安倍氏の国葬参列者が、明らかになりつつある。
国葬の案内状が元職を含めて、国会議員2000名、三権の長30名、地方自治体関係者300人、等に発送されていることが報じられた。
受領された方々の反応は様々で、立憲民主党は執行部は不参加ながら議員は任意、共産党は不参加としているところが目ぼしいところであろうか。
聯合の吉野会長が参加を表明したことに対して、蓮舫議員に代表される論客・識者が「労働者の頂点に立っ者が、コロナ禍、物価高の労働者支援を政府に求める立場にも拘わらず、国葬に参加するのはおかしい」と合唱しており、ネット上にも同趣旨の意見が散見される。
葬儀欠席を強制するかの主張は非常識であるという点を別にしても、組合活動とは無縁に生きた自分としては、蓮舫議員を始めとする意見が良く理解できない。一体、彼らの云う労働者とは誰で・どの階層を指すのだろうか。
19世紀以前のように金持ちが会社を私有して雇用者を搾取した時代、レーニンが共産党国家を作り出した時代では、資本家と労働者の線引きは明確で、資本家は富み労働者は貧困にあえぐという図式はあったが、賃金労働者と雖も株式等に投資している現在では労働者でありながら資本家であるという状況も少なくない。このような資本家兼労働者は、組合の一方的な賃上げ要求やストによる生産活動阻害の行動には同調しないのではないだろうか。昭和30年代には総評主導でゼネストをちらつかしたり、民間を犠牲とした国労ストライキにも一定の理解が得られたが、現在では連合傘下の組合でも組織率が低下するとともに、会社が利益を挙げなければ配分も得られないとする「労使協調型の御用組合」も多いと聞いている。また、例え下級であっても管理者となれば、組合に加入できずに組合の庇護も得られないと聞いているので、下級管理者は労働者ではないのだろうか。
働いて生活費を稼ぐ人の価値観も多様化し一応の社会保障も整備された現在でも、管理者以外の働く人を一様に労働者と規定し、労働者は一丸となって雇用者・政府と対決すべきという硬直した階級闘争的思考は捨てなければならないのではないだろうか。事実、彼等の云う労働者が、挙って野党候補に投票していない現状が端的に示しているように思うのだが。
民主党大敗・解党の原因となった解散劇の主役である立民の野田佳彦議員(元総理)は政敵を悼むと参加表明し、日本人の葬送はかくあるべしと評価されている。
些か旧聞に属するが、国葬反対に沸く世論に対して、ジョウジア駐日大使が「安倍氏の実績を国葬に値しないとする日本の評価は国際感覚から外れている」とツイートした。駐在国においては自国の利害と無縁の治世・世論には触れないという慣習を破っての発言を見ても、今の日本はおかしいと思わざるを得ない。