雨の一日、自分のPC美術館をスライドショーで眺めていたら、伊藤若冲の大胆な構図に釘付けとなった。
この際にと、Wikipediaで伊藤若冲を調べてみた。
若冲は、1716(正徳6年:8代将軍吉宗の享保の改革ころ)年に京都・錦小路にあった青物問屋の長男として生まれ、父の死去に伴い23歳で家督を継いでいる。しかしながら、若冲は商売に熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかったとされている。40歳となった1755(宝暦5)年には、家督を弟に譲り早々と隠居して画業の途に進んでいる。
画業については、若冲の代名詞ともいえる「動植綵絵」を1758(宝暦8)年頃から描き始めたとされ、その外にも鹿苑(金閣)寺大書院障壁画や金刀比羅宮奥書院襖絵などの大作も描いているとされている。
世事に興味・関心を抱かなかったとされている若冲であるが、隠居後に町年寄を勤め実家の属する市場の危機に際しては再開に奔走するなどの事績も残されているとされているので、若冲は天才ではあっても、長男として家督を相続する等の社会性を有しており、何より町年寄に押されたことを見れば、常識人の一面を持っていたと推測できる。
若冲は、85歳の長寿を全うして1800(寛政12)年に亡くなっているが、73歳時の1788(天明8)年に天明の大火で自宅を焼失し窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけているとされるので、生前に高名を得ていた割には波乱の晩年と云えるかもしれない。
「若冲」の号は、禅の師から与えられたと推定される居士号とされているので画幅の落款としては使用されていないのように思える。記録によると、汝鈞、景和、春教と号したとされているが使用例はなく、斗米庵(とべいあん)、米斗翁、心遠館、錦街居士とも号すとなっているので、次に若冲を見る際には如何なる落款であるか見ようと思っている。
国宝「動植綵絵-雪中群鶏図(宮内庁三の丸尚蔵館)」
国宝「動植綵絵-紫陽花双鶏図(宮内庁三の丸尚蔵館)」