昨日は中国の陪審員制度導入について、人民裁判の制度化かとの疑念を書いた。
考えてみれば、日本でも人民裁判的なことがまかり通っているのではないだろうか。古い話では民主党が政権奪取時に行った事業仕分け、新しくは文書改竄疑惑でのヒアリング、そのいずれもが、法的な立場が極めて曖昧な国会議員が、被告に見立てた関係者を検察官もどきに詰問する構図である。特に、立民の杉尾秀哉議員の高圧的な恫喝には寒気と吐き気を覚える。議員は前職のテレビ記者・キャスターとして顔が売れているために検察官役に抜擢されたのかもしれないが、大勢の同志を背にして関係者を強圧的・断定的に叱りつける姿勢は、判決で有罪が確定するまでは何人も推定無罪として保護される司法の枠と概念を無視した、まさに吊し上げ・人民裁判と同じものではないだろうか。ヒアリングは当事者や反対者の主張を真摯に聴くための場であるべきと思うのだが、杉尾議員のヒアリングは意に添わぬ意見の封殺・傍若無人な態度に終始している。私が関係者の席に座らされていたならば、おそらく席を蹴って退席したであろうと思う程のひどさと感じる。自分が正しい・正義は我にありとの思い込みに凝り固まった人の多くはクレーマーと化し、理論ではなく情念で、紳士的な言動ではなく大声と罵倒で相手をねじ伏せようとするもので、矛先が弱者に向けられたときは一層尖鋭化する。杉尾議員やヒアリング同席議員にも同種の臭いを嗅ぐのは果たしてて自分一人だろうか。
野党議員諸氏に望むところは、印象や報道や情念ではなく、綿密な調査に基づいた事実と精緻な理論で政権に立ち向かって欲しいということである。