■「俺たち、明日硫黄島に行くんです。どうか、お父様によろしくお伝えください。」
時は太平洋戦争の真っ只中の1944年後半の事だと思います。
その兵士さん達は、中ノ平の家に帰る通りすがりの兄にそう告げたそうです。
これは僕が2016年に硫黄島で撮った大砲の先から植物が生えている様子です。
無機質な、人を殺すための鉄の兵器が、
風化して、そのわずかな部分に命を宿している…
とても感触深い場面でした。
南国の青空に不釣合いなまでの出で立ちで現れた大砲。
硫黄島という楽園に降りかかる戦争という不条理。
2016年の硫黄島で目の当たりにした、
戦後70年でもはっきりと残った戦争の爪痕。
今回は母島から硫黄島に行く兵士の話です。
■先日、母島のレジェンドの方に話を伺う機会がありました。
その時の話がとても印象的だったので紹介したいと思います。
当時はまだ女学生で、学校のある沖村(今の元地)と家のある中ノ平を歩いて通っていたそうです。
その頃は、戦争は始まっていて、兵隊さんが母島にも大勢来ていて、
至る所に壕を掘っていたそうです。
中ノ平の家に行くマニラ坂の道でも兵隊さんがよく作業していて、
兵隊さんに声をかけられるのが嫌で、
いち、に、のさん!で友達とダッシュして駆け降りた時の事。
「お~い!○○ちゃん!」
と呼び止められ、名前を呼ばれては行かないわけにもいかず、
少し嫌々な感じで近づいていくと、
「どうして何もしないのに、逃げるように行くんだよ~。
あのさ、○○ちゃん和裁って習ってる?」
まだです、と答えると、ポケットから小さな和服を着た人形を出して、
「着物とか縫えるようになると、こういうのも作れるようになるよ。頑張ってな」
と言って、その人形をくれたそうです。
また別の日には、御嶽神社の下ら辺の通り道で、
中ノ平の家に帰る途中に、よく会う別の兵隊さんに声をかけられたそうです。
「君にこれをあげるよ。兄弟と仲良くしていくんだよ。」
と言って、大きな箱をくれたそうです。
家に帰ってその箱を開けてみると、クッキーが沢山入っていたそうです。
その時はなんでだろう?と思っていたそうですが、
後から兄から冒頭の言葉を聞いて、「ああ、もう硫黄島に行っちゃうんだ」と悟ったそうです。
農協で働いていた父親は恐らく、前浜から見送ったと思うと言っていました。
その後、硫黄島は激戦の地となり、そのほとんどが戦死したので、
恐らくその兵隊さんも戦死したともうとおっしゃっていました。
■さらにこの戦争の時に母島から出兵して、生き残って内地に戻って来れた兵隊さんがいたそうです。
その兵隊さんの隊長は「絶対に命を粗末にするな。捕虜になってでも生き残れ!」と言ってくれたそうで、
まさに捕虜になって生き延びて日本に帰って来れたのだそうです。
当時は鬼畜米兵の捕虜になるくらいなら、自害せよ!
の教えが主流の頃です。
素晴らしい上官だったと思います。
しかし、いざ帰国すると、戦争で夫を亡くした妻は兄弟の妻になっている場合も多く、
もう戦死したと思われていた本人が、
遅れて日本に戻って来て、色々すったもんだがあったとおっしゃっていました。
戦争なんて、自分の関係のない世界からの命令で、
自分の人生を変えられるどころか、死んでさえしまうものです。
上層部は傷一つつかずに、死んで傷ついていくのはいつも一般市民ばかりです。
こんな不条理があっていいのでしょうか?
戦争が無ければ、あの楽園のような硫黄島はどうだったのでしょうか?
硫黄島は気候とその地熱のお蔭で、沢山の熱帯作物を作れていたそうです。
心配される飲み水も、当時は雨と朝露でかなり賄えたそうです。
母島もあの戦争が無ければ、
一体どんな島になっていたでしょうか?
伝統と文化が色濃く残り、
また今とは全く違う島だっただろうと思います。
■今回、この母島から硫黄島に行って散ってしまった兵隊さんのお話しを聞いて、
現代はなんて恵まれているのだろうと感じました。
そりゃ現代だって色んな問題は抱えています。
自殺者だって、年間何万人もいますし、
今は全世界を新型コロナが遅い、今も深刻な影響を及ぼしています。
昔はなかった様々な心の病や、
色んな現代病に苦しんでいます。
それでも、この戦争の時のことを思うと、
ああ、自分は本当に恵まれていて、
ちっぽけな悩みを持っていたなと気付かされます。
アメリカ大統領選挙の話、
今だ解決していない原発の問題、
沖縄の米軍基地の問題、
尖閣諸島に忍び寄る戦の気配、
世界は全然、平和ではありません。
でも世界が平和になるためには、
誰か絶対的なリーダーや社会革命が起こる必要性は無く、
ひとりひとりが己の内面の平和を実践して行くしかないと思うのです。
今、小笠原に来ているヨガの不久先生が語る、
「精神の自立」
これが世界平和への唯一の道だと思うのです。
母島も不久先生は11/10~12とヨガを教えに来てくれます。
ヨガで
教えを学び、
身体を緩め、
己の魂の声に耳を傾ける。
今年もこうして学べることに感謝です♪
時は太平洋戦争の真っ只中の1944年後半の事だと思います。
その兵士さん達は、中ノ平の家に帰る通りすがりの兄にそう告げたそうです。
これは僕が2016年に硫黄島で撮った大砲の先から植物が生えている様子です。
無機質な、人を殺すための鉄の兵器が、
風化して、そのわずかな部分に命を宿している…
とても感触深い場面でした。
南国の青空に不釣合いなまでの出で立ちで現れた大砲。
硫黄島という楽園に降りかかる戦争という不条理。
2016年の硫黄島で目の当たりにした、
戦後70年でもはっきりと残った戦争の爪痕。
今回は母島から硫黄島に行く兵士の話です。
■先日、母島のレジェンドの方に話を伺う機会がありました。
その時の話がとても印象的だったので紹介したいと思います。
当時はまだ女学生で、学校のある沖村(今の元地)と家のある中ノ平を歩いて通っていたそうです。
その頃は、戦争は始まっていて、兵隊さんが母島にも大勢来ていて、
至る所に壕を掘っていたそうです。
中ノ平の家に行くマニラ坂の道でも兵隊さんがよく作業していて、
兵隊さんに声をかけられるのが嫌で、
いち、に、のさん!で友達とダッシュして駆け降りた時の事。
「お~い!○○ちゃん!」
と呼び止められ、名前を呼ばれては行かないわけにもいかず、
少し嫌々な感じで近づいていくと、
「どうして何もしないのに、逃げるように行くんだよ~。
あのさ、○○ちゃん和裁って習ってる?」
まだです、と答えると、ポケットから小さな和服を着た人形を出して、
「着物とか縫えるようになると、こういうのも作れるようになるよ。頑張ってな」
と言って、その人形をくれたそうです。
また別の日には、御嶽神社の下ら辺の通り道で、
中ノ平の家に帰る途中に、よく会う別の兵隊さんに声をかけられたそうです。
「君にこれをあげるよ。兄弟と仲良くしていくんだよ。」
と言って、大きな箱をくれたそうです。
家に帰ってその箱を開けてみると、クッキーが沢山入っていたそうです。
その時はなんでだろう?と思っていたそうですが、
後から兄から冒頭の言葉を聞いて、「ああ、もう硫黄島に行っちゃうんだ」と悟ったそうです。
農協で働いていた父親は恐らく、前浜から見送ったと思うと言っていました。
その後、硫黄島は激戦の地となり、そのほとんどが戦死したので、
恐らくその兵隊さんも戦死したともうとおっしゃっていました。
■さらにこの戦争の時に母島から出兵して、生き残って内地に戻って来れた兵隊さんがいたそうです。
その兵隊さんの隊長は「絶対に命を粗末にするな。捕虜になってでも生き残れ!」と言ってくれたそうで、
まさに捕虜になって生き延びて日本に帰って来れたのだそうです。
当時は鬼畜米兵の捕虜になるくらいなら、自害せよ!
の教えが主流の頃です。
素晴らしい上官だったと思います。
しかし、いざ帰国すると、戦争で夫を亡くした妻は兄弟の妻になっている場合も多く、
もう戦死したと思われていた本人が、
遅れて日本に戻って来て、色々すったもんだがあったとおっしゃっていました。
戦争なんて、自分の関係のない世界からの命令で、
自分の人生を変えられるどころか、死んでさえしまうものです。
上層部は傷一つつかずに、死んで傷ついていくのはいつも一般市民ばかりです。
こんな不条理があっていいのでしょうか?
戦争が無ければ、あの楽園のような硫黄島はどうだったのでしょうか?
硫黄島は気候とその地熱のお蔭で、沢山の熱帯作物を作れていたそうです。
心配される飲み水も、当時は雨と朝露でかなり賄えたそうです。
母島もあの戦争が無ければ、
一体どんな島になっていたでしょうか?
伝統と文化が色濃く残り、
また今とは全く違う島だっただろうと思います。
■今回、この母島から硫黄島に行って散ってしまった兵隊さんのお話しを聞いて、
現代はなんて恵まれているのだろうと感じました。
そりゃ現代だって色んな問題は抱えています。
自殺者だって、年間何万人もいますし、
今は全世界を新型コロナが遅い、今も深刻な影響を及ぼしています。
昔はなかった様々な心の病や、
色んな現代病に苦しんでいます。
それでも、この戦争の時のことを思うと、
ああ、自分は本当に恵まれていて、
ちっぽけな悩みを持っていたなと気付かされます。
アメリカ大統領選挙の話、
今だ解決していない原発の問題、
沖縄の米軍基地の問題、
尖閣諸島に忍び寄る戦の気配、
世界は全然、平和ではありません。
でも世界が平和になるためには、
誰か絶対的なリーダーや社会革命が起こる必要性は無く、
ひとりひとりが己の内面の平和を実践して行くしかないと思うのです。
今、小笠原に来ているヨガの不久先生が語る、
「精神の自立」
これが世界平和への唯一の道だと思うのです。
母島も不久先生は11/10~12とヨガを教えに来てくれます。
ヨガで
教えを学び、
身体を緩め、
己の魂の声に耳を傾ける。
今年もこうして学べることに感謝です♪