施設や病院から地域で暮らす。障害者市民にとって大事なことである。ぜひ実現してほしい。地域で暮らすための支援が必要だ。ごく最近、届いた通信を読んでいて気づいた点である。
■ エコロジーの進展と障害者市民
気になった記事には次の文章がある。北海道札幌市で編集・発行されている『児地蔵通信』(北海道在宅福祉協議会、第93号、2006年11月号、電話011-532-9853))の「みちすがら便り」の中である。ここで「みちすがら」とは同組織が運営している札幌市小規模授産処の名称である。一般には障害者市民が通う小規模作業所である。
久保田千晶さんという筆者名が記載してある。前文で、定山渓で行われた「ぐる~りエコ収穫祭」のイベントに参加したことが書かれており、その後半の文章は「今後、当たり前にもらっていたレジ袋や当たり前に捨てていたゴミの有料化が進んだとき、新しい事を受け入れることが苦手な方々にとっては、大きな戸惑いになるでしょう。お金を払わない、払えない・・・ゆえに、ゴミをため込んだり、ルールが守られないことでトラブルになったりと、大きく混乱しないようにそれぞれが関心を持ち、普段から<リサイクル>について、話し合ったり勉強したり、わかりやすいことから意識的に実践していくことが必要かなと・・・思いました」とある。
たしかに、エコロジーは大切なことである。ところが、そのことが求める日常生活上のこまごまとしたことに不慣れな人たちがいる。ちゃんとできないことが原因になって、地域から排除される。そこまではいかないとしても、隣近所と歩調が合わないことは、容易に想定できる。
■ ちょっとした戸惑いが、地域生活を妨げる
入所施設や病院から地域への流れが、顕著になっている。好ましいことである。障害を理由に施設や病院に、長期に隔離してきたこれまでの政策に問題がある。地域の日常生活の中でエコロジーが進むことも、歓迎すべきことである。
ところが、歓迎すべきことが障害者市民にとっては、地域生活を送る上で壁になりうる。困ったことである。もちろん、地域によって異なるゴミの出し方や分別の仕方は、だれにとっても戸惑うことである。ところが、障害者市民の場合は、その戸惑いがあることによって、障害者市民が地域で暮らすことを、あるいは隣人として付き合うことを拒否する理由になりうる。
なんとも、気が重いことである。多少の間違いはお互いに「まぁ慣れるまでは仕方ないよね」と認め合えば、済むことである。ところが、障害者市民の場合、一度間違うと、排除の理由になる。企業で働く場合も、障害者市民の一度のミスが離職につながる。プロ野球での3割バッターは少なくとも10回打席に立ったうち、7回はアウト(三振か凡打)になっている。ところが、3割バッターはぬきんでて優秀だと言われ、次回こそ打つと期待される。
なぜ障害者市民は一度の凡打・アウトで退場を余儀なくされるのか?多分、障害者市民への日常の見方が、凡打を認めない構造になっているからだろう。札幌でいえば、日本ハム球団の新庄選手と比べて見るとわかりやすい。
■ でも日常生活でのちょっと知恵をアドバイスする
とはいえ、障害者市民が当たり前の住まいで、日常生活を送るためには、ゴミの出し方についてもアドバイスが必要だろう。スーパーに買物にいったときのレジ袋の扱いや、ゴミを分別して的確に出す方法も、伝える必要がある。
ケアマネジャーがよくこぼす愚痴に、要介護の高齢者市民や障害者市民は、ゴミを自宅にため込んでいて、臭いがするという発言がある。近所から苦情が寄せられる場合も多い。そうした一こまの出来事が、そうした人々を日常生活から入所施設や病院に追いやる結果になる。
私が知っている病院のワーカーは、長期入院をしていた元患者さんたちに、近所との付き合い方の教室を開いている。留守の場合の荷物の受け取り方や回覧板の回し方、集合住宅でのゴミ当番のやり方、共有施設の掃除の仕方など、こまごまとしたことがらである。日常生活を営んでいるうちに身に付くはずのこうしたちょっとしたことが、障害者市民にとっては実は排除の理由になりうることがあるからであろう。多くの人は、暮らしているうちに慣れてきて、なんとはなくこなしていくはずである。
しかし、あえて、障害者市民には教えなくてはならないと、ワーカーは考えている。たしかにそうしないと、普通に住まうことさえできないのが現状だ。障害者市民が困難な問題を抱えているのでもなければ、ワーカーが取り越し苦労をしているのでもない。地域で暮らしている普通の人々が、障害者市民を排除するのだ。
■ 近隣の人たちが支えあえば解決できるはず
かつて、介護保険制度がスタートした時期に、ケアマネジャーが困っていた事例がある。在宅の要介護高齢者が草取りを求めるという。ヘルパーにそれを依頼したところ、マスコミや行政は、草取りまでは過剰サービスだと批判的だった。ケアマネジャーは利用者である要介護高齢者と行政・マスコミのハザマにたって、困り果てていた。
しかし、地域で暮らすには、庭が草ぼうぼうで放置していれば、近隣から批判が寄せられる。害虫も発生するし衛生状態・住まいの環境が悪くなる。ちゃんと草取りをすべきだという近隣の人々の要望も分かる。しかし、要介護高齢者は自分では草取りができない。そこで、ヘルパーに頼むことをケアマネジャーに希望する。
障害者市民のゴミだしについても同じ構造であろう。住むからにはルールを守るべきだと主張する近隣の人々も、悪気があるわけではないだろう。障害者市民を排除する積極的意図はないと思う。
とすると、近隣の人々がちょっと手を出し合って、解決する方法を考えたらどうだろう。リサイクルは大事だ。理解してほしいのはもっともだ。とともに、ルールを一度くらい守れない人がいても、なんとか対応できる地域社会にしたい。そうした柔軟な付き合いが、だれをも排除しない社会を創るはずだ。
■ エコロジーの進展と障害者市民
気になった記事には次の文章がある。北海道札幌市で編集・発行されている『児地蔵通信』(北海道在宅福祉協議会、第93号、2006年11月号、電話011-532-9853))の「みちすがら便り」の中である。ここで「みちすがら」とは同組織が運営している札幌市小規模授産処の名称である。一般には障害者市民が通う小規模作業所である。
久保田千晶さんという筆者名が記載してある。前文で、定山渓で行われた「ぐる~りエコ収穫祭」のイベントに参加したことが書かれており、その後半の文章は「今後、当たり前にもらっていたレジ袋や当たり前に捨てていたゴミの有料化が進んだとき、新しい事を受け入れることが苦手な方々にとっては、大きな戸惑いになるでしょう。お金を払わない、払えない・・・ゆえに、ゴミをため込んだり、ルールが守られないことでトラブルになったりと、大きく混乱しないようにそれぞれが関心を持ち、普段から<リサイクル>について、話し合ったり勉強したり、わかりやすいことから意識的に実践していくことが必要かなと・・・思いました」とある。
たしかに、エコロジーは大切なことである。ところが、そのことが求める日常生活上のこまごまとしたことに不慣れな人たちがいる。ちゃんとできないことが原因になって、地域から排除される。そこまではいかないとしても、隣近所と歩調が合わないことは、容易に想定できる。
■ ちょっとした戸惑いが、地域生活を妨げる
入所施設や病院から地域への流れが、顕著になっている。好ましいことである。障害を理由に施設や病院に、長期に隔離してきたこれまでの政策に問題がある。地域の日常生活の中でエコロジーが進むことも、歓迎すべきことである。
ところが、歓迎すべきことが障害者市民にとっては、地域生活を送る上で壁になりうる。困ったことである。もちろん、地域によって異なるゴミの出し方や分別の仕方は、だれにとっても戸惑うことである。ところが、障害者市民の場合は、その戸惑いがあることによって、障害者市民が地域で暮らすことを、あるいは隣人として付き合うことを拒否する理由になりうる。
なんとも、気が重いことである。多少の間違いはお互いに「まぁ慣れるまでは仕方ないよね」と認め合えば、済むことである。ところが、障害者市民の場合、一度間違うと、排除の理由になる。企業で働く場合も、障害者市民の一度のミスが離職につながる。プロ野球での3割バッターは少なくとも10回打席に立ったうち、7回はアウト(三振か凡打)になっている。ところが、3割バッターはぬきんでて優秀だと言われ、次回こそ打つと期待される。
なぜ障害者市民は一度の凡打・アウトで退場を余儀なくされるのか?多分、障害者市民への日常の見方が、凡打を認めない構造になっているからだろう。札幌でいえば、日本ハム球団の新庄選手と比べて見るとわかりやすい。
■ でも日常生活でのちょっと知恵をアドバイスする
とはいえ、障害者市民が当たり前の住まいで、日常生活を送るためには、ゴミの出し方についてもアドバイスが必要だろう。スーパーに買物にいったときのレジ袋の扱いや、ゴミを分別して的確に出す方法も、伝える必要がある。
ケアマネジャーがよくこぼす愚痴に、要介護の高齢者市民や障害者市民は、ゴミを自宅にため込んでいて、臭いがするという発言がある。近所から苦情が寄せられる場合も多い。そうした一こまの出来事が、そうした人々を日常生活から入所施設や病院に追いやる結果になる。
私が知っている病院のワーカーは、長期入院をしていた元患者さんたちに、近所との付き合い方の教室を開いている。留守の場合の荷物の受け取り方や回覧板の回し方、集合住宅でのゴミ当番のやり方、共有施設の掃除の仕方など、こまごまとしたことがらである。日常生活を営んでいるうちに身に付くはずのこうしたちょっとしたことが、障害者市民にとっては実は排除の理由になりうることがあるからであろう。多くの人は、暮らしているうちに慣れてきて、なんとはなくこなしていくはずである。
しかし、あえて、障害者市民には教えなくてはならないと、ワーカーは考えている。たしかにそうしないと、普通に住まうことさえできないのが現状だ。障害者市民が困難な問題を抱えているのでもなければ、ワーカーが取り越し苦労をしているのでもない。地域で暮らしている普通の人々が、障害者市民を排除するのだ。
■ 近隣の人たちが支えあえば解決できるはず
かつて、介護保険制度がスタートした時期に、ケアマネジャーが困っていた事例がある。在宅の要介護高齢者が草取りを求めるという。ヘルパーにそれを依頼したところ、マスコミや行政は、草取りまでは過剰サービスだと批判的だった。ケアマネジャーは利用者である要介護高齢者と行政・マスコミのハザマにたって、困り果てていた。
しかし、地域で暮らすには、庭が草ぼうぼうで放置していれば、近隣から批判が寄せられる。害虫も発生するし衛生状態・住まいの環境が悪くなる。ちゃんと草取りをすべきだという近隣の人々の要望も分かる。しかし、要介護高齢者は自分では草取りができない。そこで、ヘルパーに頼むことをケアマネジャーに希望する。
障害者市民のゴミだしについても同じ構造であろう。住むからにはルールを守るべきだと主張する近隣の人々も、悪気があるわけではないだろう。障害者市民を排除する積極的意図はないと思う。
とすると、近隣の人々がちょっと手を出し合って、解決する方法を考えたらどうだろう。リサイクルは大事だ。理解してほしいのはもっともだ。とともに、ルールを一度くらい守れない人がいても、なんとか対応できる地域社会にしたい。そうした柔軟な付き合いが、だれをも排除しない社会を創るはずだ。