福祉から就労へという政策の流れが顕著である。もちろん、政策当局だけではない。本人たちやその周りにいる人たちも、当たり前に「共に」働きたいと願っている。本人たちや周りにいる人たちも、本人たちが働くことを重視する取り組みを始めている。きわめて普通のことだという受け止め方もある。でも、ちょっと立ち止まって、見なおす必要もあるようだ。いつも転載させていただいている社会福祉法人路交館が編集・発行している『あいどる』(第94号、2007年04月)の巻頭では、枝本信一郎さんが「<働く>ということ」と題して書いていらっしゃる。ご承諾をえたので、ここに転載する。なお、いつものように、題名、中見だしを付け、改行も自由に行ない、さらに私の感想なども付け加えた。以下、まず枝本さんの文章を紹介する。
■ 知的障害を持つ人たちにとっては就職への険しい道
路交館では、障害者自立支援法による多機能事業所ウィリッシュで、就労移行支援をはじめた。正直のところ、あまり深く考えず、障害者にとっても「働く」ことはあたりまえだから・・・程度の思いで、この事業の実施を決めた。が、ウィリッシュの主な利用者である知的障害を持つ人にとって、一般就職への道は、思った以上に険しいことを思い知らされている。
■ 職場に参加し、役割を積極的に担う共同体へのかかわり
第一に、周りの人々(仲間)に向ける眼差しが弱すぎると感じる。共同体を作る力、共同体に参加する力が弱いのである。「共に・・・」の場から疎外され続けてきた結果であり、また、個別的な教育・訓練に閉じ込められてきた結果なのだろう。
言うまでもないが、就職することは、職場という新しい共同体に参加し、その共同体の構成員の1人としての役割を担うことに他ならない。が、それが弱い。
能力的な意味で、「役割が担える」かどうかを言いたいわけでない。周りの人々(仲間)に向ける眼差しが弱すぎるのである。
むしろ、重い知的遅れを伴う自閉症で、一般就労は困難(就労移行支援の対象にならない)な人でも、地域の保育所・小中学校に通い、また、学童保育などで長期間仲間活動を続けてきた人の方が、共同体に参加する力を持っていると感じる。より就職に近いと思える軽度の知的障害者ほど、このような傾向が大きいのだから、問題は大きい。
■ 働くことの役割意識をもつことの重要性
第二に、「働く」ことを、「お金を稼ぐため」としか考えていないことも、問題に感じる。たしかに、働くのはお金を稼ぐためであり、そのお金で自分の欲しいものを買うためであることに違いはない。
が、それだけではないはずである。働くことそのものが社会参加であり、古の人の言うごとく「傍(はた)を楽にする」ことに他ならない。人は、そのような(社会的)役割意識を持っている(感じている)からこそ、働き続けることができるのではなかろうか。
だが、とくに比較的軽度の知的障害者のようすを見ていると、そのような役割意識を持っているような雰囲気が感じ取れない場合が多い。長期間、「自分のことは自分でする」世界に、まわりの人々(先生や親)によって閉じ込められてきた結果のように思う。もっともっと、多様な人々のあいだで、協力し合いながら生きる。そのような経験の蓄積が必要だったように感じる。
■ 働きつづけ、お金を使うためには「ゆめ」が必要
第三に、働くことそのものが自己目的化しているとさえ感じる問題がある。働いてお金を稼ぐことは考えても、そのお金を使うことに、「ゆめ」を感じることが少ないのである。自分で稼いだお金を使うことは、自分の人生を自分の稼ぎで生きることであり、そこにはそれなりの「ゆめ」が必要だと思う。
お金を使うことに「ゆめ」を感じにくいのは、無駄使いの経験があまりにも少ないからではなかろうか。間違いのない正しいお金の使い方は、もちろん駄菓子や缶ジュースを買うといったレベルを超えての話だが、周りの人々の強い示唆と管理の下にしかありえない。そして、そこには「夢」が育ちようもない。
これでは、何とか「できること」を増やし、就職先を見つけても、それが長続きするように思えない。就職に失敗して引きこもりに陥る障害者が多いことも、あながち不思議ではないように思うのである。
以上が、枝本信一郎さんの文章である。
■ 多くの人に当てはまる指摘――大谷のコメント(1)
枝本さんが直接に触れ合った障害者、とくに知的障害者について、書かれた文章である。枝本さんは、ご自身が実際に関わられた経験をもとに、文章を綴ってこられた。たしかに、知的障害者の労働に適合する指摘である。しかし、転載のため文章をパソコンに打ちこんでいた大谷によると、知的障害者以外の多くの人にも当てはまるところが多い。
もちろん、知的障害者について述べていらっしゃるが、もっと広く捕らえることができると思う。現在、労働に就こうとしている多くの人にも、ほとんどそのまま当てはまる。
■ 社会を形作っている人々の変革――大谷のコメント(2)
枝本さんの文章には「共同体」という表現がある。私が良く使う言葉では、組織のあり方、というか、日本企業や職場のあり方と、受けとめた。企業や職場を変えるきっかけにしてほしいと思う。
もちろん、障害者にだけ求めることは、過剰な期待感だとも思う。しかし、これまでの会社組織や職場で、もっとも「異質」とされていた障害者が企業や職場に入ることによって、なにかが変わるといいと思っている。企業社会や職場に対して、障害者からの発信を期待したいと思う。
ちょうどこの文章を読んでいた時期に、岩田靖夫さんの「デモクラシー成立の基礎」(『書斎の窓』有斐閣、2007年06月)を読んでいた。その一節に「人間は一人で生きているのではなく、共同体の中で生きている。それゆえ、どのような共同体を作るかは、人間にとって根本的な重要事である」という文章を発見した。たしかに、どんな共同体を作るかは、重要な課題だ。共同体という言葉から連想した読み手の勝手な誤読である。
■ お金だけが目的の労働は寂しいが、お金を持つことも大切――大谷のコメント(3)
枝本さんは働いて稼ぐことも重要だが、そのお金を使うことに「ゆめ」を感じて欲しいと思っていらっしゃる。その理由として、無駄遣いの経験がないからだというのは、面白い指摘だ。こんなつまらなモノに自分が一生懸命に稼いだお金を消費してしまう人生は、面白くないと思う。
もっと、豊かな人生を作るためには、夢をもつことが重要だと、徐々に気付いていく。その道のりを自分で歩む過程が大切なのだろう。あるいは、他人が教えてくれる場合もあるし、他人の生活を傍で見ていて気がつく場合もあろう。
と同時に、自分で働いて稼いだお金を自分が自由に使った経験さえない人もいるだろう。その時には、無駄使いも大切なプロセスとなるだろう。
しかし、多くの知的障害者は時給わずか100円台で働いているという。作業所が最低賃金法に違反している事例は、多い(神戸の作業所については読売新聞、2007年02月19日)。ここでは、あたりまえに働いていても、障害者は「訓練」という名目で、最低賃金にすら届かない現実がある。知的障害者をそんな状態に置いてきたこれまでの「福祉」政策(福祉的就労という合法化も)が、問題だろう。こうした労働の場があることを、障害者たちも変革してほしいと、期待する。
■ 知的障害を持つ人たちにとっては就職への険しい道
路交館では、障害者自立支援法による多機能事業所ウィリッシュで、就労移行支援をはじめた。正直のところ、あまり深く考えず、障害者にとっても「働く」ことはあたりまえだから・・・程度の思いで、この事業の実施を決めた。が、ウィリッシュの主な利用者である知的障害を持つ人にとって、一般就職への道は、思った以上に険しいことを思い知らされている。
■ 職場に参加し、役割を積極的に担う共同体へのかかわり
第一に、周りの人々(仲間)に向ける眼差しが弱すぎると感じる。共同体を作る力、共同体に参加する力が弱いのである。「共に・・・」の場から疎外され続けてきた結果であり、また、個別的な教育・訓練に閉じ込められてきた結果なのだろう。
言うまでもないが、就職することは、職場という新しい共同体に参加し、その共同体の構成員の1人としての役割を担うことに他ならない。が、それが弱い。
能力的な意味で、「役割が担える」かどうかを言いたいわけでない。周りの人々(仲間)に向ける眼差しが弱すぎるのである。
むしろ、重い知的遅れを伴う自閉症で、一般就労は困難(就労移行支援の対象にならない)な人でも、地域の保育所・小中学校に通い、また、学童保育などで長期間仲間活動を続けてきた人の方が、共同体に参加する力を持っていると感じる。より就職に近いと思える軽度の知的障害者ほど、このような傾向が大きいのだから、問題は大きい。
■ 働くことの役割意識をもつことの重要性
第二に、「働く」ことを、「お金を稼ぐため」としか考えていないことも、問題に感じる。たしかに、働くのはお金を稼ぐためであり、そのお金で自分の欲しいものを買うためであることに違いはない。
が、それだけではないはずである。働くことそのものが社会参加であり、古の人の言うごとく「傍(はた)を楽にする」ことに他ならない。人は、そのような(社会的)役割意識を持っている(感じている)からこそ、働き続けることができるのではなかろうか。
だが、とくに比較的軽度の知的障害者のようすを見ていると、そのような役割意識を持っているような雰囲気が感じ取れない場合が多い。長期間、「自分のことは自分でする」世界に、まわりの人々(先生や親)によって閉じ込められてきた結果のように思う。もっともっと、多様な人々のあいだで、協力し合いながら生きる。そのような経験の蓄積が必要だったように感じる。
■ 働きつづけ、お金を使うためには「ゆめ」が必要
第三に、働くことそのものが自己目的化しているとさえ感じる問題がある。働いてお金を稼ぐことは考えても、そのお金を使うことに、「ゆめ」を感じることが少ないのである。自分で稼いだお金を使うことは、自分の人生を自分の稼ぎで生きることであり、そこにはそれなりの「ゆめ」が必要だと思う。
お金を使うことに「ゆめ」を感じにくいのは、無駄使いの経験があまりにも少ないからではなかろうか。間違いのない正しいお金の使い方は、もちろん駄菓子や缶ジュースを買うといったレベルを超えての話だが、周りの人々の強い示唆と管理の下にしかありえない。そして、そこには「夢」が育ちようもない。
これでは、何とか「できること」を増やし、就職先を見つけても、それが長続きするように思えない。就職に失敗して引きこもりに陥る障害者が多いことも、あながち不思議ではないように思うのである。
以上が、枝本信一郎さんの文章である。
■ 多くの人に当てはまる指摘――大谷のコメント(1)
枝本さんが直接に触れ合った障害者、とくに知的障害者について、書かれた文章である。枝本さんは、ご自身が実際に関わられた経験をもとに、文章を綴ってこられた。たしかに、知的障害者の労働に適合する指摘である。しかし、転載のため文章をパソコンに打ちこんでいた大谷によると、知的障害者以外の多くの人にも当てはまるところが多い。
もちろん、知的障害者について述べていらっしゃるが、もっと広く捕らえることができると思う。現在、労働に就こうとしている多くの人にも、ほとんどそのまま当てはまる。
■ 社会を形作っている人々の変革――大谷のコメント(2)
枝本さんの文章には「共同体」という表現がある。私が良く使う言葉では、組織のあり方、というか、日本企業や職場のあり方と、受けとめた。企業や職場を変えるきっかけにしてほしいと思う。
もちろん、障害者にだけ求めることは、過剰な期待感だとも思う。しかし、これまでの会社組織や職場で、もっとも「異質」とされていた障害者が企業や職場に入ることによって、なにかが変わるといいと思っている。企業社会や職場に対して、障害者からの発信を期待したいと思う。
ちょうどこの文章を読んでいた時期に、岩田靖夫さんの「デモクラシー成立の基礎」(『書斎の窓』有斐閣、2007年06月)を読んでいた。その一節に「人間は一人で生きているのではなく、共同体の中で生きている。それゆえ、どのような共同体を作るかは、人間にとって根本的な重要事である」という文章を発見した。たしかに、どんな共同体を作るかは、重要な課題だ。共同体という言葉から連想した読み手の勝手な誤読である。
■ お金だけが目的の労働は寂しいが、お金を持つことも大切――大谷のコメント(3)
枝本さんは働いて稼ぐことも重要だが、そのお金を使うことに「ゆめ」を感じて欲しいと思っていらっしゃる。その理由として、無駄遣いの経験がないからだというのは、面白い指摘だ。こんなつまらなモノに自分が一生懸命に稼いだお金を消費してしまう人生は、面白くないと思う。
もっと、豊かな人生を作るためには、夢をもつことが重要だと、徐々に気付いていく。その道のりを自分で歩む過程が大切なのだろう。あるいは、他人が教えてくれる場合もあるし、他人の生活を傍で見ていて気がつく場合もあろう。
と同時に、自分で働いて稼いだお金を自分が自由に使った経験さえない人もいるだろう。その時には、無駄使いも大切なプロセスとなるだろう。
しかし、多くの知的障害者は時給わずか100円台で働いているという。作業所が最低賃金法に違反している事例は、多い(神戸の作業所については読売新聞、2007年02月19日)。ここでは、あたりまえに働いていても、障害者は「訓練」という名目で、最低賃金にすら届かない現実がある。知的障害者をそんな状態に置いてきたこれまでの「福祉」政策(福祉的就労という合法化も)が、問題だろう。こうした労働の場があることを、障害者たちも変革してほしいと、期待する。