影響か、
今はここからは海が見えないとのことでした。


近くにはレモングラスがありました。
これは戦前の硫黄島の産業の原料の一つで、
レモングラスから油を搾っていたようです。


その際にはこの硫黄が丘の常に沸き立っている
地熱や蒸気が使われていたそうです。
今もなお火山活動が続き、
8年前の景色とは全く変わっていた硫黄島。
島が生きている、とはまさにこの事と感じる瞬間です。


硫黄が丘ではトケイソウが美しい花を咲かせていました。
これは今小笠原の主要作物であるパッションフルーツの原種です。
8年前は6月だったので実が実っていて、
薄いですがほのかに甘いパッションの風味がしました。


これは硫黄島の各所に散らばる実です。
これは何の身なのでしょう?
あまり植物の生えない硫黄が立ち込めるエリアにも多くて、
いったい何なのかわかる人、教えてください‼


■集落跡を巡ると、今まで見えてこなかった硫黄島の素顔が見えてきます。

こちらは硫黄島で月下美人と呼ばれるもの。
母島ではドラゴンフルーツと呼んでいるものにそっくりです。
(逆に母島で月下美人と呼ばれるものは、
 花はドラゴンフルーツににていますが、葉っぱがもっと薄いです)


実際の学名よりも、その土地で呼ばれている名前に僕はドラマを感じているので、
クロアシアホウドリが硫黄島ではクロアホウドリと呼ばれている、
その部分を大事にしたいと思っていまします。


自衛隊の方の案内で、今までになかった景色を見ていると言う先輩議員。
普段は自衛隊の業務があるので、
休日にこうした開墾や発掘の作業をしてくれているそうで、
本当に頭が下がりっぱなしでした。

硫黄島の自衛隊の方々は、
島の急患搬送の為にとても重要な役割を課せられています。
本当にありがとうございます‼

こうした最近は近自然工法と呼ばれる様な、
みんなが歩きやすいような道の整備まで
やってくれているのです。

メインの滑走路付近には学校の跡が発見され、
そこではこうしたトイレの残骸もみつかっていました。


ここも同じく学校跡です。
このような丸い形のものは何に使われているかわかりませんが、
明らかに人が暮らしていた場所だそうです。
約80年前、11歳まで過ごしていた登喜子さんの記憶力は
本当にすごいです!


こちらは硫黄島の遺骨収集の中心的人物になっている方の
一族が暮らしていた集落の生活跡だそうです。


お釜の跡なども残っていました。
この生々しい暮らしの跡の数々が、
まだ硫黄島が戦後が終わっていないことを感じさせてくれます。


大きな大きなパパイヤの木。
硫黄島は楽園だったことを行くたびに感じさせられます。

そんな故郷に帰れないでいる旧島民も戦後80年になり、
1世が硫黄島に来れるにはギリギリの時代になっています。

僕たちはこうした機会に視察に伺わせて頂いているので、
できる限り多くの人に伝えなければいけないと感じています。

「どうか、硫黄島を忘れないでください」
小笠原に住んでいる人はもちろん、
多くの人々に知っていただきたい硫黄島です。


①8年振りの硫黄島 ~議員・行政視察

2024年03月02日 | 硫黄島
■今回8年ぶりに激戦の地、硫黄島にやってきました。
前回は小笠原村民として、訪島事業に参加しての訪島でした。
今回は初めて村議会になって、議員として、行政視察としての訪島になります。

村議会議員全員で硫黄島にやってきました。
遠くに見えるのが有名な摺鉢山です。

前回は2代目おがさわら丸で硫黄島に渡ったのに対し、
今回は自衛隊の厚木基地から輸送機で渡るというものでした。

そして、前回は戦跡がメインだったのに対して、
今回は硫黄島の旧島民の暮らしを見るというのがメインでした。
硫黄島で生まれた1世、その子供世代の2世、孫世代の3世と共に
色んな話を聞きながら硫黄島で過ごすことができて、
本当に全く違う目線で硫黄島を体験、学ぶことができました。

79年前の2月19日。
それは米軍が硫黄島に上陸してきた日です。

これは摺鉢山から見える米軍上陸の二ッ根浜です。
僕たちが今回、硫黄島に訪れたのが2月15~16の1泊。

79年前のこの日は、
連日、地下に壕を掘る作業をしていつつ、
沖合に並ぶ艦隊を睨み、
空襲や機銃掃射が続く頃だと思います。

その時、この同じ硫黄島から見る景色は、
その時の心情はいかなるものだったのでしょうか。

硫黄島にある村の施設「平和祈念館」前での夕陽

1日でも米軍の本土上陸を遅らせるために、
とにかく時間稼ぎをするために、
自分たちの命を顧みず、
徹底抗戦をした硫黄島決戦。

80年経っても、毎年遺骨収集が続いています。
まだ約1万のご遺骨が残り、
島民の帰島が許されていない、
いわば戦後が終わっていない硫黄島。

その視察を分野分けしながら振り返っていきたいと思います。

8年前の訪島事業の3日間ですら、
学ぶことが多く、沢山の記事を書きましたが、
今回はさらに新しい学び、視線が入り、
それ以上のボリュームになりそうな気がします。

現在、以前のようなおがさわら丸での訪島事業が叶わない状況です。
去年から自衛隊の輸送機による訪島事業が再開されましたが、
こうして議員の行政視察として訪島できる立場として、
自分が硫黄島で見て感じたことをしっかりと伝えていかなければと思っています。

戦争で全てが焼け野原になった硫黄島ですが、今は緑に溢れています。

■今回の硫黄島への渡航は厚木基地から自衛隊の輸送機C130で渡る予定でした。
朝7時に相模大塚駅に硫黄島旧島民、村長、村議、北関東防衛局のメンバーが集まり、
厚木基地へ向かいました。

しかし、なんと海上自衛隊のC130機体のトラブルが見つかり、
今日中に飛ぶかどうかも不明とのこと。
一同、暗雲が立ち込めた状況でした。

そんな不確定の中でしたが、村長が機転を利かせてくれて、
硫黄島出身の奥山登喜子さん(90歳)のお話を聞く素晴らしい時間となりました。
詳しくは次の記事で触れたいと思います。

そして今回、硫黄島に渡るのは難しいいのかな?と誰もが不安を持っていた時、
航空自衛隊からC2輸送機に乗る隊員を下ろして、
代わりに乗りませんか?という提案を頂き、すぐに承諾しました。

空自のC2(ジェット機)は予定されていたC130(プロペラ機)よりも速く、
1時間半ほどで厚木から硫黄島に渡れてしまうそうです。
(C130は2時間半ほどだそうです)

予想外の展開に一同、有難い気持ちでいっぱいでした。


■C2であっという間に1200kmを越えて硫黄島に着きました。
船で行くのと違い、あっという間で気持ちが追い付かないほどです(笑)。
2月の内地の寒い乾いた空気は一変し、
湿気を帯びた大好きな島の風が僕たちを迎えてくれました。

今回、去年夏に発刊された、酒井聡平さんの著書「硫黄島上陸-友軍ハ地下ニ在リ」と一緒に硫黄島へ渡る事を決めていました。
ちなみに今、ベストセラーになっています!!

Facebookで著者の酒井さんと繋がっていたので報告すると、
「わー、嬉しいです☺️「硫黄島上陸」が硫黄島上陸。
まるで我が子が渡島するような喜びを感じています!」
とても嬉しい返事を頂きました♪

摺鉢山の上でも撮影。
酒井さんの祖父が戦争当時、父島で無線をしていた方だそうで、
酒井さん自身もその経緯と熱意で、硫黄島の遺骨収集に参加しています。
詳しくはぜひ著書を読んでみてほしいと思います。

今までの硫黄島の本では知らなかった事実が沢山載っています。

硫黄島は現在も火山活動が活発で、至る所が隆起で地形が変わっています。
8年前に来た時には何でもなかった摺鉢山の道がこんなになっていました。

頂上に上がる時は足場の階段が必要になっていたほどで驚きました。

以前、おがさわら丸から通船で上陸した場所もすっかり地形が変わっていて、驚きました。
この火山活動も硫黄島に一般住民の帰島が許されない、大きな理由のひとつと聞いています。


■そして、今回の硫黄島は人生初の島での泊りだったのですが、
小笠原村の施設「平和祈念館」に宿泊させて頂きました。

これはこれまでずっと遺骨収集、墓参と自衛隊の施設にお邪魔していた所、
硫黄島旧島民の会の皆さんが村へ要望し、平成14年に建てられたものです。

「硫黄島への帰島が叶わない旧島民が訪島事業、墓参、遺骨収集などで硫黄島を訪れる際、
短い時間でも故郷の島で宿泊出来る施設として、平成14年に小笠原村が整備しました。」
村のHPに書かれています。

平和祈念館は電気は自衛隊の発電所の電気を使っていますが、
水はすべて雨水を使用し、その雨水を管理するための設備もありました。
ここはまた別の時に詳しく紹介したいと思います。

夜には硫黄島旧島民の奥山登喜子さん(硫黄島出身、11歳で強制疎開)のお話、
2世、3世のお話を聞きながら、北関東防衛局や自衛隊の皆さんと沢山のお話を聞く機会を得られました。
本当に大切な涙溢れる話ばかりで、
登喜子さんが11歳まで生まれ育った硫黄島でお話を聞けたことは生涯、忘れられません。

硫黄島基地の自衛隊有志の皆さんで結成される阿波踊り「千鳥蓮」の皆さんが、
訪島歓迎の披露をしてくれました。

キレッキレの阿波踊りで感動し、硫黄島の夜が更けていきました。


■後日アップ予定ですが、旧島民の集落、現在の遺骨収集の現場、
自衛隊の施設を見学させてもらい、夕方に硫黄島を離れ、夜に厚木基地に帰りました。

帰りは行きに載る予定だったC2がトラブルが直ってやってきました!!

無事に厚木に着陸できて、ホッとしました(#^.^#)

その翌日は明治大学で硫黄島強制疎開80周年シンポジウムが開催され、
そこにも議員全員で出席してきました。


一緒に硫黄島に行ってきた旧島民メンバーも揃い、
90歳という高齢の登喜子さんが、あんなに移動して体力を消耗したと思っていたのですが、
しっかりと登壇して、硫黄島の色んな様子を話していました。

故郷の為なら、亡くなった兄の眠る硫黄島の為なら、と言っていたのが脳裏をかすめます。

この様子はYotubeにアップされていますので、ぜひご覧ください。

第1部(1時間35分)


第2部(59分)


これから細かく、
今回硫黄島で学ばせてもらった事をアップしていきたいと思います!












硫黄三島クルーズ 洋上慰霊祭に参加した娘たち

2017年09月26日 | 硫黄島
■毎年、6月実施の硫黄島訪島事業に島の中学2年生が授業として参加します。
去年、僕自身が硫黄島に行ってみて
その凄惨な戦争と爪痕と、
先の戦争がなければきっと楽園だったと確信できた上陸の2日間でした。

今年は自分の長女が中学2年となり、
硫黄島の大地に立ち、壕に入り、肌で硫黄島を感じるはずでした。

しかし、5月当初は20年に一度の渇水で硫黄島での受け入れが困難であると言われ、
その後大雨で渇水が回復した後は、
今の硫黄島沖の係留ブイが新おがさわら丸の重量に耐えられないということが判明し、
今年の硫黄島訪島事業は中止となりました。
(係留ブイの事は実は去年の就航前から言われていることでした)。

■そこで、今年は異例中の異例で、
9月の硫黄三島クルーズに中学生も乗船し、
硫黄島沖で洋上慰霊祭を実施することになりました。

当初は上陸できないことに本当に残念に感じていましたが、
普段の中学生がほぼ行かない北硫黄島、南硫黄島を見る絶好のチャンスとも思え、
さらに母島から硫黄島に行くには前後2泊を父島で過ごすので、
その空いた時間を、素晴らしい情熱の戦跡ガイド「板長」に父島の戦跡などを案内してもらい、
小笠原高校の体験授業を受ける機会にもなりました。
これはこれで良かったと思います。

■朝早くからの南硫黄島の周遊を終えて、いよいよ硫黄島です。

相変わらず美しいプロポーションを誇っています。
有名な星条旗を掲げられたすり鉢山を望み、
おが丸の最上部のデッキを一般封鎖して、
洋上慰霊祭が始まりました。

村長の言葉、
献花を行い、
父島、母島各2名ずつ戦没者に向けて言葉を贈ります。
(母島の中学2年生は2名しかいないので、全員です!)

長女も精一杯、ここまで学習したことを胸に、
スピーチしていました。
立派だったと思います。

おが丸の上は風が強く、
しかし暑い状況でした。

しかし、戦争中に壕に潜んでいた兵隊たちは、
こんなさわやかな風を感じることなく、
熱い壕の中で潜み、
喉の渇きを訴えながら亡くなって逝ったのです。

例年の訪島事業同様、
戦時中に硫黄島に来た少年兵が故郷を想って歌った歌、
「故郷の廃家」が合唱されました。

少年兵が故郷を想って歌っている姿を見て、
大人たちは無情な戦争に青春真っ盛りの
少年たちを巻き込んだことを悔やんだと言います。

去年、この曲を知らずに訪島事業に参加して、
満足に歌えなかったことを悔やんだので、
自分も含め、中学校にはしっかり予習するようにお願いしました。

今年は子ども達もちゃんと声を出していて、
自分達と同じ年齢で亡くなって逝った少年兵に弔えたかと思います。


■今回、帰りのはは丸の中で妻が硫黄島協会の方に話を聞く機会があり、
沢山の知らなかった事実を教えて頂きました。
北硫黄島には27柱のご遺骨が今も残っていて、収拾が進んでいないこと。
硫黄島の激戦のあとなんと4年も壕の中に生き残っていた方もいたそうです。

その兵士の方は壕の中にいる間、
戦争が今なお続いていると信じ、
米軍から投降の声掛けをずっと拒み続けていたそうです。

そんな中、米軍が壕の中に投げるお菓子や食べ物の中に雑誌があり、
その中で米国の女性と日本の男性が仲良くしている記事を目にして衝撃を受け、
戦争が終わったことを直感し、投降してきたそうです。

しかし、その方の一人は飛行機で羽田に戻り、
敗戦して経済復興した日本を目の当たりにしたそうです。

そして、この硫黄島の戦場の事を書に書こうと思い立ち、
4年間壕の中で書いてきた記録を取りに硫黄島に戻ったそうです。

しかし、戻った硫黄島の壕の中にはその記録が見当たらず、
その方はすり鉢山から身を投げて亡くなってしまったと。
兼ねてから、その記録で後世に戦場を伝える以外は生きる価値がないと周囲に漏らしていたそうです。

生き残って歓迎されるべき命のもった方の心に深く突き刺さる戦場の記憶。
あまりにも悲しい話に、これは伝えていかなければと思いました。
毎年のように新しい戦没者のご遺骨が見つかっています。
しかし、まだあと1万のご遺骨が硫黄島に眠っているそうです。

最後の一柱が収集されるまで、
硫黄島の戦後は終わりません。


■洋上慰霊祭を終えて、硫黄島を周回した後はデッキに出ている人全員で献花と黙祷を行いました。

一緒に乗船した小学二年生の次女にはどう映ったのでしょうか。

水を求めて飢えて亡くなった兵士たちに向けて、
水やビールを捧げる人もいました。

内地から花を持参し、船内で何度も水切りを繰り返して花を捧げた友人もいました。

この長い長い汽笛の瞬間、心を打つものがありました。
例え、上陸できなくとも、多くの事を学べたと思えます。



■村長は来年、
硫黄島訪島事業が実施された場合は、
今の中学二年生達も連れて行ってくれるつもりだと言っていました。

中3は島を離れる受験の大事な年です。
修学旅行で多くの日数を使い、
授業数的には厳しいかと思いますが、
学校の勉強以上に、
とても大事なことを学べる貴重な機会ですので、
ぜひ今年、硫黄島に行けなかった子供たちを
参加させてもらえたらなと思います。
(母島の保護者は全員、そう希望を出しています。)

硫黄島訪島記⑨ 美しい硫黄島

2017年09月09日 | 硫黄島
■美しくも悲しい歴史を持った硫黄島。
2016年の6月の訪島事業に参加し、初上陸してから約1年半が経ちました。

自分の娘も中2となり、
ついに授業として硫黄島に行く時期を迎えたのですが、
今年は残念なことに新おがさわら丸の重量に安全に対応できる係留ブイが用意できないことから、
2017年の訪島事業を中止する事態となってしまいました。

そんなわけで、今年は今日から開催される硫黄島3島クルーズに参加し、
洋上慰霊祭と献花を行い、参加することになりました。

去年、硫黄島の地を踏み、
痛烈なおもいをぜひ我が娘にも味わってほしかったのですが、
今回は上陸できないものの、
普段見ることのできない北硫黄島、硫黄島、南硫黄島を見に行く機会に恵まれました。

僕は鳥を見たさに参加。
なんと妻と次女も便乗(笑)。
結局、家族で硫黄三島クルーズに参加することになりました(長女は授業参加)。
今夜のおが丸で行ってきます!


■そして、遅くなりましたが、
去年から続いていた硫黄島のシリーズを、
美しい写真を振り返りながらおしまいにしたいと思います。
※写真は2016年6月撮影のものです。


【海鳥とすり鉢山のそびえたつ硫黄島の朝】
初めて硫黄島が見えた朝。
そのあまりの佇まいの美しさに言葉を失いました。



【硫黄島の地平線から上る朝日】
島なのに地平線が見える硫黄島。
その彼方の森の奥から昇る朝日は戦場の爪痕を超えてとても美しく希望に満ちていました。



【硫黄島の夜明け】
硫黄島の空に広がる圧倒的な雲。
朝だけでも硫黄島はあまりにドラマティックでした。



【朝日を浴びるうぐいす地獄】
硫黄島の玄関口でもある釜岩の近くにあるうぐいす地獄。
今も硫黄が吹き出る煙と匂いはきっと戦時中の兵士たちが感じたものと同じもの。



【砂浜からすり鉢山を望む】
釜岩から上陸し、遥かかなたに佇むすり鉢山。
激戦の地であったことを忘れるほど、美しい情景でした。



【大坂山の壕と青空】
弾痕の跡がない岩がないほど、戦闘が凄まじかった硫黄島。
その象徴でもある戦跡の上に広がる青空は、
きっとあの戦争の最中も兵士たちの心を癒してくれていたと思います。



【高射砲と青空】
荒野の中に佇む高射砲。
あたりの景色と異質なものが立っています。
あまりに悲しい光景なのに、なぜか美しいと思ってしまうのはなぜでしょう?



【高射砲に根付くいのち】
戦跡の中から確かな命が芽吹いていました。
僕はこれを見て震えるほど嬉しかったのです。
それは何か未来へのメッセージな気がしてなりませんでした。



【米軍上陸の浜とすり鉢山】
何百という戦艦を背景に、何千人という米兵が上陸した二ツ根浜。
ここから硫黄島の凄惨な戦闘が始まりました。
海が血の色で真っ赤に染まったといいます。



【夕暮れの硫黄島】
夜の帳が迫る中、硫黄島を後にします。
最後に船に乗り、硫黄島を一周して見えた景色。
まだ1万を超える遺骨が埋まったままの硫黄島。
一日も早く、遺族のもとへ帰れることを祈ります。



【Rest In Peace】
最後に洋上から献花を行い、黙祷。
長い長い汽笛の中、この多くの犠牲の上に私たちの平和な暮らしがあることを忘れてはいけない。
どうか、安らかにお眠りください。

日本人が硫黄島に帰島できない現状の中、
この訪島事業・遺骨収集で数百人が硫黄島を訪れる機会があります。
しかし、アメリカ人は年間10万人を超える観光客が硫黄島を訪れています。

この格差はもちろん、
最後の遺骨を収集し、遺族が硫黄島に帰島するまで、
硫黄島の戦後は終わりません。

これで硫黄島訪島事業2016に参加して各記事は終わりです。
どうもありがとうございました。

2017年 硫黄三島クルーズの記事はこちら
2017年 硫黄三島クルーズ 洋上慰霊祭の記事はこちら

硫黄島訪島記⑧ ~硫黄島訪島事業について

2017年04月20日 | 硫黄島
■去年初めて訪れた激戦の地、硫黄島。
あまりにも美しく、
あまりに悲しい戦争の爪痕を残す島。

このブログ内でも去年から何度も記事を書かせてもらいました。
今年は長女が中学2年生となり、
学校の授業として硫黄島を訪れる予定です。

しかし今年の小笠原は近年稀にみる渇水で、
硫黄島も例外でなく、滞在の職員を減らしているとか。
このまま行くと上陸の心配、開催時期の変更が検討されているでしょう。

この機会に硫黄島訪島事業について振り返りたいと思います。
まだまだ書ききれないことが沢山あります(笑)!


■この訪島事業の歴史は遡ると平成6年に始まりました。
それまで、硫黄島旧島民の心情に報いる措置として、
年2回(春・秋彼岸)、航空機を利用した日帰りによる墓参を実施していたそうです。

ですが、限られた時間の中で島内を巡るため、
出身集落への里帰りや、
当時、軍族として残され亡くなった島民の所属部隊への墓参もままならない中で、
慌しく故郷の島を後にせざるを得ない状況となっていたとのこと。

そこで、
ゆとりある墓参や里帰りを熱望する旧島民の心情を察し、
おがら丸による硫黄島訪島事業を、開始したそうです。

平成6年~8年までの3回は東京都が実施、
それからは小笠原村が毎年実施してくれています。

訪島にあたっては、
硫黄島旧島民の他にも戦没者遺族、
小笠原村立中学校生徒及び、
一般村民も参加し、
慰霊墓参と共に村内の一島である硫黄島の現状をつぶさに視察する機会となっています。

小笠原村役場の硫黄島のページより

僕もこの事業のお蔭で念願の硫黄島に行けました。
戦後70年を迎える今もなお、
このような戦争の爪痕を色濃く残す硫黄島に上陸して学べたことは本当に大きかったです。
貴重な機会をどうもありがとうございました!


■訪島事業で硫黄島に泊まるのは硫黄島旧島民、戦没者遺族、中学生のみなので、
一般参加だった私たちは日中の活動後はおが丸に戻ります。

そこでスライドショ-があり、硫黄島訪島事業の歴史について学ばせてもらいました。

都実施 1994   2/12天皇皇后両陛下行幸啓 小笠原諸島強制疎開から50年
都実施 1995   8/15平和都市宣言
都実施 1996   6/21行幸啓記念碑除幕式
第1回 1997 6月 上陸できず
第2回 1998 6月 小笠原諸島返還30周年
第3回 1999 6月
第4回 2000 6月 2日目は上陸できず
第5回 2001 6月
第6回 2002 6月 6/21平和祈念館開所式
第7回 2003 6月 1日目上陸できず
第8回 2004 9月 台風の影響で9月に実施 2日目午前中で引き返す
第9回 2005 6月 6/19小泉総理大臣が硫黄島訪島
第10回 2006 6月
第11回 2007 6月
第12回 2008 6月 小笠原諸島返還40周年
第13回 2009 6月
第14回 2010 6月 12/14管総理大臣訪島
第15回 2011 9月 東日本大震災・水不足で洋上慰霊祭のみ、6/29世界遺産登録
第16回 2012 6月
第17回 2013 6月 4/14安倍総理大臣訪島 小笠原諸島返還45周年
第18回 2014 6月
第19回 2015 6月
※参加者は年によって80名~190名と幅あり



■僕が参加した2016年の訪島事業の工程を順を追って記したいと思います。
○出発

まずは母島からの参加の場合は入港日朝にははじま丸が臨時便を出してくれ、
参加者は父島に渡ります。
いってきま~す!

そして、おが丸の入港を終えて、夜に硫黄島に向けておがさわら丸に乗船します。


夜に船が出ること自体珍しいので、
とても新鮮な光景でした。


私たち母島参加者は同じ班に割り当てられ、特2等船室で過ごします。
廊下では、この旅を有意義なものにしようと、
いたるところで語り合う人たちがいました。



○到着 硫黄島1日目
夜が明けて、朝を迎えるともう280km南下し、硫黄島に着いていました。

息をのむほど、美しい朝焼けでした。

簡単なレクレーションを終え、
通船の順番待ちをします。

これが結構時間がかかります。

硫黄島は現在も隆起が激しく、なかなか桟橋が作れないらしく、
小さな船で何度も往復して150名以上を硫黄島に運んでくれます。

悪天候の年はこの通船が難しくなり、上陸を断念したり、予定を切り上げる場合があるようです。

上陸した釜岩からはおがさわら丸と硫黄島の象徴でもあるすり鉢山が見えます。


上陸後は海上自衛隊のバスでまずは硫黄島旧島民平和記念墓地公園へ向かいます。
戦没者慰霊祭に参加するためです。

その後は平和記念館に移動し昼休憩です。


おが丸のレストランが作ってくれた美味しいお弁当を頂きました♪



硫黄島は日中はとても暑いのでテントの下で海風に当たっているととても気持ちがイイです☆

昼食をおえたら、今度は島内視察に向かいます。
塹壕や砲台などの戦跡、慰霊碑などを周るのです。

移動はすべてバスです。
ギンネムとシマグワばかりが生い茂る乾いた硫黄島のダートを冷房を利かせて走ります。
(※ちなみにうちの班のバスの冷房は故障していて、冷房嫌いの僕にはラッキーでした♡)

運転と案内は海上自衛隊の隊員さんです。
沢山の色んな話を聞かせて頂きました。

強制疎開から50年の節目を迎えた1994年。
天皇皇后両陛下が硫黄島に来た時のこと。
それまで駐屯していた自衛隊員の周りで起きていた沢山の心霊現象が、
天皇陛下の行幸啓によって、一気に落ち着いたと言っていました。

戦争当時、天皇陛下は兵隊たちにとって絶対的な存在でした(諸説ありますが...)。
代が変わってもその陛下が硫黄島で祈りを捧げる。
これほど祖国を想って散って逝った兵士たちにとってどんなに慰めになったことでしょう。

未だに1万の骨が眠る硫黄島。
私たちはそんなところを体感させてもらう貴重な機会を頂いたのです。


島内のいたるところにある慰霊碑や壕に、
水やお米を供えて、祈りを捧げます。

硫黄島の兵隊は飢えと乾きで苦しんで死んでいったといいます。
私たちができる、せめてものの供養です。


年によって気候は色々ですが、僕が行った時の硫黄島は
程よく暑くて、青い空がどこまでも綺麗でした。
バスから降りて、色んなところを歩くのですが、
戦争がなければどんなに楽園だったのだろうと、何度も思わざるを得ませんでした。


アメリカの占領後、大きな岩に描かれた壁画。
「あいつは英雄じゃない」と仲間が撃ったといわれる銃痕がありました。


米軍が初上陸してきた南海岸(二ッ根浜)。
70年前、約3kmに及ぶこの黒い砂浜から洋上を戦艦で埋め尽くした米軍が一斉に上陸してきたのです。


1日目の巡視を終えて、一般参加の私たちは再度おがさわら丸に戻ります。
そこで一斉に夕食を頂きました。
日中の重すぎる戦争の爪痕を見て周り、疲れていたのでより美味しく頂けました♪


硫黄島の船上から月を眺めます。
きっと戦争中も同じ月を見ていたのでしょう。


○硫黄島2日目

2日目もいい天気に恵まれ、
通船で硫黄島に再上陸。
米軍にパイプ山と呼ばれたすり鉢山が相変わらず美しく見えます。


2日目は1日目に周りきれなかった戦跡と
自衛隊の基地などを視察しました。


人が沢山乗っても平気な頑丈な飛行機の残骸。

戦跡に関しては過去にブログにまとめていますので、
そちらをご覧ください。
戦跡パートⅠ
戦跡パートⅡ

昨日はすり鉢山の上から見下ろした米軍上陸の海岸。

その地に自分が立っている。
目の前にはすり鉢山。

映画でしか見たことはありませんが、
ここから沖を見ていた日本兵の気持ちを考えると、
胸が張り裂けるおもいでした。
二度と戦争なんてするもんじゃない。
そう、強く思いました。

昼過ぎには自衛隊の基地で昼食を取り、
売店などでお土産を買い、
その他色々周って
船に戻りました。

そしてその後、おがさわら丸で硫黄島を一周し、
洋上献花を行いました。

慰霊祭をはじめ、この時の献花もそうですが、
こんなに厳かな気持ちになるのは本当に貴重なことでした。

過去の記事にも書きましたが、
最後のおがさわら丸の長い汽笛。
その時の感情は言葉で言い表せないほど、
静粛な気持ちと辛い気持ちが入り混じり、
そして、力強くこれからの未来をつくろうといういう思いで溢れました。

もし小笠原に住んでいるなら、
誰もが応募する権利があります。
もし行ける機会があるなら、
ぜひ自分の足で歩き、
自分の目で硫黄島を見て、感じてほしいです。

言葉や写真ではまったくもって伝えきれないほど、
大事な経験になると思います。

最後に硫黄島訪島事業の実施にあたって、
小笠原村の職員の皆さん、
おがさわら丸のスタッフの皆さん、
通船を安全に行ってくれた小笠原建設の皆さん、
そして、海上自衛隊及び鹿島建設さんに沢山の支援と協力を頂きました。

本当にありがとうございました。

最後に、次回、
硫黄島の美しい写真を載せてこの長かったシリーズが完結します(笑)。
長々とお付き合い頂き、ありがとうございました!

訪島記⑨で完結!

硫黄島訪島記⑦ ~硫黄島の生き物たち

2016年07月30日 | 硫黄島
■もう長らく続いています硫黄島シリーズ(笑)。
一生に一度の事であろうと思うのと、
やはりそれ以上に圧倒的な戦争の爪痕と自然の美しさが今も忘れられません。

今回はようやく好きな分野の生物に行きたいと思います。

最後の突撃壕への道の上空を何度も飛び交う美しい白い鳥。

シロアジサシのペアでした。

最後の突撃の時期は島の春です。
その時はどんな渡り鳥が硫黄島の空を飛んでいたのでしょう。

亜種でもあるイオウトウメジロの他にはオガサワラヒヨドリも見かけました♪


すり鉢山の山頂にいた時はなんとアカオネッタイチョウが飛んでいました!

その名の通り、長くて赤い尾羽が特徴的な海鳥です。
日本では北硫黄島、南硫黄島、西ノ島、南鳥島、仲ノ神島で営巣が確認されています。
繁殖地でもある南硫黄島に向かっているように見えました。

ふと足元を見ると、立派なマメ科の植物がありました。


とても少ないですが、小笠原固有種で「村の木」にも指定されているタコノキもありました。

これは根っこの一部が地上に露出していて、タコの足のように見えるから付いた名前です♪
沖縄のアダンとは親戚関係みたいなものですね☆

■硫黄島には危険な生き物もいます。

硫黄島と言えばサソリというほど有名なマダラサソリ。

小さめで体長は5cmくらいでしょうか。
3回ほど遭遇しました。
意外とゲジゲジの様に足が速くてビックリしました(笑)。
毒はミツバチ程度とされていて、人を指すことは滅多にないそうです。

人を指すと言えば、このナンヨウチビアシナガバチ。

硫黄島で仕事をしていた友人に「すごく刺されると痛いから気を付けて!」と言われて、恐れていました。
この蜂は米軍の物資にまぎれて1980年代に入り込んだと言われています。
小笠原諸島に分布が拡大した場合、
在来種の昆虫に悪影響を与える恐れがあるめ、外来生物法によって要注意外来生物に指定されています。

もう一種人に影響を与えて、要注意なのがアカカミアリです。

これは別名火蟻(ヒアリ)とも呼ばれ、噛まれると腫れて大変らしく、
その為に僕はぎょさんではなく靴で行きました。
刺されると、アルカロイド系の毒によって非常に激しい痛みを覚え、水疱状に腫れるとか。
これも米軍の物資に紛れて移入し、硫黄島の優占種となっています。

そして大ムカデ。
体長は30cm位もありました。

森の中や壕の中で何度も遭遇しました。
壕の中で潜んでいて、噛まれた兵士さんもきっといたことと思います。

ヤスデも大きかったですが、特に人畜無害な感じがしました。



■米軍のお土産として今や硫黄島の多くの2次林を覆い尽くしているギンネム。

戦争中に島中が爆撃に遭い、無くなってしまった元の植生は戻ることはないでしょう。

ある鳥類学者さんが行ってましたが、
「戦争は究極の自然破壊である」と言っていました。

戦争は人の心のゆとりを無くし、
他の生き物に対して寛大な気持ちを無くし、
保護よりも自分たちの命が優先になるからだと。

そして、平和を維持し、目指すのであれば、
まずは己の周囲(友人や家庭)から平和を築きあげれば、
いずれみんな平和になれると信じていると語っていました。


硫黄島に来て、こんなに変わってしまった自然の中に儚く生きる命を見て、
戦争をしない世の中を作っていかなければと強く思いなおしました。


足元には小さな可憐な花。
きっと昔の島の子どもも花を摘んで遊んでいたことと思います。

■そして硫黄島を周っているとよく目についたのがリュウゼツランの花茎です。

ちょうど花期にあたり、見事な群生を見せてくれました。

リュウゼツランの花の蜜は鳥たちも大好きですが、
小笠原諸島唯一の在来哺乳類のオガサワラオオコウモリも大好物です。

自衛隊の方にオオコウモリを見るかと聞いてみると、
夕方によく見かけるとのことでした。

船から海を望めば、クロアジサシも飛んでいました。


硫黄島の到着の朝にはアカアシカツオドリの幼鳥も迎えてくれました。

船から見える海鳥の数がとても多い!ということは…
魚影がとても濃いことを指しています。
海が豊かな証拠です。

すり鉢山を背景になんて美しい所だなと心底思いました。

何度も言ってしまいますが、
こんなにも美しい島に暮らす人たちを強制疎開させ、
島の暮らしと自然を破壊した戦争という行為。

もう二度とこんな過ちを起こさぬようにしていかなければなりません。

本日は母島は東京知事選挙の投票日です。
(一般は明日の7/31が投票日です☆)

硫黄島の遺骨収集も国や都が大きく関わっています。

僕は三宅洋平さんほどガツンと支持したい候補者がいないのが現実ですが、
都政をこの人に託したいと思う人に投票したいと思います。

戦争も原発もいらない世界に一日でも早く近づけますよう、
東京のみなさんもぜひ投票に行って下さい!

訪島記⑧に続く



硫黄島訪島記⑥ ~硫黄島の暮らし

2016年07月15日 | 硫黄島
■たった1泊2日の滞在だったのにあまりに思うことが多過ぎた硫黄島。
今回は硫黄島の暮らしに標準を定めていきたいと思います。

硫黄島は行ってみて、その大地に立ってみると、
そこが戦争さえなければ楽園であったと容易に想像ができる場所でした。

美しい花。
平坦な地形。
温暖な気候。
夜露のみで作物は育つ風土。
火山灰質の扱いやすい土。
魚影の濃さ。

たった2日間の滞在でしたが、それを感じるには十分な島でした。
戦争というもっとも愚かな行為をこんなにも悲しく感じる場所もなかなかないと思いました。

あんなに楽園であったであろう硫黄島ですが、
その頃の面影はほとんど残っていないのです!!

道路やダートの周囲のほとんどはギンネムやシマグワの雑木林でした。

ですが、僅かに残っている作物(パイナップルやレモングラス等)が、
旧島民の集落跡に残っており、
訪れた遺族や旧島民の皆さんは、それらを収穫していました。

藪の中から嬉しそうにパイナップルを持って出てきた姿を見て、
まだ戦後が終わっていないことを痛感しました。

戦前は良質な硫黄の採掘はもちろん、
他には製糖、レモングラス栽培で油を摂ったり、
パイナップル等の熱帯果実や綿花も有名だったようです。

もちろん飲み水や生活用水に苦労することはあったようですが、
それ以外は本当に住みやすい島だったようです。


■そんなかすかな戦前の爪痕をお伝えして行ければと思います。

至る所に戦前に製糖が盛んな時期に栽培されたサトウキビが残っていました。


硫黄島トウガラシも発見しました!

小さいながらも旨味も辛味もある、妻が大好きなトウガラシが自生していました。

また、パッションフルーツの原種!?、仲間でもあるクサトケイソウが実っていました。


試しに実を割ってみると、白いパッション!

味はほんのり甘くないパッションでした♪


花もまさにパッションフルーツでした!


これは硫黄島神社です。

戦前に建てられましたが、戦争で破壊されたために、戦後に建て直されたそうです。


鳥居の奥には小さな祠がありました。

とある場所には貯水槽がありました。

船の中でお話しできた旧島民の方によると、
米軍や日本軍は水道管を引いて水道を作ろうとしたけど、
熱くて飲めず、
硫黄島では雨水を貯める貯水槽が大事なんだと言っていました。

コンクリートの貯水槽の水は冷たく、フタをすればボウフラもわかず、
有効利用できたと言っていました。

雨水を有効に貯める為に屋根はシュロ葺き屋根からみんなトタンに変わっていったそうです。
壕を掘っている兵士たちも、雨の時は作業を止めて、
全員で器を持って水を集めたというから、
水の切実さが伝わりますね。
(兵隊は2万人以上いたので、圧倒的に足りなかった様です)


■硫黄島の名の通り、至る所で硫黄の匂いがして、
噴煙を上げている箇所がありました。

今もなお蒸気が立ち上り、海上からも観察できます。


絶えずずっと蒸気を出しています。
この熱気で卵やイモを蒸して食べていたそうです。

ここは「硫黄ヶ丘」という、硫黄成分と熱で全く植物が生えていない荒野でした。



■硫黄島の玄関口のすぐそばにはガソリン給油施設がありました。

硫黄島は現在も隆起が続いていて、地殻変動が激しいので、
給油施設とタンクを結ぶパイプラインがよく破損してしまうそうです。

道のりが面白いように凸凹していたのも頷けます。


硫黄島からは南硫黄島が望めました。
東京島嶼最高峰の高さを誇る南硫黄島の山がそびえていました。

きっと戦前も戦闘中も変わらず見える風景の一つなのではないでしょうか。


一直線の道ばかりが島の周囲を走っています。
戦前の景色を一度は見てみたかったです。

ほとんど戦前の名残りが残っていないのがとても切ない硫黄島。
そのわずかな戦前の暮らしを垣間見ると、
それらを失わせた戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。

訪島記⑦に続く

硫黄島訪島記⑤ ~訪島事業を支える人々と自衛隊

2016年07月07日 | 硫黄島
■硫黄島訪島事業は多くの方に支えられていました。
おがさわら丸、食事を作る人、
自衛隊、通船の作業員、
その他多くの人が関わって初めて私たちが安全に硫黄島に上陸できました。

今回はそんなかけがえのない皆さんを紹介していきたいと思います。


■まずは通船作業を行う、小笠原建設の皆さんです。

隆起の激しい硫黄島はなかなか大きな船を着ける桟橋が作れません。
なので、おがさわら丸から小さな船に乗り換えて上陸をします。


硫黄島に着いたらまずその子船群が降ろされます。

まずはおがさわら丸のロープをブイに付けるところから活躍してくれていました。


半身海に浸かりながらも、懸命に係留ロープを繋いでくれていました。


その後は浮き島から小舟に乗り換えて行きます。


海況次第ですが、桟橋と砂浜上陸の2通りがある様です。

どちらも乗客が濡れないようにとても気を遣ってくれていました。


黒い砂浜に長く伸びる足場。
硫黄島ならではの光景ではないでしょうか。


何度も何度も往復します。


そして無事に上陸することができました!

年によっては悪天候で上陸できず、
洋上慰霊祭だったり、
2日間上陸のうち1日だけ上陸のことも過去にあったそうです。

小笠原建設の皆さん、どうもありがとうございました!


■次は自衛隊がマイクロバスを持って来てくれていて、
そちらに乗り込みます。

硫黄島にはこうした受け入れ用に5台以上のマイクロバスが準備されていました。


まず待ち受けていたのは自衛隊の歓迎の阿波踊りとエイサー集団でした!

これを通船している1時間以上ずっと炎天下の中踊ってくれていたのです!!!
本当にありがとうございます!

硫黄島に到着して2日目は自衛隊の施設を見学させて頂きました。

硫黄島は立派な滑走路があるので、色んな意味で重要です。
戦時中に、最前線基地として狙われたのもうなずけます。


見学中には大きな輸送機が着陸、離陸しました。

だいたい週3回来るそうです。


同じ島なのに地平線が見える硫黄島。
人が暮らすのに平らであることほど楽なものはないのではと思ってしまいます。


その他には父島の夜間や母島の緊急搬送用のヘリが待機していました。

島の島民の命を支える、とても有難い存在です。

コクピットに載せてもらい、少しハンドルを動かさせてもらいました♡


少し近くには管制塔があり、
離陸、着陸の際の状況やコースを制御する部屋がありました。


部屋を出てすぐのレーダーで島の周囲の状況をサーチし、
操縦の誘導やパイロットに指示を出すそうです。


飛行場で何らかの火事が発生しても、頼れる消防署はありません。
自前で何機も消防車が待機していました。
放水もみんなにさせてくれていました(*^。^*)


■「厚生館」という所には、硫黄島唯一の売店がありました。

硫黄島のお土産はここでしか買えません。

しかし、今回は数日前に米軍が来ていて、
ほとんどのお土産が買われてしまい、売り切れ続出でした(笑)。

土産物以外は一般雑貨が売られていました。


船に戻ってからのおつまみを買おうとした人は
「お土産以外は買わないで下さい」
と注意をうけていました(笑)。

結構色々置いていました。


入口に書かれた看板がなかなか特徴的でした。

やはり限りある品物なので注意書きが独特です。

服装や履物、飲み物の本数制限がありました。

基本的に普段は週に一度、金曜日の夕方1時間のみ営業しているそうです。


自販機は中身ゼロ!


値段はなんと…!!

懐かしの1コインの値段でした。


帰りにはまたエイサーと阿波踊りで見送ってくれました。


海岸では釣竿を使っての見送り凧揚げが行われていました。

大きな凧が硫黄島の美しい空を飛んでいます。

この美しい空も、かつては戦闘機が埋め尽くし、
空襲の嵐だったのです。


最後に丸1日島を案内してくれた自衛隊の隊員の方にお礼をして、島を後にしました。

島を離れる際には通船で使ったボートもおがさわら丸に載せます。


こうして硫黄島訪島事業は多くの人に支えられて、
今年も無事に終えることができました。

本当にありがとうございました!

訪島記⑥に続く



硫黄島訪島記④ ~戦没者慰霊祭と慰霊碑

2016年06月21日 | 硫黄島
■激戦の地、硫黄島では太平洋戦争時に日米合わせて2万人を超える戦死者を出しています。
そして1万柱を超えるご遺骨が今も硫黄島で眠ったままだそうです。

年に一度、硫黄島訪島事業で戦没者慰霊祭が
「硫黄島旧島民平和記念墓地公園」で執り行われました。


まずは村長の式辞から始まります。


そして平和の鐘を鳴らし、全員で黙祷します。

微かな硫黄の匂いがする海風を感じながら、
戦闘時の心境を想い、
無念にも散った兵士の皆さんの魂に黙祷を捧げる。

爆撃で轟音が轟く戦場だった硫黄島も、
今は鳥がさえずる静かな島になっています。
黙祷を捧げながら、色んな感情が込みあげて来ました。

そして、
小笠原村村議会議長、
硫黄島旧島民代表
硫黄島戦没者遺族代表、
が追悼の言葉を述べました。

「硫黄島に帰ってくるまで、
最後のご遺骨を見付けるまで、
私達の戦後は終わらない」
そんな感情が伝わってくる言葉でした。

その後はその場にいる全員が献花を行いました。

少しでも安らかに眠ってくれることを祈り、
今平和に生きれることを感謝し、
これからの未来に平和を築くことを約束して、1本1本、花を添えました。


そして、
小笠原中学2年生、母島中学2年生が
これからの未来を生きる身として、「誓いの言葉」
を述べました。

硫黄島で亡くなった兵士、
島に帰れない旧島民に思いを馳せて、
その気持ちを忘れずに、
これからを生きていくという、
素晴らしいスピーチだったと思います。

手には子供達の手で折られたものでしょうか、美しい千羽鶴が供えられました。

私の子供達も中2になったらこの地で、
慰霊祭に参加するはずです。
どのような体験になり、
どんなおもいで過ごすのでしょうか…


最後に「故郷の廃家」を全員で献歌しました。

この歌は硫黄島でも少年兵たち(15~16歳)が壕の中から顔を出し、
夕陽を見ながら故郷を想い歌っていたそうです。
歌っていると本当に故郷を想う淋しい気持ちになってきます。

「故郷の廃家」
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく

昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や

作詞: 犬童球渓(いんどう・きゅうけい/1884 - 1943)
 ※1907年発表の日本の唱歌。
原曲:W.S.ヘイス作曲『My Dear Old Sunny Home』(1871年)


こうして、
硫黄島の旧島民の皆さん、
硫黄島で家族の命を失った遺族の皆さん、
私も含め、硫黄島訪島事業に参加した一般の村民の皆さん、
関係者の皆さんが追悼の意を表しました。



■この場所には硫黄島に住んでいて、
強制疎開で内地に渡らず、そのまま軍属(兵隊として戦うのではなく、軍の為に働く人の事)として島に残り、
そのまま亡くなった方全員の名前が祀られていました。

硫黄島で命を落とした82名の硫黄島島民軍属の島民の命を含む、
日本軍 20,129名
米軍 6,821名
という多くの方が硫黄島で命を落としました。

太平洋戦争の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死者+戦傷者)が
日本軍を上回った稀有な戦いだったそうです。

硫黄島上陸後わずか3日間で
対ドイツ戦における「史上最大の上陸作戦」と言われるノルマンディー上陸作戦
における戦死傷者数を上回るなど、
フィリピン・沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られています。


天皇陛下も来島したことがあり、
真偽は不明ですが、天皇陛下が硫黄島に参ってからは、
無念に散った兵士たちの心霊現象が格段に減ったと言います。


平和を願い、大きな記念碑もありました。

母島でもなかなかお目にかかれないほどの生き生きとしたプルメリアが
墓参に訪れた人たちの心を癒してくれていました。



■島全体が激戦の地となった硫黄島は各所に慰霊碑や地蔵が置かれています。

古山のあった天山には
大きな硫黄島戦没者の碑が祀られています。


周囲には壕もあり、

地蔵や慰霊碑が沢山祀られています。

参拝した私たちは
水が不足した硫黄島なので、
水に飢えて亡くなったであろうと察して、
多くの水をかけて参拝しました。


ここは鎮魂の丘です。
米軍上陸の浜の近くの南付近にあります。
すり鉢山を望むは水と花をイメージして作られていました。
天山の慰霊碑もそうですが、
多くの兵士が飲み水に飢えて亡くなったことから、
水が絶えず注がれている慰霊碑が建てられています。


すり鉢山山頂にも慰霊碑があります。

本当に多くの命がここで失われたのです。


一方米軍の方は、星条旗を立てた場所に記念碑が建てられていました。

有名な硫黄島山頂に星条旗を立てるあの写真が掘られていました。


アメリカにとっても硫黄島はとても特別な場所らしく、
毎年10万人近くのアメリカのご遺族や兵士が島を訪れ、

太平洋戦争で最も多くの犠牲となった戦友に向けて、
こうして自分の軍証などを置いていくそうです。


■硫黄島訪島事業の最後の夕方、
硫黄島を離れるときに島を一周し、

最後に長い、本当に長い汽笛を流しながら
みんなで一斉に洋上献花を行いました。


すり鉢山山頂では、
村役場の職員が日の丸と村旗を振ってくれていました。


この最後に硫黄島を離れるときの雰囲気は言葉にできません。
何とも言えない感情が自分の心を揺さぶりました。

こんなにも美しい島の暮らしを破壊した戦争。
今も眠るご遺骨。
本土に帰れたご遺骨。
同じ船に乗っているご遺族と旧島民。

ただただ圧倒されるばかりでした。


あまりに美しい硫黄島の夕暮れは、
こうして夜の帳の中に消えていきました。



映画や写真、映像で知っていた硫黄島。
しかし、実際にその地に立って空気を吸い、
壕の暑さを体感し、亡くなったその場所で祈っていると、
こうして硫黄島に来れて、
本当にいい体験だったと思います。

決して忘れることはないと思います。

本当に多くの人に来島してもらい、
戦争と平和について感じ、考えてもらいたいです。

小笠原に住んでいれば、
旧島民でも遺族でなくても来れる可能性はあります。
ぜひ1度は硫黄島に足を運んでみることをお勧めします。

訪島記⑤に続く

硫黄島訪島記③ ~戦跡パートⅡ

2016年06月19日 | 硫黄島
戦跡パートⅠの続き

■哀しいことに島全体が要塞化しているので、至る所に壕や大砲跡があります。

7.すり鉢山
標高約150m。
活発な火山活動のお蔭で標高は1年の間に数メートルも変わるそうです。
平らな硫黄島で唯一の山です。

硫黄島と言えば摺鉢山(すりばちやま)と言えるほど、
象徴的な山です。

米軍が最初に上陸してきた二ッ根浜から見上げると、
上陸の時の凄惨な情景が頭の中でよぎります。


山頂から見るとこのような大きな浜であることが分かります。
上陸作戦の上で、一度に多量の舞台の上陸を可能にする浜ですので、
日米ともにここから来ると確信できるに値する場所だった様です。


少し離れた場所からもすり鉢山はよく見え、
日本にとっても米軍にとっても、
そして戦前暮らしていた島民にとっても大切な山であったと感じます。

山頂から眺めると、
艦砲射撃で山の形が変わったという場所がよく分かりました。

この凹んだ部分が爆撃でえぐれた場所です。

爆撃の凄まじさが伺えます。

太平洋戦争中、日本軍はグアムなど他の島々で「水際作戦」という、
敵の上陸を阻止すべく、海岸で攻防を繰り返してきたそうですが、
米軍の圧倒的な火力と物量の多さに一瞬の全滅を繰り返してきたそうです。

硫黄島の兵団を率いた栗林中将は
過去のせん滅を教訓に、
硫黄島では水際作戦ではなく、
相手をできる限り上陸させてから一気に攻撃し、
その後は地下に潜んで長期的に戦闘を続ける戦法を選んだそうです。

それは自分が生きて本土に帰れない事を分かりつつも、
家族や友人のいる本土上陸を1日でも遅らせる算段だったようです。

結果、広島と長崎に原爆が落とされ、
多くの一般市民が亡くなり、
太平洋戦争は終結します。
きっと名将・栗林中将でもそこまでは読めなかったのではと多くの方が語っていました。


8.兵団司令部壕(栗林壕)
有名な栗林中将がここから兵団を指揮していたとされる壕です。

硫黄島の至る所にこのように場所の名前を記された碑が設置されています。

入口には観音様が祭られていました。

凄まじい戦闘だったと想像ができます。

階段を下りてすぐに屈まないと入れない狭い通路になります。
敵の侵入や火炎放射を防ぐために、
様々な工夫がされていました。


狭い通路を抜けて進むと、
水と共に栗林中将の写真が祭られていました。

部屋の上部には排気口があり、神棚が祀られています。

ここが栗林中将が指揮をしていた居室だそうです。

当時はここに机があり、執務にあたっていた場所そのものとのこと。

そんなに広くはなく、一部屋が4畳半より広いくらいで、
高さは2mもないほどの狭い部屋が奥まで続いていました。

さらに奥には広くて作戦会議に使っていた部屋もあるそうです。

当時の状況を想像するには十分すぎるほどの場所でした。


硫黄島の戦闘の貴重な実際の映像です。

9.医務科壕

いわゆる野戦病院となった壕です。

ここは陸軍の穴掘りの専門部隊が建造したらしく、
通路も部屋も広く、空気の流れを考えて作られていました。
沢山の道具も遺されていました。


これは鍋でしょうか?


硫黄島では何より貴重であった水はドラム缶に蓄えられていたそうです。

しかし、その水も飲むと硫黄臭く、
余計に喉が渇いたといいます。
それでも飲まずにはいられないほどの状況だったそうです。

この壕の奥でミイラが2体見つかった場所というのを案内されました。
そこはカメラが曇り、
眼鏡が曇って何も見えないほどの灼熱地獄でした。

具合悪い体で、
飲み水もなく、
苦しんで亡くなっていったのだと思います。

「英雄なき島/久山忍 著」という、
大曲覚氏(元海軍中尉)の証言によると、
壕の中は熱さと遺体の腐敗臭、糞尿の匂いが充満していて、
他の人をかばう気力もなく、死体はそのままだったと書いています。

この場所もとても悲惨な状況だったと書いています。

壕の中には大きなムカデもいました。


大きなハナダカクモもいました。

こんな中で戦闘で傷ついた人たちが収容されていたのかと思うと、
とても切なくなります。


場所によっては上部に排気口が開いていて、
そこ付近はとても涼しくなっていました。

硫黄島の壕は深い所では30m以上あり、
そこの暑さはサウナ以上だったといいます。
私が体験した場所はせいぜい50度くらいだったのでまだまだ暑い壕が沢山あるのだと想像できます。

島の壕の全長はなんと約17kmにも及ぶそうです。
それもほとんどがつるはしとスコップによる手掘りだったそうです。
重機はなく、陸軍は少しダイナマイトを使って掘っていたとのこと。

すり鉢山と島中央部の元山地区を地下で繋ぐ予定をしていたそうですが、
米軍上陸までに完成せず、それがすり鉢山が上陸後4日で没落してしまった背景だそうです。

もし地下で繋がっていたら水や兵器の補充が可能で、
栗林中将は10日は持ちこたえる計算だったと言います。

いずれにせよ、空襲と艦砲射撃の最中、ここまでの規模の壕を昼夜休まずに掘り続けた兵隊の労働の辛さは図り知れません。
しかし、自分たちの身も守る壕でもあったので必死だったと思います。
中年以降の兵士は壕作りでどんどん倒れていったと言います。
戦争というものが引き起こす悲劇に他なりません。


10.最後の突撃壕
硫黄島の兵団を率いた栗林中将が最後の突撃を行う時に
最後まで使っていた壕です。

入口付近には沢山のヘルメットが置かれていました。

内部は迷路のようになっていて、
左右には小さな部屋が作られています。

5日で攻略されると米軍が考えていた硫黄島ですが、
最終的には1か月かかったとされています。

太平洋戦争で唯一、
日本軍の死傷者よりも米軍の死傷者が多く、
今も伝説の戦場となっています。

日本ではあまり知られていませんが、
今もご遺骨が日米合わせて1万以上も埋まったままです。

遺族にとってももちろん、
私たちにとっても
戦後は終わっていないと強く思い知らされました。


11.高射砲
青空を見上げる高射砲です。

こちらは最近車で来れるように整備されたばかりだそうです。

2基、近い距離で並んでいました。
美しい硫黄島の景色と空に突然現れる高射砲の圧倒的な存在感。
こんなものを何基も設置する戦争というものの愚かさを垣間見ました。


12.捕虜収容所(米軍)
これは捕虜となった日本兵を収容していた米軍の施設だそうです。


島と思えないほど地平線が続く、空港周辺。
かつての電信柱が等間隔で残っていました。

風景も地平線が見える場所もあり、
ここは小笠原の島なのかと我が目を疑いました。



13.壁画

米軍がすり鉢山を占領し、
星条旗を上げた有名な写真を描いた壁画がありました。

ここにも沢山の弾痕がありました。

自衛隊の案内の方の話によると、
「英雄はこの者たちだけではない」とこの壁画に銃を撃った方もいたそうです。


英語や日本語で沢山の書き込みがされていました。
遺族や兵隊のものなのか、
来島者の落書きかは不明ですが、
心ない落書きでない事を祈ります。

太平洋戦争の硫黄島の戦闘当時、
アメリカではこれ以上兵士の犠牲が増えない様に、
戦争反対の世論も多く、
多くの兵器で経済的にも苦しく、
アメリカの上層部は国債を市民に買わせようと躍起だったようです。

しかし、この硫黄島のすり鉢山の写真で、
市民は興奮し、一気に戦争を進めれる雰囲気になったそうです。

戦争というのは単なる経済行為なのでしょうか?
多くの親や子供、家族が泣き、
生き残ってもその後遺症に悩まされます。

机上で作戦を立てる役人。
現場で命を懸ける命令された通りに動く兵隊。

いかなる場合でもこんな理不尽な戦争というものはあってはならないものだと強く思いました。
訪島記④に続く


参考までに人時通信の取材の映像も貼っておきますね。

硫黄島訪島記② ~戦跡パートⅠ

2016年06月17日 | 硫黄島
■小笠原に住んで14年。
初めて行った硫黄島。
沢山の事を体験することができました。
言葉では語りつくせないほどの経験でした。

その中でやはり一番印象に残っているのは生々しい戦跡の数々です。

父島や母島も戦争当時は島が要塞化され、
各地に壕や大砲跡が残ります。

空襲や病死、餓死で人が亡くなったといいます。

しかし、硫黄島は違います。
激しい地上戦となり、日米合わせて2万人以上の人が亡くなりました。
そして、今も1万の人のご遺骨が発見されず、埋まったままになっています。

そんな戦跡の数々をめぐる時、
彼らがどんな心境で戦争に駆り出されていたのか…
とても胸が苦しくなりました。

別名「パイプ山」と呼ばれるすり鉢山です。
この景色の広がる釜岩から訪島事業で上陸しました。

1.沈没船の跡

硫黄島訪島事業の玄関口、
釜岩でまず目に付くのは錆びた船体でした。

これは戦後、アメリカが港湾施設を建設しようと船を沈め、
そこにコンクリートで固めようとしたそうですが、
島の隆起が激しく、断念した後だそうです。

今も着実に隆起し続ける硫黄島を象徴するかのような景色です。


2.大阪山壕


ここは平らな硫黄島の中でも少し盛り上がった地形があるところです。
その為に壕や大砲が点在していました。

このアームストロング社製の大砲の横腹には
なんとアメリカの艦砲射撃の弾が刺さったままになっていました。

砲身から覗くと…

見事に貫通しています。
こんな弾が飛び交うのが戦争なのだと訴えている様に、
そのままでした。


近くにはコンクリート製の崩せかけた建物跡もありました。
爆撃でボロボロです。


美しい森を抜けると、


壕が点在しています。


中からは熱風が流れてきます。

硫黄島は火山活動の影響で、
常に地熱が高い所が多いのです。

そんな中、ずっと潜んでいたこと、
なによりこんな壕を沢山掘る労力を考えると言葉がでません…


平成24年度の遺骨収集で発見された遺品の数々です。


ここの壕の中はじっとり汗をかく程度の暑さでした。
その後に行く壕はあっという間に眼鏡が曇ってしまうほどでした。


壕を周る時、
慰霊碑を拝む時、
暑さに耐え、
水と空腹に飢えていった兵士の皆さんを弔い、
水とお米をお供えして周りました。


硫黄島は壁という壁すべてに弾痕があります。
悲しいことに弾痕がない岩はほとんどありません。

弾が刺さったままの箇所も多数ありました。
戦闘の激しさを物語っています。

3.釜場
兵士が食事を作っていた跡地です。

陸軍は基本的に材料を支給され、各自自炊。
海軍はまとめて作って、各自に配給する仕組みだったようです。
この玉名山にある釜場は海軍の204設営隊のものだったそうです。

煙は場所を敵に教えることになるので、
煙を出さない工夫がされていたそうです。

4.飛行機利用のトーチカ


これはなんと飛べなくなった飛行機を骨組みにしたトーチカです。
そのままコンクリートで固めて壕にしています。

中に入ると飛行機であることが分かりました。

近くには水平砲台もありました。
「摺鉢山14糎水平砲」と呼ばれています。摺鉢山の麓に設置されていました。

大きな弾が散乱していました。

米軍艦艇を砲撃したため、米軍の艦砲射撃と爆撃の標的にされ、
この砲を含め13門の火砲が破壊されたそうです。
砲台周辺には、およそ200名が埋葬されていることが判明し、その内152柱が収容されています。
また周辺の壕で有名な日本兵の遺した手紙が発見されたそうです。


5.米軍の戦跡
少し離れたところには米軍のシャーマン戦車が横たわっていました。

この圧倒的な存在感。

どんなに恐ろしいものだったのでしょう。
内部はぼろぼろでしたが、

戦後70年経った今も綺麗に形が残っていることから、
頑丈さが伝わってきます。


米軍の輸送機も羽と胴体が残されていました。
(船首部分は再利用の為に持って行かれたそうです)

内部も圧倒的な広さでした。
こんなものが多くの人と荷物を載せて空を飛ぶのが不思議でなりません。


これはB29のプロペラです。
人の身長より遥かに大きな代物でした。

6.その他
硫黄島のあちこちには今も弾が落ちていました。

地熱と硫黄成分で草木が育たない荒野の場所があり、
そこにただ弾が転がっている…

戦闘時、一体とんな情景だったのでしょうか…


ついこの間空港付近で掘り出されたばかりの機銃台。


上空を見上げたままの機銃台。


艦砲射撃の弾でしょうか?
とても大きな鉄の塊です。

そんな数々の戦跡を巡りました。
見れば見るほど気は重くなり、
戦争の凄まじさを肌で感じました。

亡くなった兵士の皆さんのご冥福を祈ります。


硫黄島の戦闘のドキュメント映像がありましたので、
良かったらご覧ください。

戦闘の凄まじさが伝わっていきます。

戦跡パートⅡに続きます。

硫黄島訪島記① ~はじめての硫黄島

2016年06月15日 | 硫黄島
■6月11日~6月14日、硫黄島訪島墓参に参加してきました!!
小笠原にに住んで14年。
初めて訪れた硫黄島でした。

下の写真は米軍が初めて上陸したという二ツ根浜です。

奥にはすり鉢山がそびえます。

今回は、
本や映像で見てもなかなか伝わることができない島の佇まいや雰囲気、
きっと戦前は本当に豊かな楽園だったと思わせる名残り、
硫黄の匂い、
壕の中の灼熱の熱気、

生々しい戦争の爪痕、
等を肌で感じる事が出来ました。
行ってみて、本当に良かったと感じます。



■こんな戦後70年経っても残る戦争の爪痕…
下の写真は米軍のシャーマン戦車の写真です。


今、こうして平和に暮らせているのは、
多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないと強く思ったと同時に、

これから二度とこのような
愚かで多くの哀しみを生み出す戦争と言うものをしない世界を築いていかなければと強く思わさせました。


すり鉢山を望む鎮魂の丘では献花を行い、
亡くなった兵士の皆さんに追悼のお祈りをします。



海岸の沈船の跡です。
これは米軍統治時代の遺物だそうです。


■父島と母島の中学二年生が学習に来ていました。
初めて訪れた硫黄島で何を感じたでしょうか?

旧島民、遺族の話を聞いて、これからの社会を担う彼らは何を感じれたでしょうか。

教科書では分からない多くのものを学べたのではないでしょうか?
本当に貴重な機会だったと思います。


慰霊祭にも参加して来ました。

■そして、無事3泊4日を経て、
多くの方々のお陰で無事に帰ってくることができました。
どうも有難うございました。


最後におがさわら丸は硫黄島を周って、献花を行いました。
最後の長い汽笛が脳裏から離れません。

無事に母島に帰って来て、
元気な家族の顔を見れて、
今こうして平和に暮らせていることの幸せを有難く感じました。

また少しずつ写真と
感じた事をアップしていきたいと思います!

パート②に続きます。