ウクライナ危機に遭って、核シェアリングの是非に関する議論が活発である。
自分は「日本はイスラエル型の核兵器隠れ保有国」であるべきとの持論であるものの、非核3原則堅持が日本基準であることは理解しているが、本日は、それらに関するあれこれを書いみたい。
本朝のTV番組が、「核シェアリング議論を進めることの是非」に関するデータ投票を求めていた。賛否は拮抗若しくは反対意見が多いだろうとの思いで見ていたが、集計結果は案に相違して、賛成76%、反対19%、わからない5%であった。ある程度のポジションに在り発信ツールを持つ人が声高に叫ぶために、いつしか核兵器に関する議論は悪漢・悪魔の主張との風潮に彩られているが、声なき声の多くが「保有は別にしても議論はして欲しい」と切実に願っているように思った。もちろん、この数字は傍証の一つと捉えられるべきものであろうが、核議論=門前払いの図式は再考する必要があり、個人に対する根拠なき誹謗中傷さえ国会議員の免責特権に守られている現状からしても、国防の根幹に位置する核論議を国会で聖域視することは改められるべきと思う。
核論議を忌避する主張の枕詞に「唯一の被爆国として」があり傾聴には値するとしても、もし日本がこのまま2回目の被爆国となった場合について考えるならば。
・天国にいるヒロシマの被爆者は新たに天国に召された被爆死者に「私らだけで十分なのに同じ災難に遭うて!!。アンタら80年間も何しちょったん」と広島弁で問いかけるように思える。
・1000年後の歴史家・考古学者は日本国と日本人を、「何等の方策を講じることなく、同じ厄災を2度も被った学習能力のない怠惰な国・国民」と分類するに違いない。
銃規制に反対する全米ライフル協会の定型句は「銃が人を殺すのではない。人が人を殺す」である。人類が持ってしまった核兵器であるが、白人至上主義的傾向を持つトルーマン以外は使用していない。核兵器使用=人類の終末という概念が浸透して以降、強国の指導者は勿論、隣国との軋轢に悩むイスラエルやパキスタンの指導者ですら核を恫喝手段として使用しない理性と使用できないシビリアン(ポリティカル)・コントロール形態を保ち続けているが、ウクライナに対するロシアのように強国が狂国に変貌した場合には一挙に危うくなるもので、中朝も同じ道を進む可能性があると思っている。
現実的には日米の核シェリングは困難であると思うが、アメリカの核兵器がドイツ・スペイン・ディエゴ・ガルシア・日本に保管されているのは確実視されており、近い将来には米攻撃型原潜導入を決めたオーストラリアにも保管されることは確実で、さらにオーストラリアは原潜を機に核シェアリングに先鞭をつけることも予想される。