■ 同じ属性であっても、多分分かれるだろう
現役正社員(全労済協会の特集では、多分労働組合員を意識しているだろう)として働いている人たちが「働きすぎ」で、一方で、就労を求めている障害者市民には「仕事がない」と状況と、対比するのが、普通だろう。でも、私が思うには、問題はこうした対比を超えているはずである。
現役正社員(=ほとんどが労働組合組合員)のなかには、少数であっても障害者市民も含まれるはずだ。働いている障害者市民も、「働きすぎ」を経験しているのだろうか。そうでなければ、職場(企業)で働き続けることは、できないだろうと推測する。明確なデータはないが、厚生労働省の障害者雇用状況調査によると、常用労働者の1.52%ダブルカウントなどでは約28万4000人が障害者となる。
女性労働者については「自分の時間がないほどの忙しさ」=「働きすぎ」の現状が、データなどで示されている。皮肉なことに「家庭(育児・家事)と仕事の両立」がいかに実現困難か、あるいは「ワーク・ライフ・バランス」が日本では欠けているかというテーマのもとで。
日本では、あるいは他の国々でも「働きすぎ」と「仕事がない」状態が、属性によって整然と分かれているのか。もちろん、統計をとると、障害者市民と非障害者市民、男性と女性、民族による区別、あるいは中高年齢者と若年者などで、有意の差が認められるだろう。その統計に埋もれる形で「働きすぎの障害者市民」「働きすぎの女性」などなどと「仕事がない障害者市民」や「仕事がない女性」なども、若干であっても存在していると、私は思う。
■ 仕事を求めている数多くの障害者市民の気持ちに応える
しかし、それにしても仕事を求めている障害者市民の数は多い。枚方市に拠点を置く「であいの会」の機関誌(上掲)によると、2006年12月に開かれた「第3回エル・フェスタinひらかた」と題する「障害者合同就職面接会」には、雨模様の天候にもかかわらず、面接者人数は190名と、当初目標約100名という予想を超える参加者だったという。記事を書いている枚方市障害者就業・生活支援準備センターのNさんによると「会場を見て、こんなにたくさんの方の就職ニーズがあることを改めて実感し」たという。
生活保護制度や障害自立支援法などで障害者市民にも就労を求める方向が強まったと、一般に言われている。そうした法制度による圧力もある。しかし、障害者市民が仕事に就きたい、企業で働きたいと願っている気持ちを、そのまま表現する場がなかったと見ることもできる。
授産施設も、障害者市民の期待に応える改革をはじめている(読売新聞、2006年11月30日、「障害者<所得倍増>目指せ」の記事)。もっとも、そこで紹介されている賃金は月平均1万5000円という。これでも平均6000円だったことを考えると、倍増になったという。NPO共同連では、旧来の「福祉」の枠を超えた「社会的事業所」を、目標に掲げている。社会企業とかコミュニティ・ビジネスなどと、自分たちの試みを表明しているグループもある。共に働くことを具体的な目標として「作業所」や「授産施設」から飛び出ようという試みでもある。
■ 働きたいと希望する人たちを支援する
これまで、共同作業所や通所授産施設などで、実際には仕事をしていた。でも、一般企業で働きたいという気持ちを受け止める機会が十分になかったのではあるまいか。たとえば、北海道の札幌市に本拠を置いている「北海道在宅福祉協議会」では、通信の巻頭に「作業所利用者を中心に北海道障がい者職業センターでの相談、職業適性検査、作業所指導員のジョブコーチ研修への参加と『働きたい人』の就労を目指して取り組んできました。そして、昨年(2006年)はハローワークへの登録支援を3作業所(同協議会が運営している作業所)あげて行いました」(北海道在宅福祉協議会編集『児地蔵通信』第95号、2007年01月)と書いている。
この記事で思い出したことがある。以前、障害者市民であっても職を求めている者は、公共職業安定所に求職者登録をするのはあたり前だと、思いこんでいた。ところが、知的や精神障害者の多くは、登録していないと聞いた。そこで、私は「失業者にもなれない障害者」と、いささか嫌味の表現をした覚えがある。
札幌市でも「平成18年障がい者就職面接会」が開催され、北海道在宅福祉協議会の作業所に通っている人たちも参加したという。Fさんによる記事は「でも就労についての現実は非常に厳しいものがあります。このことについては息長くやっていきたいと思っています(でも、20代だった人が30代になったりして、ちょっぴりあせることもあります・Fさんによる原文のまま)」とある。
カッコ内にいつも誠実であるFさんの気持ちがにじみ出ている。息長く支援の活動を続けても、現実の壁の前にくじけそうになる。でも、30代で就職できれば、その人は後、少なくとも30年間は働くことができる。あるいは一度は働いた経験をもつ。本人がどんな人生を創るかが基本であるはずだ。そう思って支援を続けて欲しいと、遠くからエールを送るしかない。
■ 社会的ルールで「働きすぎ」を規制する
今働いている人たちも人生を楽しんで欲しい。全労済協会理事長の鷲尾さんは「自分時間を大切にするために」と題した「時論」(全労済協会、上掲誌)を書いている。かつて新日鉄労連から鉄鋼労連時代に、鉄鋼職場で時間短縮に取り組んだ経験を語っている。だからこそ「今日の長時間労働が所定外労働時間の増という形ですすんでいることは大変残念なことである」と、述べている。
それを受けて、森岡孝二さん(『働きすぎの時代』岩波新書、2005年、の著者でもある)は「見せかけの時短の陰で進む働きすぎ」と題して、現代日本における働きすぎを強める5つの要因に触れている。働きすぎという基準は「死ぬまで働く」あるいは「死ぬほど働く」になっているそうだ。しかも、グローバリゼーションという名で「アメリカ発の働きすぎ」が、世界的に広がっているという。
労働組合が残業の規制を強く求める必要があるが、どうも現在の日本の労働組合はそれほどの規制力を持っていないとみている。社会的ルールを創り、自分たちで規制をしていく運動は、やはりこれからも重要だ。どうすれば、労働組合の規制力を高めることができるのだろうか。
ドイツの事例を取り上げて、日本は「アメリカ以外の考え方や制度をほとんど視野に入れておらず、アメリカの方法に倣わなければ競争力がなくなってしまうと考えている」と、日本を相対化している田中洋子さんの文章は、貴重だ。自由優先のアメリカ型思考への対抗軸として、平等=連帯の選択肢を提供している薬師院仁志さんの『日本とフランス――不平等か、不自由か――』(光文社新書、2006年)も、ある。しかし、そのドイツでも揺れが見られると注記で書いている。
■ 現に働いている者と障害者市民とが「共に」を創る大切さ
ここで一挙に結論にとぶ。今とにかく正社員として働いている人たちと働きたいと願っている障害者市民をはじめとする人たちとが、連帯してほしい。なんのためにか?自分のそれぞれの生活を確保するとともに、普通に・適正に働くためのルールを自分たちで創り、社会的規制力を強めるためである。
長時間労働の原因でもあるサービス残業をしている人たちは「時間外になるのは能力がないから」と言われるそうだ(中野麻美著『労働ダンピング』岩波新書、2006年)。かつて働いている障害者に残業代をつけなかった企業は「障害者だから仕事が遅い。普通(健常者)であれば、時間内に仕事を終わるはず。だから、障害者には残業代をつけない」と言い放ったという。最低賃金法の適用除外の申請理由にも「労働能力が低い」と明確に示している。企業は「健常」労働者にも「能力がないから」と、サービス残業を合理化する。企業や社会は、障害者に対してだけではなく、多くの労働者にも自己責任・能力主義を同じように強調している。
企業がかつて障害者市民に対して言い放っていた能力主義の理由を、今は「健常」労働者にも言っている。ここでは、企業によって、いわゆる「健常」労働者と障害労働者とは同じように劣等労働者扱いを受けている。
派遣やパートなど、雇用期間の「細切れ化」も進んでいるらしい(中野麻美前掲書)。かつて、障害者の雇用契約も、短期間を余儀なくされていたことを思い出す。大阪府の総合評価一般競争入札制度で落札した企業は、障害者たちやその家族を集めた席で、障害者の雇用期間は1年限りとすると発言したという。企業によると、次年度は契約しないという。大阪府は話が違うと、次年度以降は継続雇用をするかどうかを評価項目に採用したほどだったという。
やはり、ここでも障害者雇用と同じ条件が進行中である。障害者雇用の後を追うように。今働いている人たちと障害者とは、同じ条件におかれている。今働いている男性・女性、中高年・若年の違いはない。障害者市民と一緒に、今の企業風土や社会のあり方にたいして、立ち向かうときだろう。同じ職場で共に働くことは大切だ。とともに、今の厳しい雇用条件に対して、その改革に向かって共に運動することも意味するはずだ。
現役正社員(全労済協会の特集では、多分労働組合員を意識しているだろう)として働いている人たちが「働きすぎ」で、一方で、就労を求めている障害者市民には「仕事がない」と状況と、対比するのが、普通だろう。でも、私が思うには、問題はこうした対比を超えているはずである。
現役正社員(=ほとんどが労働組合組合員)のなかには、少数であっても障害者市民も含まれるはずだ。働いている障害者市民も、「働きすぎ」を経験しているのだろうか。そうでなければ、職場(企業)で働き続けることは、できないだろうと推測する。明確なデータはないが、厚生労働省の障害者雇用状況調査によると、常用労働者の1.52%ダブルカウントなどでは約28万4000人が障害者となる。
女性労働者については「自分の時間がないほどの忙しさ」=「働きすぎ」の現状が、データなどで示されている。皮肉なことに「家庭(育児・家事)と仕事の両立」がいかに実現困難か、あるいは「ワーク・ライフ・バランス」が日本では欠けているかというテーマのもとで。
日本では、あるいは他の国々でも「働きすぎ」と「仕事がない」状態が、属性によって整然と分かれているのか。もちろん、統計をとると、障害者市民と非障害者市民、男性と女性、民族による区別、あるいは中高年齢者と若年者などで、有意の差が認められるだろう。その統計に埋もれる形で「働きすぎの障害者市民」「働きすぎの女性」などなどと「仕事がない障害者市民」や「仕事がない女性」なども、若干であっても存在していると、私は思う。
■ 仕事を求めている数多くの障害者市民の気持ちに応える
しかし、それにしても仕事を求めている障害者市民の数は多い。枚方市に拠点を置く「であいの会」の機関誌(上掲)によると、2006年12月に開かれた「第3回エル・フェスタinひらかた」と題する「障害者合同就職面接会」には、雨模様の天候にもかかわらず、面接者人数は190名と、当初目標約100名という予想を超える参加者だったという。記事を書いている枚方市障害者就業・生活支援準備センターのNさんによると「会場を見て、こんなにたくさんの方の就職ニーズがあることを改めて実感し」たという。
生活保護制度や障害自立支援法などで障害者市民にも就労を求める方向が強まったと、一般に言われている。そうした法制度による圧力もある。しかし、障害者市民が仕事に就きたい、企業で働きたいと願っている気持ちを、そのまま表現する場がなかったと見ることもできる。
授産施設も、障害者市民の期待に応える改革をはじめている(読売新聞、2006年11月30日、「障害者<所得倍増>目指せ」の記事)。もっとも、そこで紹介されている賃金は月平均1万5000円という。これでも平均6000円だったことを考えると、倍増になったという。NPO共同連では、旧来の「福祉」の枠を超えた「社会的事業所」を、目標に掲げている。社会企業とかコミュニティ・ビジネスなどと、自分たちの試みを表明しているグループもある。共に働くことを具体的な目標として「作業所」や「授産施設」から飛び出ようという試みでもある。
■ 働きたいと希望する人たちを支援する
これまで、共同作業所や通所授産施設などで、実際には仕事をしていた。でも、一般企業で働きたいという気持ちを受け止める機会が十分になかったのではあるまいか。たとえば、北海道の札幌市に本拠を置いている「北海道在宅福祉協議会」では、通信の巻頭に「作業所利用者を中心に北海道障がい者職業センターでの相談、職業適性検査、作業所指導員のジョブコーチ研修への参加と『働きたい人』の就労を目指して取り組んできました。そして、昨年(2006年)はハローワークへの登録支援を3作業所(同協議会が運営している作業所)あげて行いました」(北海道在宅福祉協議会編集『児地蔵通信』第95号、2007年01月)と書いている。
この記事で思い出したことがある。以前、障害者市民であっても職を求めている者は、公共職業安定所に求職者登録をするのはあたり前だと、思いこんでいた。ところが、知的や精神障害者の多くは、登録していないと聞いた。そこで、私は「失業者にもなれない障害者」と、いささか嫌味の表現をした覚えがある。
札幌市でも「平成18年障がい者就職面接会」が開催され、北海道在宅福祉協議会の作業所に通っている人たちも参加したという。Fさんによる記事は「でも就労についての現実は非常に厳しいものがあります。このことについては息長くやっていきたいと思っています(でも、20代だった人が30代になったりして、ちょっぴりあせることもあります・Fさんによる原文のまま)」とある。
カッコ内にいつも誠実であるFさんの気持ちがにじみ出ている。息長く支援の活動を続けても、現実の壁の前にくじけそうになる。でも、30代で就職できれば、その人は後、少なくとも30年間は働くことができる。あるいは一度は働いた経験をもつ。本人がどんな人生を創るかが基本であるはずだ。そう思って支援を続けて欲しいと、遠くからエールを送るしかない。
■ 社会的ルールで「働きすぎ」を規制する
今働いている人たちも人生を楽しんで欲しい。全労済協会理事長の鷲尾さんは「自分時間を大切にするために」と題した「時論」(全労済協会、上掲誌)を書いている。かつて新日鉄労連から鉄鋼労連時代に、鉄鋼職場で時間短縮に取り組んだ経験を語っている。だからこそ「今日の長時間労働が所定外労働時間の増という形ですすんでいることは大変残念なことである」と、述べている。
それを受けて、森岡孝二さん(『働きすぎの時代』岩波新書、2005年、の著者でもある)は「見せかけの時短の陰で進む働きすぎ」と題して、現代日本における働きすぎを強める5つの要因に触れている。働きすぎという基準は「死ぬまで働く」あるいは「死ぬほど働く」になっているそうだ。しかも、グローバリゼーションという名で「アメリカ発の働きすぎ」が、世界的に広がっているという。
労働組合が残業の規制を強く求める必要があるが、どうも現在の日本の労働組合はそれほどの規制力を持っていないとみている。社会的ルールを創り、自分たちで規制をしていく運動は、やはりこれからも重要だ。どうすれば、労働組合の規制力を高めることができるのだろうか。
ドイツの事例を取り上げて、日本は「アメリカ以外の考え方や制度をほとんど視野に入れておらず、アメリカの方法に倣わなければ競争力がなくなってしまうと考えている」と、日本を相対化している田中洋子さんの文章は、貴重だ。自由優先のアメリカ型思考への対抗軸として、平等=連帯の選択肢を提供している薬師院仁志さんの『日本とフランス――不平等か、不自由か――』(光文社新書、2006年)も、ある。しかし、そのドイツでも揺れが見られると注記で書いている。
■ 現に働いている者と障害者市民とが「共に」を創る大切さ
ここで一挙に結論にとぶ。今とにかく正社員として働いている人たちと働きたいと願っている障害者市民をはじめとする人たちとが、連帯してほしい。なんのためにか?自分のそれぞれの生活を確保するとともに、普通に・適正に働くためのルールを自分たちで創り、社会的規制力を強めるためである。
長時間労働の原因でもあるサービス残業をしている人たちは「時間外になるのは能力がないから」と言われるそうだ(中野麻美著『労働ダンピング』岩波新書、2006年)。かつて働いている障害者に残業代をつけなかった企業は「障害者だから仕事が遅い。普通(健常者)であれば、時間内に仕事を終わるはず。だから、障害者には残業代をつけない」と言い放ったという。最低賃金法の適用除外の申請理由にも「労働能力が低い」と明確に示している。企業は「健常」労働者にも「能力がないから」と、サービス残業を合理化する。企業や社会は、障害者に対してだけではなく、多くの労働者にも自己責任・能力主義を同じように強調している。
企業がかつて障害者市民に対して言い放っていた能力主義の理由を、今は「健常」労働者にも言っている。ここでは、企業によって、いわゆる「健常」労働者と障害労働者とは同じように劣等労働者扱いを受けている。
派遣やパートなど、雇用期間の「細切れ化」も進んでいるらしい(中野麻美前掲書)。かつて、障害者の雇用契約も、短期間を余儀なくされていたことを思い出す。大阪府の総合評価一般競争入札制度で落札した企業は、障害者たちやその家族を集めた席で、障害者の雇用期間は1年限りとすると発言したという。企業によると、次年度は契約しないという。大阪府は話が違うと、次年度以降は継続雇用をするかどうかを評価項目に採用したほどだったという。
やはり、ここでも障害者雇用と同じ条件が進行中である。障害者雇用の後を追うように。今働いている人たちと障害者とは、同じ条件におかれている。今働いている男性・女性、中高年・若年の違いはない。障害者市民と一緒に、今の企業風土や社会のあり方にたいして、立ち向かうときだろう。同じ職場で共に働くことは大切だ。とともに、今の厳しい雇用条件に対して、その改革に向かって共に運動することも意味するはずだ。