昨今のテレビ等で、防衛予算の増額問題に関して面妖な発言を耳にする機会が増えた。
面妖と感じるのは、識者が使用する「防衛」という言葉の概念が不明なことと、外交と防衛を天秤に掛けて外交さえ確りすれば軍事力は等閑視できるとする2点である。
自分の思う防衛若しくは国防とは、単に軍事力を指す言葉ではなく、軍事力はもとより外交、経済はおろか芸術・文化までをも内包する、国家維持に対する政権・言論・国民の意思の総体であると考えているが、日本においては識者ですら「防衛=軍事力」と極めて狭義に解釈しているようで、そこから外交と防衛(軍事力)を天秤にかけるという発想が生まれうように思える。
外交に関していえば、先ず「相手国が交渉に応じる」ことが必要で、テーブルにすら付こうとしない国や、言葉の通じない(聞く耳持たぬ)国とは外交交渉はできない。また、外交カードと呼ばれるように、相手国も交渉によって得るものが無ければ外交交渉が破綻することは米朝交渉の顛末やウクライナ事変が示している。岩戸景気頃の日本が、国際社会である程度の発言権を得たことや韓国が平和条約締結に応じたことは、単に交渉術によるものではなく交渉団の背後にあった経済力による援助・借款によるものと思っている。
この構図は国際社会においては不変のもので、現在の中国が「元」による一帯一路構想、サプライチエーンの源流を握っていること、強大な軍事力によって、さらには孔子学院に代表される中華思想の伝播・在住華僑のロビー活動によって外交交渉を有利に行っていることは周知のとおりである。一方のアメリカにおいては友邦に核の傘を提供することで外交が成り立っている。
このように、外交交渉には相手に与えられる要素と相手国の無謀な要求を拒否できる要素が不可欠であって、日本国憲法の「平和理念」など外交交渉に際しては一文の値打ちも持たない以上に阻害要因であろうと考える。
現在の防衛力増強の真意は「相手国の無法な要求・恫喝に対して拒否できる外交カードの1枚を持とう」とするものであって、領海・領空内に限る射程しか持たない兵力整備であっては外交カードにはなり得ないのは明白である。確かに、大統領との大学同窓と云う紐帯によって日露戦争の戦時外債売却に成功したの金子賢太郎、日本の武力侵攻の不当性を訴えてアメリカの援蒋転舵を実現させた宋美齢夫人、開発国と同時にワクチン接種を始めたイスラエル、等のように、国の公式な外交カードに依らない個人または民族ネットワークによる外交的勝利もあるが、国家の命運を不確かな確率の手段に期待するのは、弘安の役における神風だけで十分であろう。
かって山本提督が真珠湾攻撃の出撃指揮官参集時に、「進行中の対米交渉が妥結した場合は、例え攻撃機発進直前であっても引き返せ。もし部下の暴発を抑えきれないと考える指揮官は直ちに更迭する」と訓示したとされているが、外交と軍事の関係を示す名言であると思う。
国防は自転車のようなもので、ペダルを漕いで後輪に推進力を与えるのは国民と国力、外交という前輪を操るのはハンドルを握る政府であって、軍事力は前輪と後輪が機能しなくなって倒れることを防ぐための補助輪でしかないと思う。軍事力を持たないで良しとするのは、倒れることはまずないであろうし、倒れても大怪我をしないだろうと過信する大人の傲慢であると思うが如何だろうか。