もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

イタリアに明日の日本を見る

2020年03月22日 | コロナ

 イタリアが患者の選別を行わざるを得ない状態に陥っていることが報じられた。

 感染者4万7千人超、死者4千人超と死者数では中国を超えたイタリアでは、既に医療態勢の限界を超えていると観測されている。現地医療関係者の言として伝えられたものであるが、「倫理上正しいかどうかは別にして、蘇生措置は生存の可能性が高い患者を優先している」、「人工呼吸器を誰に装着されるかを決めなければならない。80歳以上で呼吸器に問題がある患者なら措置はしない。3つ以上の中枢機関に疾患がある場合の致死率100%」、「60代以上の患者には挿管しなくなった。人工呼吸器を必要とするすべての人に挿管できなくなったため若い人や他の病状のない人を選択して挿管する。」と悲痛なものである。国や医療機関はそうした事実を公的には否定しているが、他の国に比べて致死率が異常に高いことは、統計方法の違いを考慮してもその辺の事情を窺い知るに十分であろう。治療の優先順を決めるトリアージの一般原則では「緊急度」を優先するが、野戦病院では「以後の戦闘に対する必要性」を最重視するとされている。現在のイタリアは野戦病院的に、年齢での足切りや以後の生産活動に意義を持つ患者を優先する「姥捨て思考」を余儀なくされているのではなかろうかと推測する。イタリアの医療制度・態勢はそれほど脆弱なのかと調べてみた。イタリアは国民皆保険制で医療費は無料若しくは格安で、2000年のWHO調査ではフランスに次いで世界第2位と評価されているが、その後の財政緊縮策の一環として医療費削減のために多くの医療機関を統廃合・民営化して医療従事者を削減してきたために余力がない状態であったとされ、ある資料では治療(手術)を受けるための待ち時間は数週間~数か月とされている。このように、主として財政的な理由から平時の所要を満たせば十分とした医療態勢が、急激な所要拡大(患者の殺到)に応じられるべくもなく、日本に次いで世界第2位の長寿国であるイタリアが先進国としては異例の弱者を見捨てざるを得ない状態を作り出しているのは明白である。日本でも、広域医療体制整備と称して過疎地域の公的医療機関を廃止して都市部の拠点機関に集約する施策が進められ、病床利用率の低い公的病院の廃止が提唱されているが、有事に対応できないイタリアを目指す医療改革ではないだろうかと危惧する。また、財政再建の切り札とされる公的機関の民営化であるが、採算重視の民間医療企業では金になる若しくは金を払える患者を優遇することは避けられず、医療格差が拡大し生命・余命を金で贖うことが要求されることにもなりかねない。

 既に才能と社会貢献度の限界を自覚している自分は高額の医療費を払ってまで余命延長を購入する気はないが、無限の可能性を秘めた幼児や若年者が医療の壁に阻まれることがあってはならないと思う。やはり医療費の赤字負担に耐えつつも平時所要に若干の余力を持った公的医療態勢を維持する必要性を、イタリアの現状が教えてくれているように思う。労働者の60%を公務員として経済破綻したギリシャ、財政再建のために姥捨て山を選択しなければならなかったイタリア。日本もその中間を模索することが求められていると思うが、今後の議論の一端に今回のパンデミックの要素を加えて欲しいものである。津波対策や地震対策で度々繰り返される「喉元過ぎれが熱さ忘れる」ことだけは無いように願いたい。