19歳の巡査が配属先の派出所内で41歳の上官を背後から射殺した。
事件に関して、多くのことを考えさせられた。一つは射殺の直接原因とされる上官の叱責についてである。新米警官に対する教育・指導の意味を込めた叱責は当然あったであろうが、二人の監督関係は3月26日からわずか半月余りであり、これほどの短期間に殺意を抱かせるほどの叱責があったとは常識的に考えられない。ここから推測できるのは、おそらく19歳警官には叱られた経験がなかったのではないだろうかということである。家庭や学校では体罰など論外で叱らない子育てを美徳とする風潮、職場ではパワハラを恐れる上司の甘やかし、組織に適応できないことを個性として許容する社会、そのいずれもが健全な大人への発達を阻害する大きな要因になっているのではないだろうか。500グラムの握力さえあれば人を殺せる拳銃を所持できる若年警察官の多くがこのような環境に育っているのである。かっては標的は撃つことができても、人間を撃つためには強固な使命感と強靭な精神力が必要と言われていたが、幼時からシューティングゲームに慣れた若者は、些細な理由で敵と判断した人間に対しては引き金を引くことを躊躇しないのではないだろうか。アメリカで多発している銃の乱射に対して、銃の蔓延が第一の原因として銃規制が叫ばれているが、全米ライフル協会が「銃が悪いのではなく引き金を引く人が悪い」との論で銃規制に反対しているのは真理の一面を語っているのではないだろうか。もう一つは加害者の実名や容貌報道が中止されたことである。少年法の規定や、精神疾患の有無に配慮したものかもしれないが、警官による警官殺しは司法制度の根幹を揺るがす重大事件でるために、犯人の詳報によって改善されることも少なくないのではないだろうか。おそらく犯人は10年後には隣人となる可能性すらあるのである。
かってイギリスで。特殊な場合を除いて警官の拳銃携帯を止めたことがあったが、凶悪犯罪の増加にしか結び付かなかった歴史もある。やがて巻き起こるであろう警官の拳銃携帯の可否議論に他山の石とすべき事例と思うのだが。