もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

防大卒業式と任官拒否に思う

2020年03月23日 | 防衛

 防大卒業式の模様と任官拒否者の存在が報じられた。

 今次の卒業生は417名、任官拒否者は35名であった。卒業式で安倍総理は、自衛官が高い士気を保ち得る環境整備のための憲法改正推進を説くとともに、卒業生に対しては日米紐帯の強化を求めるよう訓示したが、卒業生諸氏も多くの国民が望んでいるように精強自衛隊の指導者若しくは中核として成長することを期していると思う。一方、毎年出来する任官拒否者については、背景や実情を知らなかったのでネット上に残っている任官拒否者の主張を拾い読みした。その理由は雑多であるが、多くは自衛官に任官するよりも民間企業に就職する方が自分の才能を伸ばせる、又は、社会に貢献できるということに集約されるように感じられた。自分の能力や社会への適合性を把握できていない18歳高校生が軍学校に入校し自我を認識した結果の任官拒否と云えばある程度の説得力を持っているようであるが、拒否行動を美化し、正当化しようとする主張に思えてならない。任官拒否者の述懐には「2年生頃から任官拒否を決めて就活していた」とするものもあることから、彼等の多くは比較的早期に任官拒否の意思を固め、卒業資格を得ての任官拒否であることが推測できる。防衛大学校の名称が示すように、防大は準大学であり国連統計等では高卒者として扱われるが国内では大卒者として処遇されことから、彼らが真意を隠してでも防大卒の学歴が欲しがったことは容易に想像できる。現在、防大卒業時に任官拒否した者には250万円(ネット上で知り得た2012年資料)の返還金支払い、任官後の早期退職者については勤務年限に応じた減額返還金の支払いが定められているが、甘過ぎるように思える。学生一人当たりの教育経費を試算し、防大生よりも遥かに高額の軽費がかかっている大学が存在することを指摘して「いわゆる食い逃げ」には当たらないと主張する向きもあるが、そもそも防大が軍幹部養成を目的としているという趣旨に照らせば、軍幹部にならない学生を卒業させることは誤りであり、卒業式前日であろうとも任官拒否を表明した時点で公務員免職・退学させるべきであろうと考える。しかしながら、任官拒否者の中には学力・体力・団体生活不適合等の諸事情も考えられることから、3年生進級時点(概ね成年)で踏み絵を行い、その時点での任官拒否者は自主退学扱いとする程度の緩和策は許容できると思うが。

 軍とりわけ幹部に求められるのは、至高の忠誠心と無私の自己犠牲である。時代錯誤と呼ばるが、明日の日本と家族を含めた民族の安寧を信じて散華し、生還を度外視して敵艦に突入した軍人が存在したのは、歴史的にはつい昨日のことである。100年弱の期間を過ぎて忠誠心と無私の観念がない青年を、士官学校卒業生として世に送り出す不条理が不条理とされない現実は、任官拒否者以上に憂うべきであると思うが。


イタリアに明日の日本を見る

2020年03月22日 | コロナ

 イタリアが患者の選別を行わざるを得ない状態に陥っていることが報じられた。

 感染者4万7千人超、死者4千人超と死者数では中国を超えたイタリアでは、既に医療態勢の限界を超えていると観測されている。現地医療関係者の言として伝えられたものであるが、「倫理上正しいかどうかは別にして、蘇生措置は生存の可能性が高い患者を優先している」、「人工呼吸器を誰に装着されるかを決めなければならない。80歳以上で呼吸器に問題がある患者なら措置はしない。3つ以上の中枢機関に疾患がある場合の致死率100%」、「60代以上の患者には挿管しなくなった。人工呼吸器を必要とするすべての人に挿管できなくなったため若い人や他の病状のない人を選択して挿管する。」と悲痛なものである。国や医療機関はそうした事実を公的には否定しているが、他の国に比べて致死率が異常に高いことは、統計方法の違いを考慮してもその辺の事情を窺い知るに十分であろう。治療の優先順を決めるトリアージの一般原則では「緊急度」を優先するが、野戦病院では「以後の戦闘に対する必要性」を最重視するとされている。現在のイタリアは野戦病院的に、年齢での足切りや以後の生産活動に意義を持つ患者を優先する「姥捨て思考」を余儀なくされているのではなかろうかと推測する。イタリアの医療制度・態勢はそれほど脆弱なのかと調べてみた。イタリアは国民皆保険制で医療費は無料若しくは格安で、2000年のWHO調査ではフランスに次いで世界第2位と評価されているが、その後の財政緊縮策の一環として医療費削減のために多くの医療機関を統廃合・民営化して医療従事者を削減してきたために余力がない状態であったとされ、ある資料では治療(手術)を受けるための待ち時間は数週間~数か月とされている。このように、主として財政的な理由から平時の所要を満たせば十分とした医療態勢が、急激な所要拡大(患者の殺到)に応じられるべくもなく、日本に次いで世界第2位の長寿国であるイタリアが先進国としては異例の弱者を見捨てざるを得ない状態を作り出しているのは明白である。日本でも、広域医療体制整備と称して過疎地域の公的医療機関を廃止して都市部の拠点機関に集約する施策が進められ、病床利用率の低い公的病院の廃止が提唱されているが、有事に対応できないイタリアを目指す医療改革ではないだろうかと危惧する。また、財政再建の切り札とされる公的機関の民営化であるが、採算重視の民間医療企業では金になる若しくは金を払える患者を優遇することは避けられず、医療格差が拡大し生命・余命を金で贖うことが要求されることにもなりかねない。

 既に才能と社会貢献度の限界を自覚している自分は高額の医療費を払ってまで余命延長を購入する気はないが、無限の可能性を秘めた幼児や若年者が医療の壁に阻まれることがあってはならないと思う。やはり医療費の赤字負担に耐えつつも平時所要に若干の余力を持った公的医療態勢を維持する必要性を、イタリアの現状が教えてくれているように思う。労働者の60%を公務員として経済破綻したギリシャ、財政再建のために姥捨て山を選択しなければならなかったイタリア。日本もその中間を模索することが求められていると思うが、今後の議論の一端に今回のパンデミックの要素を加えて欲しいものである。津波対策や地震対策で度々繰り返される「喉元過ぎれが熱さ忘れる」ことだけは無いように願いたい。

 

 


兵庫・大阪の県境往来自粛に思う

2020年03月21日 | コロナ

 大阪府知事が3連休期間中、兵庫県との往来自粛を要請したことが波紋を広げている。

 大阪府知事の主張は「大阪・兵庫の両府県で見えないクラスター連鎖と感染源の不明な症例が増加し、特に兵庫県では1人の感染者が平均して他人にうつす人数が1を超えていることからオーバー・シュートを防止するため」と明快である。一方の兵庫県知事は「大阪の状況も同じであるのに、事前の相談もなく矛先を兵庫に向けるのか?」となにやら歯切れが悪い。両者を比べてみると、「果断の大阪府知事(45歳)」「従来の根回し拘泥の兵庫県知事(75歳)」と見ることも可能で、この自粛(県境封鎖)が完全に行われたとしても効果があったか否かは新型肺炎終息後の検証に待たねばならないが、対処要領が確立されていない新たな事象について「考えられることは全てやろう」という姿勢と、「石橋を叩いても渡るまい」という両首長の政治手法のせめぎ合いと見ている。両府県の都市部は生活圏が融合しているために、完全な実施は困難であろうと思うものの、武力を以て武漢を封鎖した中国、州兵を配置して州間移動を禁止しているアメリカ、人気の消えたパリ・ローマの映像を見るかぎりでは、まだまだ日本の封鎖・人的移動の禁止は甘すぎるように感じられる。イベントや集会の自粛を主催者に判断させるとした政府と専門家会議の決定を”丸投げ”と批判する向きが多いように感じられるが、そう主張する人々は政府が強権を以て禁止することを求めているのだろうかと不審に思う。外出禁止令や店舗の閉鎖を実施している国には、公権力による私権制限と違反者に対する罰則が定められているために禁止・強制が可能であるが、私権制限ができない日本では主催者の判断に任せることしかできないと思う。若し政府が禁止としたところで、罰則がないために横紙破りする人間(主催者)は必ず出現するだろう。

 大正デモクラシー時の1913(大正13)年に渡仏した藤田嗣治は、個人を賛美・謳歌する周囲の芸術家たちが、翌年に勃発した第一次世界大戦に際して躊躇なく入営する姿に驚愕したと云われる。そこには国策が私権を制限することは当然と考える思想が定着しているものと考えれば、国民が食糧品店と薬局以外の営業禁止や外出禁止令を冷静かつ必然と受け入れていることが理解できる。私権は国家が存在・承認することで成立するもので、国家が破綻すれば私権も失われるという当然の理論に立っているものと思う。対外戦争や内戦で領土内が戦場となり、国家と私権が一夜にして吹き飛んだ経験は殆どの国が持っており、そのような事態を長らく経験していないのは、西南戦争を最後とする日本と南北戦争を最後とするアメリカくらいであるが、アメリカは軍人の生命(最高の私権)を犠牲にしてでも国策を遂行する意思を持ち続けている。日本は私権が国家に超越するという幻想を持ち続けている唯一の国では?と考えるものである。

 


オーム真理教の今を学ぶ

2020年03月19日 | 社会・政治問題

 オーム真理教が起こした松本・地下鉄サリン事件から25年が経過した。

 その後オーム真理教は、主流派(Aleph((アレフ)、山田らの集団、ケロヨンクラブ)と上祐派(ひかりの輪)に分かれて活動を継続しており、各教団を合わせた2016年データでは信者数は1650人、資産額7億円とされている。また、教団は15都道府県に35の施設を保有しており、活発な活動によって毎年100人前後の信者を新たに獲する等信者数及び資産額ともに右肩上がりの漸増傾向にありながら責務を負わされた被害者補償は漸減しているとされている。公安調査庁は、前述のオーム真理教の後継教団に対して「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法」に基づく観察処分を継続しているが、勢力の拡大防止には至っていないのみならず、刑死した麻原彰晃の誕生日や死刑執行日(命日)の7月6日には、刑場である東京拘置所周辺での祈祷や集会も顕在化し往時の公然活動に戻ったともされている。不確かな情報であるが、信者の学歴は大卒 37.8%、短大卒 7.0%、専門学校卒 16.7%、高卒 25.2%とされ、一般社会以上に高学歴の構成となっている。入信動機も麻原の「本を読んで」や「教義に共感して」と積極的・自発的入信とするものが、従来の新興宗教に見られる「勧誘されて入信」という消極派を上回っているようである。高学歴の積極入信者が狂信的かつ行動的であることはサリン事件のみならずイスラム原理主義指導者が起こすテロにも共通するもので、オーム真理教後継教団もかっての狂信テロ教団に変質する可能性が拭えないように思える。国際的に日本は、1975年のクアラルンプール事件でテロ犯坂東国男らを超法規的措置で釈放したことによってテロ犯人に甘い国とされ、松本・地下鉄サリン事件を起こしたオーム真理教に破防法を適用して教団の解散を命じなかったことによって国内のテロ組織を容認・温存・庇護する国と認知されてきた。信教の自由、解散させれば被害者補償が困難になる、過去に適用した団体がない、等の的外れで退嬰的な理由で教団に対する破防法適用を見送った公安委員会とそれを支持したメディアは信者・資産の漸増と補償の漸減という現実をどのように見ているのだろうか。

 中曽根康弘元総理は、折に触れて「政治家は後世の被告席に立つ覚悟を持たねばならない」と述べていたが、もしオーム真理教の後継教団が尖鋭化してサリン事件と同様のテロ行為を行ったとしても、被告席に立つべき当時の国家公安委員長や公安委員の名前すら知らない。現在のオーム真理教の蠢動は、司法と行政の事なかれ主義が責任を後世に押し付ける結果しか残さないことを物語っていることを教えているように思う。伝家の宝刀も「抜いてこそ価値」を発揮するもので、抜かなければ折角の宝刀も宝の持ち腐れとなり、長年さやの中に放置していれば、抜いた時には時代遅れの鈍ら刀と化しているかも知れない。

 


新コロナウィルスの感染者統計に思う

2020年03月17日 | コロナ

 新コロナウィルス感染者等の国別統計をよく目にする。

 報道される感染者や死者数は絶対値で報道されることが多いが、人口の多寡が考慮されていないのであまり意味が無いのではと考える。人口1万人当たりの感染者数を試算(素人の概算)すると、イタリア(4.1人)、イラン(1.7人)、スペイン・韓国(1.6人)、フランス・ドイツ(0.8人)、中国0.6人、日本・アメリカ(0.1人)となる。学術的に感染危険率を算出するためには更に人口密度や都市への人口集中度などの要因が加味される必要があると思うが、失敗したとされる日本の水際防御は予想以上に機能していたことになる。クルーズ船対処や学校閉鎖等の措置を冷ややかに報じていた欧米が、相次いで非常事態を宣言して国境閉鎖、商業活動禁止、学校閉鎖、外出禁止等に大童で、ダイヤモンド・プリンセスの防疫を失敗と捉えていたアメリカも、グランド・プリンセス号に起因する感染拡大に苦慮しているのは皮肉である。遅ればせながら諸外国からの訪日者を局限して保菌者の流入を断ち得た日本は、国内感染を断ち切るべくクラスターの特定に努めて蔓延連鎖の根絶を目指している状況で、今こそ国民の結束と自重が求められる時期にも関わらず一部の自治体で学校再開等が始まったのはいかがなものであろうか。改正新型インフルエンザ等対策特別措置法での緊急事態宣言を見送った政府もさることながら、自治体内に感染者がいない(発見されていないだけと思うが)ことを理由にしての足並みの乱れは、一部の首長の「木を見て山を見ない所業」と云うべきではと懸念する。群馬県太田市が政府の意向を無視して学校閉鎖に応じなかったが、感染者の発生を受けて急遽閉鎖したことは記憶に新しい。憲法に緊急条項を持つEU諸国はこぞって非常事態を宣言して、国家が公権力を以て個人の人権と自由を制限しているが、政府が要請しかできない日本、果たしてどちらが公共の福祉に力を発揮できるのだろうかと考えざるを得ない。

 冒頭に書いた単位人口当たりの感染者数が識者や指導者で取り沙汰されないのは、「なんだ。この程度か」との安易な考えを防ぐ意図があるのだろう。致死率は年代や基礎疾患の有無によって大きく異なるが、乱暴(過大)に2%と仮定しても百万人に2人しか死なないことになる。こうなると宝くじの1等当選確率と大差ないと思うが、宝くじと大きく異なるのは買わない・買いたくない人にも公平に感染機会があることである。さりながら、このような冷めた・投げやりな考えは隣人に迷惑を掛ける危険性が大きいので、御上の御意向を純朴に守ってつつましく生活しようと思うところである。