この文章は「国際障害者年を機に<障害>者の自立と完全参加をめざす豊中市民会議」(略称:国障年豊中市民会議)の通信用に書いた文章である。2006年06月03日に第26回の総会とあわせて開催した「小川さんと西岡さんの遺したもの」と題する追悼の集まりで、感じたことを中心に、書いた。当日の総会での基調については、すでにこのページでも述べたことがある(「2006.06.05 連帯社会に向けて差別と闘う方針を強調した障害者市民」)。
■ お2人をしのぶ集い
2006年06月03日に、豊中市の「障害福祉センターひまわり」で国障年豊中市民会議の第26回総会を開いた。第2部として、「小川さん西岡さんの遺したもの」と題する集まりを行った。昨年から今年のはじめにかけて、この会議の初代代表である小川悟先生(関西大学)と初代事務局長を務めた西岡務さん(豊中市勤務)が、惜しまれながら永遠の旅立ちをされた。一般的表現では、お二人を「しのぶ会」である。
お二人にかかわりのある人々が集まった。私も、古くからの友人たちと久しぶりに顔を合わせ、声を掛け合った。三上さん(豊中市勤務)による献杯の発声で、会はなごやかに始まった。何人かのスピーチがあり、お二人の果たしてこられた活動がエピソードとともに語られた。
お二人の隠された癖や態度などが話され、会場は笑いの渦とともに、そうだったなぁといううなずきの輪も広がった。あれっというような逸話も飛び出し、無理をいって参加していただいたお連れ合いにも、笑いのうちにお二人のお姿を思い出していただけたのではないかと、思っている。
■ 革命や闘争という言葉と本気で闘った内実とが普通に交わされていた
寄せられた数多くのメッセージや当日にでた多彩な話のなかで、私がとくに惹かれたものを私の記憶にしたがって記載する。たとえば、障害者市民たちがもっと気持ちよく暮らせる社会にするにはどうしたらいいでしょうかと尋ねられた小川先生が「それは革命しかないでしょう」と言われたとの話。
また、西岡さんたちが豊中市に「三氏就労闘争」の結果、採用されたことなどが、語られた。そういえば「三氏就労闘争」という運動もあったよなと、思い出した。久しぶりに「革命」「闘争」という言葉を聞いた。それだけ、私自身も運動から遠ざかって久しいのだろう。感性が鈍っていることを気づかされた。
西岡さんはかつて障害者市民主体で差別と闘う運動に、参加というより、リーダーでもあった。運動の場から行政に活動の場を移しても、たんなる障害福祉を担当する行政職員ではなかった。仕事を通して、障害者市民の権利をどこまで実現できるかに、苦労されていた。また行政職員としても労働組合自治労の中で積極的に活動し、とくに自治労障害労働者連絡会(自治労障労連)の中心的活動家でもあった。
労働運動はもとより、市民運動の場でもかつては華々しく語られていた革命や闘争が、私に関する限りは、いつの間にか話すことも聞くことも、ほとんどしなくなった。でも、やはり、今の社会のあり方を改革する闘争は必要だと、豊中の集まりの会場にいて思いなおすようになった。
■ 多くの市民活動の場でも差別を直視し根絶に向けて闘う方針が掲げられていた
同じ日に、第1部として開催した国障年豊中市民会議の第26回の総会で提案され採択された「2006年度基本方針」にも、こうした意思が表明されている。メンバーも、なんとか社会のあり方を改革しようという気持ちからでた意見だったと、思う。今年度に付け加わった5項目目は「社会に存在するあらゆる差別を直視し、その根絶に向けて闘う」と明記している。
基調文章によると、豊中でも差別は残っているという。2005年から2006年にかけて、阪急豊中駅で差別落書きが数回発見された。障害者市民が不動産屋で家を借りようとしても、障害を理由に入居を拒否されるケースは、豊中においても存在する。東横インのビジネスホテルが、ハートビル法や条例に違反していた事件が報道された。
それは市民会議の活動報告の文章によると「障害者差別が厳然として存在している一例である。決して看過することはできない」という。市民会議の基調では「私たち自身が差別に直面したとき、怒ることを忘れてはならない」と、言い切っている。
市民会議発足当初の議案書を読み返していて、現在もう一度掲げる必要があると感じたとのことである。第2部の集まりで私が感じた内容を、先取りしていたようにも思う。
■ 差別が明確に存在する地域社会の現実を共生社会に変える運動
たしかに、障害者市民への差別は豊中の地域においても、存在している。第三次障害者長期計画の策定の材料とするために、豊中市は障害者市民や介護者に対してニーズ調査を行った。それを受けて策定された「豊中市第三次障害者長期計画」(2006年03月)の資料編に掲載されている調査のまとめによると、障害者市民に対する差別や偏見の経験は、身体障害者本人で24.1%があると答えている。身体障害児ではなんと85.6%、知的障害児本人も82.1%と経験している人の割合はきわめて高い。知的障害者本人は58.2%、精神障害者本人も40.5%と、半数の人が差別や偏見にであっている。入所施設利用者でも34.3%の本人が差別を受けている。
知的障害者、知的障害児、入所施設利用者では「まちかどでの人の視線」に差別や偏見を感じている。身体障害児者では「交通機関や建築物が配慮していない」と感じている人も半数いる。精神障害者では「近所づきあい」に差別を感じている。その他、児童では「学校生活」に、身体・知的・精神障害者では「就労の機会」が上がっている。
地域における日常生活のいろいろな場面において、差別や偏見を受けていることが分かる。これほど差別や偏見を受けていても、障害者市民が差別・偏見に対して闘うことが少なくなったと感じている。国障年豊中市民会議が2006年度の基調でわざわざ「差別に直面したとき、怒ることを忘れてはならない」と文章化した。こうした地域で暮らしている障害者市民の現実を、受けとめたものである。
とともに、1980年代初頭には各地で「国際障害者年をきっかけにして障害者市民の差別をなくす市民会議」が結成された。豊中は現在まで四半世紀にわたって組織として継続している。これは素晴らしいことである。まぁ、25年も継続しながらも、障害者市民の生活が改善されたという確証は得られないという陰の声もあるが。
かつては社会の課題を団結した力で解決することが当たり前だった。組織に団結することは、いまでも大切だ。この組織を継続してきた豊中の障害者市民は、誇りと強さをもっている。とともに、組織としては残っていても運動は形骸化しているという批判もある。地域でより多くの市民の結集によって、社会の改革に向けて運動を進めていくことで、批判に応えることにもなる。
多種多様な市民がそれぞれ知恵と力を持ち寄り、それにできればお金も出し合って、より多く参加していただき、共に暮らす地域社会を、より大きな共同の運動で創りたいものである。