もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

渡部建氏の会見に思う

2020年12月11日 | 芸能

 お笑い芸人渡部建氏の会見の顛末を民放各社が総力を挙げて報道している。

 会見を開いた理由は、不行跡の謝罪とも番組復帰の地ならしとも云われるが内容はさておいて、本日のテーマは会見のアレコレに関する所感である。
 まず、刑法犯ですらない1芸能人の不行跡にこれほどまでに報道する価値があるのだろうかという疑問である。集近閉(3密)自粛の世相に反してまで多くの報道関係者が一堂に会し、公共であるべき電波を膨大な時間消費した結果、国民は何を得たのだろうか。一握りのファンにとっては一大関心事であろうが、多くの視聴者にとっては井戸端会議のネタが増えた程度であるように思える。
 次いで違和感を感じるのは、会見に参集した記者が異口同音に「説明責任」と云う言葉を使用することである。説明責任なる造語は何時頃生まれ、何時頃に市民権を得たのであろうかは不明であるが、一応説明責任なる概念が存在するとして筆を進めることとする。そもそも責任とは、明確な指揮関係、契約、法律によって生じるものと考えるので、総理は国民に説明する義務があるものの国務大臣は任免権者である総理にしか責任は無く、民間企業の経営者が国民に向けて説明するのは法律違反が国民に損害を与えた場合にのみ行われるべきではないだろうか。渡部氏の例では、渡部氏が説明責任を負うのは所属会社に対してのみであり、損害を与えた企業に対する説明責任の全ては約に則って所属会社が負うべきである。まして国民や記者に対して説明しなければならない理由などどこにもない。
 さらに遺憾に思うのは、会見の場で渡部氏が回答に窮したり回答を拒否したことに対して記者が「リンチまがいの吊し上げ」宜しく執拗に迫ったらしいことである。記者の主張は「我々には知る必要がある」と云うものであるらしいが、取材相手の恥部を含めたすべてをあからさまにできる権利を誰も記者に認めていない。電話番号ですら個人情報として保護を求める一部の国民やメディアも、芸能人や取材相手に対しては丸裸になることを要求する矛盾をどのように折り合いをつけているのだろうか。かっては芸能レポータと呼ばれていた一団の肩書が、近年では芸能ジャーナリストに変化している。このことについては、タレント・芸能人がテレビのニュースショーでMCをすることに対して、ジャーナリストではないと辛口に批判した櫻井よしこ氏や木村太郎氏の分析・御意見を窺いたいと思っている。

 軍事組織では指揮関係に厳格で、艦長よりも上位で経験豊富な司令が乗艦している護衛艦の航海中には艦橋に司令と艦長が同時にいることも多いが、例え困難な局面にあっても司令は操艦や個艦の作業に口を挿めない。一人の乗員の過誤で艦隊の行動に影響が出た場合にも、責任は全て艦長にあり過誤を起こした乗員が司令に説明を求められることもない。これが海難事故であったとしても、司令は行政処分を科されることはあっても、被告として罪に問われることは無い。このような環境を当然としている自分にとって、渡部氏が所属会社が同席しない会見を設けること、改憲の場で説明することは理解できないし、何等の指揮関係を有しない芸能ジャーナリストが説明責任と称して渡部氏個人を追及することに限りない違和感を感じるものである。
 改めて書くまでもないが、本稿は渡部氏が清廉潔白というのではなく、報道の適否と説明責任なる概念のあいまいさを述べるものである。


竹内結子さん急死

2020年09月27日 | 芸能

 女優の竹内結子さんの急死が速報された。

 詳細は不明であるが、竹内さんの年齢が40代前半であることや、救急搬送も報じられていないことから”もしや”の声も聞こえている。
 ドラマや邦画にはご無沙汰しているので現在の活動は知らないが、そんな自分でも、ラーメンのCMでの笑顔は知っているし、中村獅童氏との結婚・第1子出産・離婚、俳優中林大樹氏との再婚・第2子出産等は知っている。
 華やかな芸能活動と幸せな結婚生活を両立した順風満帆の人生を送っておられるものと思っていたので、急死の速報には人生のそこはかとない儚さ・無常を感じる。
 この齢になると、自然死に近い年上の人の死や年下であっても闘病の果ての死には心騒ぐこともないが、年下の人の突然死には穏やかではいられない。
 死生観について北方謙三氏は作中の武人に「死は親しい友人のようなもので、不意に訪れる」と語らせるが、自衛隊員としての現役中は「死の直前には取り乱すかもしれないが、死傷が予想される任務を命じられた場合にも見苦しい振舞いだけはすまい」と心に決めていたが、退職後20年を経た今ではその覚悟も怪しくなっているのではないかとの恐れも感じている。しかしながら中国コロナに対しては、万が一感染を告げられた場合には潔く運命に身を委ねようと思っており、医療崩壊から人工呼吸器の装着を後回しにされても笑って受け入れようとも思っているが、一方で、友人・知人に「医療態勢がひっ迫する前に感染・治療を受けて抗体を持つ方が有利かな」などと不遜な言葉を口走ってもいることは、周囲に誤解を与えているのかも知れないと反省しなければならない。

 竹内結子さんの訃報に接して、自分の死生観まで再確認できた。改めて竹内結子さんに合掌。


松任谷由実氏罵倒の白井聡氏

2020年09月04日 | 芸能

 ラジオで安倍総理辞任会見に「切なくなった」と語った松任谷由実氏を罵倒した大学講師がいることをTV番組で知った。

 罵倒したのは京都精華大専任講師の白井聡氏(43)で、顛末は8月29日松任谷氏のラジオ発言を伝えるスポーツ紙の記事を自らのフェイスブックに引用したた上で「荒井由実のまま夭折すべきだったね、本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」と続けたとされている。第一感は「バカな先生がいるものだ」であったが、白井氏が30日に朝日新聞に寄稿して、安倍政権の7年余を「日本史上の汚点」と全否定するとともに、安倍政権の支持者(自公投票者)に「嫌悪感を感じる」とまで書いていると報じられた。ウィキペディアでは、白井氏の専門は社会思想・政治学で、2010年「レーニンの政治思想」で博士(一橋大・社会学)の称号を得ており、主にロシア革命の指導者であるレーニンの政治思想をテーマとした研究を手掛けてきたが、近年は共産党の政権取得による現状改革を訴えていると解説されている。ロマノフ朝の圧政下に置かれたロシアでマルクス主義による暴力革命を成し遂げたレーニンを信奉する白井氏であれば、戦後政治の全ては否定されるべきもので、自民党主導の政権を選択する国民には我慢できないのであろう。しかしながら、1917年にロシア革命を成功させたレーニンの手法が権代の情報社会で再現できるはずもなく、加えて共産主義国家が相次いで崩壊した歴史を知っている有権者が、反共・反社会主義に靡くのは必然であろうと思う。70~80代のオールドコミュニストはさておき、40代の少壮学者が100年前のレーニンの手法を借り着してロシア革命再現のための論拠を領土問題と米軍基地問題に置いているとされるが、学究の徒としては皮相的・教条的に極めて軽薄、オリジナリティを欠く行動は活動家としても中途半端であるように感じられる。また松任谷氏や有権者を痛罵する人間性は盲目・排他的な原理主義者の典型で、アジテーターとしても小物感にあふれている。

 白井氏の寄稿文を掲載した朝日新聞については更に大きな疑問を感じる。同紙社説でも白井氏の主張と大同小異の論陣を張っているが、目指すところは民主党政権誕生のために総力を挙げた10年前の、古くは海軍報国号献納を推進して戦意と軍拡を煽った、「新聞は印象操作の最大の武器」とする社歴の踏襲であるように思う。慰安婦強制連行という虚報を世界中に流布し、空白の3年間ともされる民主党政権誕生を主導した瑕疵は決して小さいとは思えない。先日もルール違反の取材を制止されたことを報道の自由侵害と言い立てることや白井氏の寄稿文掲載での印象操作を見ると、朝日新聞の命脈が尽きるのも時間の問題かと思われる。それとも、「朝日タブロイド」と名を変えて、フェイクニュースが失笑されつつも許容されるタブロイド紙に変身して延命を図るのだろうか。


上野樹里・東出昌大

2020年08月02日 | 芸能

 コロナ報道に飽きてネットニュースを眺めていたら、上野樹里さんの近況が報じられていた。

 記事の大要は『以前は、どちらかといえば“気難しい女優”というイメージだったが、結婚後は周囲に気を配るようになり、特に夫に持たせた愛妻弁当は夫や周囲から好評を博している。』という他愛もない内容である。TVドラマは全く見ないものの気弱?な夫を見守るCMは記憶していたが、彼女が34歳で料理研究家の平野レミ氏の長男でロックバンドのボーカル&ギターを務める和田唱氏と結婚していることは知らなかった。同じ日の芸能ニュースのトップは東出昌大氏と杏さんの離婚劇であるが、両者を見比べて男女間・夫婦間の難しさを改めて考えさせられた。平易に考えれば、結婚を機に良い方に変わった上野さんと変わらなかった東出氏という構図であるが、”雀百まで踊り忘れず”を真理と考える自分としては、上野さんは本来持っていた優しい一面を周囲が見落としていたに過ぎないように思う。世の中には、穏やかで周囲に心配りできる殺人者がいる一方で、見るからに一癖も二癖も窺える人が電車で席を譲ったりすることも珍しくない。人は社会の荒波を泳ぐために何枚もの猫の皮で本性を見え難くする術を心得ているが、何かの拍子でその皮が破れた時に極悪非道な行為に奔ったりするのではないだろうか。原因となる”何かの拍子”となりやすいのが金銭トラブルと男女間の軋轢・相克で、犯罪の陰に女ありと云われ、犯罪で最も利益を得る人間を見つけるのが捜査の鉄則とされる所以であると思う。また、究極の衝突までには至らないものの、男女それぞれの本性が衝突するのは、社会生活で被っていた幾重かの猫の皮の一部を脱ぎ捨てることができる家庭の場であるとも実感している。推測であるが、世の多くの男は社会で生きていくための猫の皮に加えて、安寧(安全)な家庭生活に必要な猫の皮を一枚余分に被って、女房の攻撃・痛罵に備えているのが現実であるように思う。昨日のブログで、陸(オカ)の軛から解放された艦船勤務の解放感に触れたが、そのような状態に置かれることを夢想する既婚者も少なくないと考えるのは果たして・・・。

 東出氏は、浮気性という本性を隠し切れなかったもののようであるが、中国コロナ禍にあっても新作映画が公開されたことを考えれば、本性を隠さずに生きていける場を得ているようで、それはそれで結構なことである。ともあれ、上野樹里さんの益々の活躍と幸せな結婚生活の永続を願って、日曜版ブログを終演。


アンジャッシュ問題に思う

2020年06月19日 | 芸能

 アンジャッシュの渡部建氏の話題が世情を賑わしている。

 渡部氏の行動の詳細は承知していないが、マスコミが総力を傾けて報道する程のことでもないだろうと思う。マスコミの指摘するところは、「会見をして顛末を明らかにして謝罪せよ」に尽きると思うが、顛末を明らかにすることで、社会に寄与できることがあるだろうかということと、いったい誰に対して謝罪を要求するのかが理解できない。彼の行動は法を犯したものでは無く、設計者が予測した多目的トイレの活用法以外の目的に使用したに過ぎない。また、謝罪とは、直接被害を与えた相手になされるべきもので、裏切ったとフアンに謝罪せよとする主張には根拠がないと思う。ファンは実像を知らずに各種媒体によって作られた虚像を応援(心酔)しているだけであることを思えば、謝罪すべきは虚像を作り出した媒体であるように思う。刑法は国家という集団を損なう「罪」を定めて、「罪」に対しては国家が処罰することを宣言したものと思う。昔から、罪とまではされなものの集団の円滑な運営を阻害する者に対しては「村八分」という懲罰を与えていた。それを文化大革命下の中国では犯罪や犯意の立証を必要としない「人民裁判」という形で行ったと考えている。刑法で裁かれない刑罰は「私刑(リンチ)」と呼ばれ、憲法31条では「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定し、厳に戒めているが、マスコミの主張する「会見」なるものの実態は、覗き見を満足させるための体のいい吊し上げで、執拗な報道と合わせれば私刑に他ならない。有史以来多くの宗教家や思想家が思索を重ねても、未だに絶対の真理は確立されていないとされ、桃源郷も出現していない。現在我々が真理と考えるのは、自分の住む国の風俗習慣の最大公約数であると考えれば、時代とともに真理が変質することは避けられない。真理に悖るとして渡部氏を糾弾しているマスコミは、単に時代の一瞬の真理を絶対の真理と思い込んでいるに他ならないように思う。

 大上段に振りかぶったが、渡部氏の顛末に戻れば、単に芸能界という狭い世界で起きたことであり、利害得失に関係するのは極めて少数であろう。TV画面や食べログ上の虚像と情報に踊った人々は、単に選択の対象を見誤ったにすぎず実害はないものと思う。また、かっては芸能レポータと呼ばれていた集団が、今では芸能ジャーナリストと名を変えていることにも違和感を感じる。職業そのものや呼び方に貴賤を付けるものでは無いが、この種の業種はやはり芸能レポーターの呼称が相応しく思える。