昨日は、ウクライナ侵攻という経験に学ぶ若しくは学ぼうとする賢者に触れた。
本日は、この経験に学べない事例を考えてみた。
第1はバイデン大統領である。安易な撤退でアフガンをタリバンに進呈するとともに友邦国の信頼を損ない、米国協力者をも見捨てるという人道過誤を犯したが、今回も判断と決断の遅れからウクライナをロシアに進上しようとしている。二つの事象に共通しているのは「友好国との協調重視」という言葉に隠された「アメリカ単独では矢面に立たない原理」である。この行動原理は、トランプ氏のアメリカ・ファーストを嫌う日本の識者も高く評価していたが、利害の入り組んだ国際社会では調整に時間を取られて、決定が「証文の出し遅れ」になってしまうことは避けられない。加盟国でないウクライナ支援に動くはずもないNATO軍とEUとの協調に期待した行動原理がロシアの暴走を許したのは間違いのないところである。ウクライナの核放棄に際して米英(後に仏も)が保全を約したブタベスト覚書の精神に立てば、ロシアが国境に大軍を終結させた時点で非難声明以上の明確かつ具体的メッセージを発出できたと思っている。トランプ氏は「プーチンは賢い。それ以上にバイデンは馬鹿だ」と酷評したが、政敵という面を割り引いても、トランプ氏の評価が正しく思える。
第2は立憲民主党である。維新が政府に対して「アメリカとの核シェアリング議論を進化させる」よう要求したことに対して、立民は「この時期に議論するのは相応しくない」と応じたが、憲法や核についての議論を忌避・先送りするのは何度目だろう。「非核3原則の逸脱議論には応じない」、「安倍政権下では憲法を議論しない」、「コロナ禍で憲法の緊急事態条項を云々するのは火事場泥棒」、「改正国民投票法の検証期間中は憲法を議論しない」、近年の記憶でもこれらのフレーズが繰り返され、旧社会党時代を含めれば「憲法・防衛(核)には触れない」が野党の信条となっている感が強い。
泉代表は「適当な防衛力の整備は必要であるが、核兵器で通常兵器は抑止できない」と正論を継いでいるが、しからば「何を・どの程度」との具体策はどこにも見出せない。立憲民主党が真剣に憲法と核を議論するためには更にどのような経験が必要なのだろうか。新聞の解説するところでは、泉代表の言は党内極左派閥の「サンクチュアリ」と「国のかたち研究会」に配慮した側面が大きいとされるが、コップまでも至らぬ御猪口の中の嵐のために国策に関する議論を回避・犠牲にするのは如何なものであろうか。
塩野七生氏のルネッサンス考のなかで、ある表現に接した。曰く「宗教は信じることを、哲学は疑うことを起点としている」というものであるが、預言者の一言半句も変えることなく時宜に応じた神学解釈で対応する宗教と、先人の結論を疑うことで発展する哲学の存在を、宗教を護憲派、哲学を改憲派と読み替えれば、日本国憲法に対する国民の選択に通じるものと解釈した。
憲法は、GHQのG2所属の左傾グループの原案に枝葉を付けたものであることは明らかとなっているが、護憲派にとっては大日如来の預言との位置付けであろうか。