ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

あえて失敗の機会を奨める

2008年11月02日 01時02分27秒 | 障害者の自立
 補足の文章である。枝本さんは前に書かれた「<働く>ということ」(同『あいどる』第94号、2007年04月発行、私のこのページでは「2007.06.12 働くことの社会的つながりを重視」として転載した)の最後の方について、より詳細に、ご自身が考えられたことを述べていらっしゃる。このたびの文章も社会福祉法人路交館が編集・発行している『あいどる』(第96号、2007年08月発行)の巻頭文章である。館長の枝本信一郎さんによる「<無駄使いをすること>もしくは<失敗をすること>と<夢をもつこと>」と題した文章を、執筆者の承諾をえたので、ここに転載する。また、いつものように、中見だしをつけ、私のコメントも付け加えた。まず、前々回の文章に続いている。

■ 自分が思われたことに強引に結びつけた反省
 前々号(『あいどる』第94号、2007年04月発行、上に掲げた文章・大谷)の最後のほうで、(働いて稼いだ・枝本原注)お金を使うことに、「ゆめ」を感じることが少ない。・・・お金を使うことに「ゆめ」を感じにくいのは、無駄使いの経験があまりにも少ないからではなかろうか、という趣旨のことを書いた。

 このことについて、分かりにくいとのご批判をいただいた。紙数がつきかけたところで、強引に思うところを書き付けてしまったので、余計に分かりにくい文章になってしまったのだと思う。

■ 知的障害者は失敗をさせてもらえない立場にある
 このように書いた背景には、「知的障害者は失敗をさせてもらえない立場に貶められている」との、筆者(枝本)の日頃からの思いがある。人たるもの、常に失敗しないように指導・援助・支援され続けてきたら、決して失敗できないと思いこみ、必要以上に失敗を恐れるようになるのではなかろうか。が、失敗を恐れては何事にもチャレンジできない。

 「失敗は成功の母」の言葉を引用するまでもなく、失敗することは、一方では、成功すること以上に有意義なものだとさえいえるのだろう。もちろんこれも、失敗に落ち込み立ち上がれなくならない限にではあるが、そんな事柄にならないためにも、失敗の経験が不可欠である。

 ところが知的障害者の場合、なかなか失敗させてもらえないために、何か自分から試みたことで失敗すると、大きく落ち込んでしまい、やはり自分で決めたらダメだ。「先生」や親の言うとおりにしたほうがよいと思い込むようになり、また、周りの「先生」や親たちさえ、そう思うようにしむける。

 障害者が自分の人生を自分で生きることを考えると、絶望的な状況である。

■ 無駄使いの大切さ
 「無駄遣いをすること」も同様である。昔の見世物小屋のようなものを別にすると(筆者にとっての親の目を盗んで入ったのが無駄遣いの原体験なのだが、後での失望感もそうだが、入るときのワクワク感も忘れられない思い出である・枝本原注)。多くの場合、Aという商品を買った後、もっともっと欲しいBという商品を見付けたときに、あれは無駄遣いだったのだと気付く。

 要するに、(1)自分の財布の中身をそこそこ知っていて、それを自分自身で管理していることと、(2)A商品を買ったこととB商品を買うだけの財布の中身がないこととの因果関係を、時間の流れの中で把握する力量が求められる。その意味では、かなり高度な課題ともいえる。

 が、就職を考え、そこでお金をかせぐと考える以上、このような無駄使いの経験を積み重ねて欲しいと切実に願うのである。

■ それなりの計画性を無駄使いの経験から育む
 お金を使うことへの「ゆめ」は、それを単なる夢物語に終わらせないためにも、それなりの計画性が必要であり、そのような計画性は、無駄使いの経験の中からしか育たないと感じているのである。

 付言すると、お金を使うことに対する計画性について、少なくとも個人のそれについては、筆者自身全く自信がない。だから「それなりの計画性」としたのだが、これは数理的というよりむしろ感覚的な領域に属する計画性なのだと思う。数理的に計画だてられたものは「ゆめ」とは呼びようがないからである。

 以上が枝本さんの巻頭文章の全てである。以下が私の感じたことである。

■ 無駄使いと表現した枝本さんのすてきさ――大谷のコメント(1)
 失敗という言葉は、使われている。枝本さんは「無駄使い(あるいは無駄遣い)」とも表現されている。考えてみると、お金だから無駄遣いだ。この表現には、枝本さんがこれまで、いろいろな人と付き合ってこられた蓄積がある。

 私も失敗という表現をしたことがあるが、これまで「無駄遣い」はなかった。介護保険でしきりに「自立支援」が言われるが、同時に介護施設で事故も発生しやすい。自立することは、なんらかの拍子に、倒れる危険性もあることも意味する。

 ベッドに寝たきり状態にするか、車イスに縛り付けておくと、安心・安全だろう。もっとも、その場合は、主に介護する人々や周囲の人にとっての安全というか、安心を意味する。本人は行きたいところに行けなくて、自分が思うように自由な行動ができなくて、悔しい思いのはずだ。

 あるいは、障害者施設(とくに知的障害者の施設など)では、高い塀や鍵もある。突然、外に飛び出たら大変でしょうというのが、家族の意見を代表した施設側の言い分だった。でも、そうした施設でも、当時の言葉で入所者の「無外」(無断外出)があったという。入所者も、したたかやなと思う。今にしておもうと、高い壁やフェンスがしっかりして、しかも鍵もかかっていたから、外にでようとしたともいえる。やはり、施設への長期入所ではなく、地域生活が基本だと思う。

■ まず、本人に直接に賃金・工賃を渡すことからの出発――大谷のコメント(2)
 無駄使いの大切さの項目に関して、自分の財布の中身を知っていることが指摘されている。まったく枝本さんの書いているとおりである。

 障害者については、今時、まさかとは思う内容の話がある。それは、本人が働いた賃金・給料や工賃(いわゆる「福祉的就労」の場合は、賃金とは言わない場合が多い)を、本人に直接に手渡さないという。施設側や親の意見によると、本人が浪費してしまうから、節約するようにさせるためという。小遣いとして毎週渡すとか、行事がある場合は、その費用を出してやるという。どうも善意で行なっているようだ。

 これでは、障害者も自分で財布の中身を管理することはできない。ましてや、無駄遣いは認められない。無駄遣いをしないようにという目的で他人が管理を行なっているのであるから。障害者自身が自分の財布や持ち物を管理する環境にないのだ。ましてや無駄遣いなど、認められないだろう。親や施設側・教育側のスタッフは、しきりに「自立支援」という。でも、自立していく経験さえ、奪われているのだ。

■ 失敗しても、再度チャレンジするために――大谷のコメント(3)
 チャレンジということばで2つのことを思い出した。1つは、野球の場合からの連想だ。たとえば、プロ野球で「3割バッター」というと、すごく打撃に秀でた選手と思う。アメリカの大リーグで活躍しているイチロー選手は4割バッターだという。凄い選手らしい。でも打率4割としても10回バッターボックスに立って、6回はアウトになっている。4割というが、ヒットのうち内野安打や相手選手の判断ミスも含まれよう。

 最初の打撃が回ってきたときにアウトになっても、イチローだと、次ぎのチャンスにはヒットを打つはずだ、なぜなら彼は4割バッターだから、と観客も期待するだろう。ところが、障害者が打順に立つ。1度アウトになり失敗したでけで、選手交替させられるだろう。

 やはり、障害者だからダメだとブーイングの嵐だろう。あるいは、バッターボックスに立つことさえ許されない障害者という表現をしたこともある。次ぎの機会を期待されている人と、まったく期待されていない人。ここでは予断や偏見(期待ともいえる)が支配している。

 私は北欧社会を引き合いに出して、1度失敗した人が再チャレンジするためにセーフティネット(社会的安全網)があるという話もする。セーフティネットは1度落ちた人でも、よじ登ってもう1度やり直す。ところが、ややもすると、ハンモックに変身して居眠りしている人もいるという意見もある。安楽だからという。だから、トランポリンで使う用具のような、ジャンピング・ネットが必要だという見方もある。

 最近の財政の肥大化と人々の福祉依存を取り止めるために、セーフティネットと就労支援がセットになった政策に切り替わった。福祉政策から雇用政策への重点移行というか福祉財源を圧縮する強化手段だ。

 だからといって、福祉政策を利用する人が、福祉に頼りすぎて怠惰になっているという考え方一辺倒では、現実と乖離する。福祉政策を利用している人も、懸命に生きようとしているのだから(この辺りは、同じ『あいどる』に掲載された岡戸さんの文章参照。私も「2007.08.12 一人一人が気持ちよく暮らすために福祉施策を拡大」として転載させていただいた)。

■ ゆめを持ちたい――大谷のコメント(4)
 枝本さんも「ゆめ」を語っている。私が思うに、関西では「ゆめ」と表現する場合が多い。10年以上前に発生した阪神・淡路大震災をきっかけにはじまった「NPO法人 ゆめ風基金」をはじめ、Tシャツ、カレンダーなどの通信販売を行なっている「ゆめ本社」も元気である。 あるいは、河野秀忠さんが書いた『障害者市民ものがたり』(NHK出版、2007年)には書名では使われていないが、本書の中には「ゆめのまたゆめ」という章がある。その他も見かけたことがある。いたるところに「ゆめ」が使われている。

 枝本さんの文章に沿うと、障害者は「ゆめ」さえも奪われてきたことを示す。障害者が当たり前に社会で暮らしていくには、ゆめが大切だ。障害者差別からの解放とは、ゆめだろうか。枝本さんが最後にお書きになっている数理的と感覚的との違いも含めて、考えてみたい。

 数理的に計画だてられたものは、もはや「ゆめ」ではないという表現に、私は救われた思いがする。いろいろな多様な要素(あるいは臭みやゆがみ)を持ち合わせている人間の暮らしと社会を、創っていこう、と。

障害者自立支援法:全国一斉提訴 秋保さん夫妻、負担増や違法性訴え /広島

2008年11月02日 00時57分32秒 | 障害者の自立
 ◇広島地裁に提訴の秋保さん夫妻
 「普通の暮らしをしたい」--。障害者自立支援法は憲法違反だとして全国で障害者らが一斉提訴した31日、広島地裁に提訴した原告の秋保和徳、喜美子夫妻(廿日市市)と弁護団が広島弁護士会館(中区)で会見した。夫妻らは同法による負担増や違法性を訴えた。

 電動車いすで会見に臨んだ夫の和徳さん(57)と妻の喜美子さん(59)は、普段は廿日市市串戸5の「くさのみ作業所」に通う。夫妻の月収は、法律施行前も後も約22万円。しかし、障害者自立支援法の施行で負担だけは増えた。現在の支出は食費や交通費、水道光熱費などで月に21万円程度。また、作業所にも施設利用料を払わねばならなくなった。楽しみだった年1度のささやかな旅行も行けなくなった。旅行には付添人の宿泊料なども掛かり、障害のない人の旅行に比べ費用がかさむからだ。

 和徳さんは「障害者自立支援法の一番の問題点は『応益負担』にある」と指摘。入浴や食事、排せつなど「人間として当たり前の生活のために必要な支援の利用を“益”として負担を課す法律を認めるわけにいかない」と訴えた。

 弁護団の紅山綾香弁護士は「バリアフリーにするためのバリアをとる義務は社会にある。障害者が負担する必要はない」と話した。【

障害者支援法全国一斉提訴 「改正実現まで闘う」 大津で会見 県内原告ら窮状訴え

2008年11月02日 00時55分06秒 | 障害者の自立
 「悪法の下、子どもたちを置いて先に死ねない」。障害者が福祉サービスの利用料の原則1割を負担しなくてはならない「障害者自立支援法」をめぐり、各地の障害者が国などに介護給付費の一部負担の決定取り消しなどを求めて一斉提訴した31日、大津訴訟の原告や家族らは滋賀弁護士会館(大津市)で記者会見を開き、窮状を訴えた。

 原告は、県内に在住する28~45歳の男女4人。訴状では、同法に基づいて一部負担が決定した月1500~7033円を上限とする介護給付費の負担決定を取り消すとともに、障害福祉サービスに必要な費用の全額を支給することなどを求めている。

 原告の一人、中谷茂彰さん(45)(東近江市)は、東近江市内の知的障害者施設で牛乳パックの紙すき作業をして生活している。収入は作業代3700円や障害基礎年金などを含め、月約8万8000円。これまで半額程度を社会福祉費負担金に充て、残りは貯金や趣味の音楽鑑賞に使っていたが、法施行後、施設使用料7033円などを支払わなければならなくなり、負担が6割増したという。

 記者会見に臨んだ茂彰さんの母・敏子さん(68)は「国に助けてもらわなければ、障害者たちは生きていけない。法改正が実現するまで闘いたい」と力を込めた。

 障害者自立支援法は2006年施行。福祉サービスの主体を市町村に一元化することなどを定めたが、サービスを利用すればするほど負担額が増える「応益制度」が問題となっている。


障害者自立支援法:新法求めデモ--東京・日比谷公園

2008年11月02日 00時53分09秒 | 障害者の自立
 障害者施策の抜本改革を求める障害者らが31日、東京都千代田区の日比谷公園で「もうやめようよ!障害者自立支援法 全国大フォーラム」を開いた。約6000人が新たな法制度の確立を訴え、集会後に国会と東京駅周辺までデモ行進した。

 自立支援法は、この日が成立から3年。3年後の見直し規定があり、厚生労働省の審議会が論点整理を進めている。フォーラムでは、熊本市の授産施設で働く秋山雄次さんが「障害者だけ1割の利用料を払わされるのはおかしい」と制度を批判。子供の発達相談に長く携わる京都市の池添素さんは、障害児家庭が重い自己負担に苦しめられている実態を紹介し「障害児の権利は、自立支援法の枠組みの外で守るべきだ」と訴えた。【