本日は、浅井忠の絵です。
九州の片田舎に生まれたが、流れ流れて都市圏の小都市に漂着して20年を超えてしまった。
しかしながら、未だに駅コンコースの人波をうまく泳げず、挙句に人混みに酔う自分を見つめると、つくずく田舎者だなァと思うことがしばしばである。
そんな気分を癒してくれるのが、浅井忠の作品である。
Wikipediaの記述を要約すると、浅井忠は1856(安政3)年に江戸の佐倉藩中屋敷で生まれ1907(明治40)年に亡くなっている。
1876(明治9)年に工部大学校(現:東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、卒業後は新聞画家として1894(明治27)年に日清戦争に従軍。1898(明治31)年に東京美術学校(現:東京藝術大学)の教授となる。1900年から2年間フランスに留学し、帰国後京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学)教授・教頭となっている。生涯を通じて安井曽太郎、梅原龍三郎等の後進の育成にも努力し、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であったとされている。
エピソードとして、正岡子規に西洋画を教えたこと、夏目漱石の小説「三四郎」の中に登場する深見画伯のモデルであるとも紹介されており、「吾輩ハ猫デアル」の単行本の挿画を他の2人とともに描いているそうである。
それにしても、日本洋画(油絵)揺籃期にあって、西欧風の模倣ではなく日本の原風景をモチーフとした浅井の精神性は称えるべきで、カタカナ語を駆使する某知事に見習って欲しいものである。
「春畝」(東京国立博物館蔵:重要文化財)
「藁屋根」(千葉県立美術館蔵)
「小丹波村」(三重県立美術館蔵)
「農夫とカラス」(石川県立美術館蔵)