もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

不要不急の解釈について

2020年03月28日 | コロナ

 新コロナウィルス感染拡大阻止のために不要不急の外出を自粛するよう要請されている。

 「国民は不要不急の解釈に戸惑っている」とメディアは異口同音に報じ、「御上」が何らかの基準を示すよう求めている。確かに自分の行動が不要不急に当たるかどうかを決めるのは困難であるが、「御上」の御沙汰がなければ決められないとするのは如何なものであろうか。行動動機の重要性・緊急性判断については個人差が大きく、ある人が重要と判断する理由であっても価値観の異なる人は不要不急と感じるかもしれない。イタリアでは受刑者への面会を禁止したことによって暴動にまで発展したが、自分は受刑者への面会は不要不急に該当し自粛が当然と思う。行動基準を個人の判断に委ねることは危険で実効性がないことを知っている諸外国は、非常事態宣言と云う強権を発動して一律に外出を制限し、違反者には罰則を科している。日本では感染源を特定し感染源に連なる集団をクラスターとして重点対処してきたが、感染経路が把握できない感染者が続出しているにも拘らず政府の非常事態宣言は時期尚早とする意見が多いように感じられる。小池知事は一歩踏み込んで「食糧などの日用品購入と散歩程度の行動」と表現したが、まだまだオブラートに包んだ表現であるように感じられる。では、不要不急の行動とは何であろうかと考えたが、究極のところでは「自分や近親者の生命を維持する以外の行動」であろうと考える。言い換えれば命を直接左右する行動以外はすべて不要不急の行動である。イベントに行かなくても・装飾品を買えなくても・食事会をしなくても・花見をしなくても・デートをしなくても命を失うことはない。家に閉じこもっていると「ストレスが溜まる」との言葉も耳にするが、ストレスはこれまでの日常でも常に満ち溢れており、外出や対人関係など外にあったストレスが家にいることのストレスに置き換わるにすぎないし、余程のストレスでない限り命に係わるほどではないだろう。政府が外出禁止令を発動して人気の途絶えたパリなどでは、個々の市民は多くの問題と要求を抱えているだろうがしぶとく生き永らえているようである。これは有事と平時の違いと、それぞれに適応した生き方を観念的でなく肌身に沁みて知っていることが大きいためと思う。台風・洪水・地震等の自然災害による被害の絶えなかった日本では、これまで天災として諦観を以て受け止めていたこれらの厄災を何時の間にか「避難指示の遅れ」などに転嫁して人災とする風潮が定着する一方で、勧告・指示を無視しても、そのことを糾弾する世間様が不在となってしまった。

 新コロナウィルスの流行がどのような結末を迎えるか予測することは不可能であるが、一応の決着を見た際には、政府の要請や勧告を無視して繁華街に出かけた人や上野公園で花見をしていた人、学校閉鎖等の対応にブレーキを掛けた評論家の口舌も検証する必要があるものと思う。それにもまして、喫緊の問題は、不要不急の態様を理解できない人々・社会に対して政府が「生命の維持に直結しない行動は全て不要不急の行動である」と言明することであると思う。