習近平主席の国賓としての来日が延期されることとなった。
習主席の来日招待を国賓とすることについては当初から反対意見が多かった。曰く「新疆自治区における人権弾圧」、「香港の1国2制度保証の軽視」、「尖閣水域への公船侵入」、「台湾への恫喝」等々、多岐に亘っていた。政府は国賓としての招待予定を変更しなかったが、新型肺炎の蔓延では震源であり、しかも過度の情報統制で世界中に保菌者を拡散させた国の元首を国賓として招待することの是非を問う世論が高まったことに加え、中国からも「全人代まで延期したこの時期に元首が外遊すること」を疑問視する空気が伝えられていた。なぜ政府(安倍総理)は習氏の国賓招待に拘ったのだろうか。自分は、①「米中摩擦の仲介役を果たしたかったのではないだろうか」と素人観している。米中摩擦の軽減・解消は日本にとって大きな経済的実利をもたらすのみならず、米中双方に仲介役としての存在感を示すことができると考えたものであろうが、既に関税協議の第1段階で合意した今では些か証文の出し遅れの感が否めない。米朝首脳会談では米朝間に外交チャンネルがないことから、双方に対話チャンネルを持つと自負する韓国の文大統領が同様の試みで動いたものの、結果的には梯子を外されて文大統領はピエロの役割しか果たせなかった。②は「尖閣諸島の帰属問題解決の筋道・方向性を付けたかったのでは?」というものである。1978(昭和53)年、時の中国副首相ではあるものの実質的な指導者であった鄧小平氏が来日し、既に顕在化していた尖閣諸島の帰属について「このような複雑な問題について早急な結論は出さないようにしよう。50年・100年後の子孫がより良い解決策を見つければ良い」と発言したことから「尖閣諸島問題棚上げ同意」と朝野は歓喜したが、50年近く経った今の状況を観ると「まんまと中国の罠に嵌まった」ことが解る。香港に50年間の1国2制度を保証してから僅か20年で保証を形骸化している現実を併せ考えると、習主席の来日が実現したとしても、中国の良く言えば「長いスパンでの外交」、悪し様に云うと「その場しのぎのウソ外交」の言質を引き出すのが精一杯であろうと推測する。
上記の2点だけでも、新型肺炎を理由とする習主席の来日延期は歓迎すべきことであると思う。日本は中国に負い目を負うことなく、中国はメンツを損なうことなく、国賓問題を棚上げにすることができる。新型肺炎騒動が終焉した後も、国賓来日は「なし崩しに終結」という推移が最も望ましいと考える。昨日、知人からのメールで「新コロ」なる表現に出くわした。なにやら「チ〇〇コロ」なる古表現に似た響きを感じて、歴史は繰り返すのか?と感じた次第である。