棚田の頂きに立つと、山並みの稜線(りょうせん)が視界に広がる。見下ろせば、田畑が続く先のくぼ地に、数軒の民家が寄り添っている。紅葉は盛りを過ぎ、山には冬の気配が漂う。
後藤崇(42)=仮名=はこの集落で72歳の両親とともに暮らしている。小さな田畑を耕す傍ら、福岡県黒木町の作業所「茶の実」に通う。作業所まで車で約一時間。毎朝、険しい谷沿いの道をうねうねと下る。
高校卒業後、県外の工場に就職したが、軽度の精神障害を患い、1年で帰郷した。町内のパチンコ店に住み込みで働いたこともあるが、うまくいかなかった。
現在の収入は障害基礎年金と作業所の工賃約4000円だけ。山の暮らしに車は欠かせない。月2回通う八女市の病院は、作業所からさらに30分かかる。ガソリンが高騰した今夏は燃料代が月1万数千円も掛かった。
コメも野菜も自給自足とはいえ、それだけでは暮らせない。父母は土木作業や農産品加工場で働きやりくりしてきた。
「仕事に就かんと食べていけんしねえ。お嫁さんも来てほしいけど…。この子のことを考えたら、死ぬに死ねんですよ」。そう語る母の目がにわかにぬれた。隣で崇は黙って聞いていた。
□ □
「茶の実」は黒木、星野、矢部、上陽(現八女市)4町村の精神障害者家族会が1999年に設立した。この地域では唯一の作業所だ。
10人前後の利用者全員がマイカーで通う。「車がないと通所は無理」と所長の向剛毅(77)は言う。路線バスは便が少なく、片道三100-400円かかるところもある。身体障害者や知的障害者と違い、運賃割引がない精神障害者には大きな負担だ。
主な作業は町内の商店から受けた線香の箱詰め作業やちょうちん張りなどだが、収益は年間100万円足らずだ。「田舎はただでさえ仕事がないですもん」と向は話す。
昨年、「茶の実」は障害者自立支援法の新体系に移行し、「地域活動支援センター」に位置付けられた。移行は法人化が条件で、基本金1000万円が必要。地元の支援団体の寄付を取り付け、隣の八女市の作業所と運営を一体化することで、社会福祉法人格を取ることができた。
国、県、市町村から年約500万円あった補助金は激減した。新体系では市町村の財政規模に左右されるようになり、昨年度はわずか約350万円。本年度は交渉で50万円の増額を得たが、これ以上は「財政難で無理」という。
□ □
向の父は1941年に統合失調症を発症し、入退院を繰り返した。障害への偏見がまだ根強い時代。苦労する母の背を見て育った。救いは晩年の父の姿だ。地域のゲートボールに通うようになり、94年に亡くなるまでの最後の十数年を自宅で穏やかに過ごした。
「父にゲートボールがあったように、障害者には受け入れてくれる場所が必要なんです」。「茶の実」は向のそんな思いの結実だ。
当時、この地域の精神障害者は病院のほかは行き場がなく、自宅にこもるしかなかったという。「安心できる居場所を作りたい」と家族が行政と掛け合い、設立にこぎつけた。入所者が増えると自腹で増築資金150万円を出し、必死で「居場所」を守ってきた。
だが、向も他の家族も年を取った。後継者がいなければ、利用者は行き場を失う。崇のように山間地の利用者は遠い街の作業所まで通わねばならず、自宅に閉じこもる日々に逆戻りしかねない。
「後を継いでくれる人はおらんですかねえ」。向は役場に行くたびに職員に相談するが、はかばかしい答えは返ってこない。 (敬称略)
× ×
●障害者自立支援法メモ
▼小規模作業所 全国に約6000カ所を数え、障害者の地域生活や就労を支援する「地域に根差した福祉事業」として多様な機能を果たしてきた小規模作業所は、障害者自立支援法施行後、機能や規模に応じて新体系への移行が進んでいる。
移行先として最も多い地域活動支援センターは障害者に創作・生産活動の機会を提供したり、社会との交流を促したりする市町村の委託事業。国は同センターへの補助金の目安として、交付税措置による基礎部分(600万円)に加え、規模に応じて600万─150万円の国庫補助を実施するとしているが、実際の補助金額は市町村に委ねている。
小規模作業所として存続することも可能だが、各都道府県が実施していた運営費の補助金制度が相次ぎ廃止される一方、国が移行準備資金の助成制度を設けるなど新体系への移行を強く促す施策が取られている。
後藤崇(42)=仮名=はこの集落で72歳の両親とともに暮らしている。小さな田畑を耕す傍ら、福岡県黒木町の作業所「茶の実」に通う。作業所まで車で約一時間。毎朝、険しい谷沿いの道をうねうねと下る。
高校卒業後、県外の工場に就職したが、軽度の精神障害を患い、1年で帰郷した。町内のパチンコ店に住み込みで働いたこともあるが、うまくいかなかった。
現在の収入は障害基礎年金と作業所の工賃約4000円だけ。山の暮らしに車は欠かせない。月2回通う八女市の病院は、作業所からさらに30分かかる。ガソリンが高騰した今夏は燃料代が月1万数千円も掛かった。
コメも野菜も自給自足とはいえ、それだけでは暮らせない。父母は土木作業や農産品加工場で働きやりくりしてきた。
「仕事に就かんと食べていけんしねえ。お嫁さんも来てほしいけど…。この子のことを考えたら、死ぬに死ねんですよ」。そう語る母の目がにわかにぬれた。隣で崇は黙って聞いていた。
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「茶の実」は黒木、星野、矢部、上陽(現八女市)4町村の精神障害者家族会が1999年に設立した。この地域では唯一の作業所だ。
10人前後の利用者全員がマイカーで通う。「車がないと通所は無理」と所長の向剛毅(77)は言う。路線バスは便が少なく、片道三100-400円かかるところもある。身体障害者や知的障害者と違い、運賃割引がない精神障害者には大きな負担だ。
主な作業は町内の商店から受けた線香の箱詰め作業やちょうちん張りなどだが、収益は年間100万円足らずだ。「田舎はただでさえ仕事がないですもん」と向は話す。
昨年、「茶の実」は障害者自立支援法の新体系に移行し、「地域活動支援センター」に位置付けられた。移行は法人化が条件で、基本金1000万円が必要。地元の支援団体の寄付を取り付け、隣の八女市の作業所と運営を一体化することで、社会福祉法人格を取ることができた。
国、県、市町村から年約500万円あった補助金は激減した。新体系では市町村の財政規模に左右されるようになり、昨年度はわずか約350万円。本年度は交渉で50万円の増額を得たが、これ以上は「財政難で無理」という。
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向の父は1941年に統合失調症を発症し、入退院を繰り返した。障害への偏見がまだ根強い時代。苦労する母の背を見て育った。救いは晩年の父の姿だ。地域のゲートボールに通うようになり、94年に亡くなるまでの最後の十数年を自宅で穏やかに過ごした。
「父にゲートボールがあったように、障害者には受け入れてくれる場所が必要なんです」。「茶の実」は向のそんな思いの結実だ。
当時、この地域の精神障害者は病院のほかは行き場がなく、自宅にこもるしかなかったという。「安心できる居場所を作りたい」と家族が行政と掛け合い、設立にこぎつけた。入所者が増えると自腹で増築資金150万円を出し、必死で「居場所」を守ってきた。
だが、向も他の家族も年を取った。後継者がいなければ、利用者は行き場を失う。崇のように山間地の利用者は遠い街の作業所まで通わねばならず、自宅に閉じこもる日々に逆戻りしかねない。
「後を継いでくれる人はおらんですかねえ」。向は役場に行くたびに職員に相談するが、はかばかしい答えは返ってこない。 (敬称略)
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●障害者自立支援法メモ
▼小規模作業所 全国に約6000カ所を数え、障害者の地域生活や就労を支援する「地域に根差した福祉事業」として多様な機能を果たしてきた小規模作業所は、障害者自立支援法施行後、機能や規模に応じて新体系への移行が進んでいる。
移行先として最も多い地域活動支援センターは障害者に創作・生産活動の機会を提供したり、社会との交流を促したりする市町村の委託事業。国は同センターへの補助金の目安として、交付税措置による基礎部分(600万円)に加え、規模に応じて600万─150万円の国庫補助を実施するとしているが、実際の補助金額は市町村に委ねている。
小規模作業所として存続することも可能だが、各都道府県が実施していた運営費の補助金制度が相次ぎ廃止される一方、国が移行準備資金の助成制度を設けるなど新体系への移行を強く促す施策が取られている。