知的障害者が関わる事件があると、だから障害者は危険な人たちだ、だから施設などに閉じ込めておくべきだと言う世論が高まる。大阪府八尾市で知的障害者が子どもを歩道橋の上から投げ落とす事件があった。八尾市の隣、東大阪市に拠点をおいている社会福祉法人創思苑が運営するクリエイティブハウス「パンジー」の機関誌「パンジーだより」(第62号、2007年02月19日発行)では、知的障害者市民のこの事件についての意見を「自分を大切にしてほしい!八尾の事件から考えたこと」と題した記事を載せている。社会福祉法人創思苑の関係者から了承をいただいたので、そのまま転載するとともに、他の機関誌とともに、私も若干の感想をつけた。
■ 知り合いの人たちの気持ちが大きく揺れた
まず「パンジーだより」編集部の導入記事がある。それをそのまま転載する。なぜ、この記事が生まれたかという事情を良く伝えている。
「八尾市で、知的障害を持つYさんが、歩道橋から3歳の子どもを投げ落とすという事件が起きました。子どもとその家族の人たちの心情を考えると、1日も早い体と心の回復を願います。
パンジーは、活動を通してYさんを知っている当事者の人たちがいます。その人達は、同じ障害を持っていると言うだけでなく、知っている人が起こした事件に、気持ちが大きくゆれ動きました。そこで、自分たちの気持ちを整理するために、話し合いを持ちました。
知的障害を持つ人たちに関わる私たちが、今後、どのような支援の質やネットワークを作ればよいのかを考える参考になればと思い、一部を紹介します。」
以上が、本誌の編集担当者の文章である。自分が知っている人が、事件を起こすと、びっくりする。心も動揺するのは、あたりまえだ。同時に、なぜその人がそうした行動にでたのか、率直に言ってよく判らない。知的障害者市民と日常的に、しかも仕事で関わっている人々が、今後の「支援の質やネットワーク」のあり方を問い直しているのも、当然だろう。どう関わってよいか、分からない。
以下の記事は、多分、職員が質問を発して、ここを利用している知的障害者市民たちが、それぞれ答えている。さまざまな観点から知的障害者市民たちが答えている。編集部がまとめているものを紹介する。
■ 全体としての感想
職員のクエスチョンは「八尾の事件をどう思いますか?」である。一般的だから本当に答えにくい質問である。でも回答にはいろいろな視点がでていて、貴重だ。後で転載する内容とも関係すると思うので、そのまま転載する。知的障害者市民が質問に答えている内容は以下の通りである。
・障害者が世間から変な目で見られないか心配。変な目で見られたらつらい。
・Yさんのお母さんが「相手の人に何てお詫びをしたらいいのか」と言っていた。お母さんがかわいそうだ。
・自分を大切にしてほしい。人生が変わってしまうから。腹が立ってもケガさせたらあかん。
・子どもを見んと、クッキーの販売をしていたらよかった。
・Yさん、もっと大切なことを学ばなあかんかもしれん。
・人の命をどうして、あんなことするんかな?
・Yさんは、心から話しあえる友達いたんかな?なんでも言い合える仲間。
・時間たっぷり使って話し合えたら、心のもやもやや、つもりつもった気分もすっきりしたのかな。
以上が最初の感想というか、質問に対する答えである。まず、世間の人たちが、やはり障害者市民は、とくに知的障害者市民は、やはり・・・と決めつける危険性を感じている。私もまずそう思った。知的障害者市民が被害者になった事件もあわせて、兵庫県川西市を拠点にしている「共働作業所あかね」の機関誌「あかねニュース」(第50号、2007年03月13日)にも「ふたつの事件に思う」と題して、冨田さんが「この相反する事件が時を同じくして起きてしまった。『あんな人たちと関わると何が起きるか分からへんから、近づいたらあかんなぁ』そんな声が聞こえてきそうで悲しい」と書いている。本当にそうだ。社会的排除につながる危険性を、同様にこの事件から私も感じ取った。
自分を大切にして欲しいという気持ちは、重要だ。これまでいつも、社会で劣った存在だ、できないことがたくさんあると言われ続けてきた人たちが、こうした言葉を発する社会というのは、健全だと受けとめた。話し合うことの重要性に気がついている人がいる。友達や仲間、あるいは職員が、本人の言いたいことをゆっくり聞ける環境が大切だと言っている。これは後に続く問題だ。互いを大切にする関係をどう創るか。
■ 本人の話をちゃんと聞ける関係が大切
さらに質問は知的障害者市民たちを問い詰めるかのように続く。質問は「自分がYさんだったら、どんな気持ちですか?」と。自分たちが知っている人に立場を置き換えて、もし自分だったら・・・と考えてみると、そうした行動をとったその人の気持ちが分かるかもしれない。その答は次の通りだ。
・仲間がほしい。
・競馬行こう、コンサート行こう。冗談交じりの話でも聞いてもらいたい。
・僕の立場やと、ちゃんとアドバイスを受けたい。あったんかな?職員や仲間から。
・Yさんのその時の状態で、ぴったり見ておく時と、遠くからで良い時とがあると思う。
以上が掲載されている。私が受け取った特徴は、多くの人が仲間の大切さを語っている点である。気楽な話(私の用語)ができる人間関係があったら、もうちょっと別の方法が見つかったかもしれない。助けて欲しいときもあると、率直に語っている。タイミングが大切だろう。その兆しを見つけることを、職員や仲間は効果的にしてほしいと望んでいる。
■ 知人だから、助けることもできたはず
スタッフはさらに問い詰める。次の質問は「知っている人の事件でしたよね?」と。ここまで質問するのは、酷だよなと思いつつ、どう答えているのか、興味を持って読んだ。知的障害者市民たちの答は次の様であったという。
・知っている人がやったんやなーってビックリした。
・Yくんをテレビで見て。Yくんが車で座って下向いて出とった。
・なんで職員が追いかけて行かへんかったのか。「やめなさい。子どもを投げないで!」って言うため。
・僕の所に連絡してくれたら、とんで行って助ける。Yさんを止める。
以上である。職員のその時の対応に、もっとこうして欲しいと提案している。ハッとした。職員が語ったと想像した言葉が素晴らしい。なるほど、そう言って止めれば、Yさんも子どもも助かる。最後の言葉もそうである。ここで「助ける」という言葉が出てくるのは、やはり仲間と思っているからだろう。それをうけて、職員の質問は、さらに一歩立ち入る。
■ 子どももYさんも助かる方法
前のやりとりを受けて質問は続く。私はこの質問が要だと思う。質問は「人を歩道橋から突き落とそうとするのを止めるということが、Yさんを助けるってこと?なんで投げたと思う?」と。子どもを救うことが、Yさんを助けることになるというつながりは、大切だ。被害者に害を与えた加害者を裁く場でも、本当はこの論理が必要なのだ。それに対して、知的障害者市民は次のように答えている。
・ストレスがたまってたんちゃうか?
・Yさんに会ったら「赤ちゃんをなんで歩道橋から突き落としたんか説明してくれへんか?」言う。
・ハート(創思苑が運営する「はっしんきち ザ☆ハート」のことか?)行くのやめようかなっていうぐらいショックやった。
・赤ちゃんのお父さんがYさんを殺したいって言ってた。みんな傷つくんちゃう。昨日色々考えてつらくて泣いた。
・Yさんにやめてくれって言って、Yさんを助ける。赤ちゃんも助ける。
・覆面パトカーに乗ってるのをみて。・・・こうやって(肩をすくめて)乗ってて運転手と助手席の人と。
・自分の人生はこれから仕事もいっぱいあるのに、投げてしまったら。
・二度と繰り返さないでほしい。今度出てくるまでにしたことをつぐなってほしい。
・子どもが治るかな。子どもがなおらんかったら罪が重くなる。裁判所がどう言うか。
以上が、この質問への答である。私は「みんな傷つくんちゃう。」に、惹かれた。そうだよな。Yさんを殺したいという赤ちゃんのお父さんの気持ちも分かる。でも、そうした報復の連鎖がつながると、傷つく人がいつまでも続出するだろう。悲しくなる。それぞれが置かれた立場はよく理解できる。でも、それをどうやって止めるか。自分たちが社会の中での視線を集めただけに、辛くなるのを実感できる。この感性を大切にしたい。もしあるとすれば、Yさんを止めて、Yさんも赤ちゃんも助けることだろう。仲間だからこそ、こうした発想が生まれる。仲間ってうらやましい存在だ。
■ 知的障害者市民も一人の市民として関わって欲しい
最後の質問は「今後、職員や地域の人に、どうしてほしいですか?」と問いかけている。さきに掲載した川西市の「あかね共働作業所」の機関誌も、「直接関わった職員は厳しくその姿勢を追及されることになるだろう」と書いている。知的障害者市民は実際になにを職員に求めているかは、そこでは明確にされていなかった。もっとも、記事の筆者はわかっていたのであろう。多くのサービス提供組織では、職員側からの「多分こうであろう」という片思いに似た感想で動いていたと思う。微妙なズレがあったと思う。本人たちのその質問に対する答は、次の通りである。
・職員は何のためにいるんだろう?責任をもって見てほしい。職員に声をかけてほしい。冗談でも、怒らないように言ってほしい。名前を言ってほしい。
・他の当事者が重度やったら、難しくなるんかな?
・みんなを守ってほしい。
・一人ひとりに声かけたらいいんちゃうかな?
限りなく優しい言葉である。この事件に限らず、普段の付き合いを改善してほしいと求めているだけだ。知的障害者市民を一人の人間として扱ってほしいという願いをこめている。川西市の「あかね」の記事によると「職員は厳しくその姿勢を追及されることになるだろう」と書いていたが、その中身が、本人たちの言葉によって明確になった。その要望を勝手にまとめると、普通に、互いの尊厳を尊重して付き合ってほしいという。もちろん、その上で「職員はなんのためにいるんだろう」という疑問もでるだろう。それでも、基本は社会に活動している人として、扱ってほしいという希望だと思う。
■ 折り合いをつけて付き合う
職員には、だけではなく、地域の人々にも、本当は困難なテーマであろう。どうしたらいいのか。ヒントは川西市に拠点を置いている「あかね共働作業所」の冨田さんの記事にあると思う。つまり「どう折り合いをつけていくのか」と。地域社会の中で折り合いをつけるというが、これが難しい仕事だ。
あるいは、このページでも多く引用させていただいている枝本さんの文章(たとえば「お互い様を考え直す」など)にひきつけると「お互い様」というかかわりになるだろう。だからといって、具体的なノウハウがあるわけではない。私が書くことができるのは、基本の姿勢だけだ。多分、実際に障害者市民と付き合っている人々は、とくに仕事として関わっているスタッフたちは、もっと重要な技術を持っていると思う。でも、それぞれ違う部分はもちろんあるけれど、基本は社会で活動しているあたりまえの人として関わることから始まるだろう。
■ 知り合いの人たちの気持ちが大きく揺れた
まず「パンジーだより」編集部の導入記事がある。それをそのまま転載する。なぜ、この記事が生まれたかという事情を良く伝えている。
「八尾市で、知的障害を持つYさんが、歩道橋から3歳の子どもを投げ落とすという事件が起きました。子どもとその家族の人たちの心情を考えると、1日も早い体と心の回復を願います。
パンジーは、活動を通してYさんを知っている当事者の人たちがいます。その人達は、同じ障害を持っていると言うだけでなく、知っている人が起こした事件に、気持ちが大きくゆれ動きました。そこで、自分たちの気持ちを整理するために、話し合いを持ちました。
知的障害を持つ人たちに関わる私たちが、今後、どのような支援の質やネットワークを作ればよいのかを考える参考になればと思い、一部を紹介します。」
以上が、本誌の編集担当者の文章である。自分が知っている人が、事件を起こすと、びっくりする。心も動揺するのは、あたりまえだ。同時に、なぜその人がそうした行動にでたのか、率直に言ってよく判らない。知的障害者市民と日常的に、しかも仕事で関わっている人々が、今後の「支援の質やネットワーク」のあり方を問い直しているのも、当然だろう。どう関わってよいか、分からない。
以下の記事は、多分、職員が質問を発して、ここを利用している知的障害者市民たちが、それぞれ答えている。さまざまな観点から知的障害者市民たちが答えている。編集部がまとめているものを紹介する。
■ 全体としての感想
職員のクエスチョンは「八尾の事件をどう思いますか?」である。一般的だから本当に答えにくい質問である。でも回答にはいろいろな視点がでていて、貴重だ。後で転載する内容とも関係すると思うので、そのまま転載する。知的障害者市民が質問に答えている内容は以下の通りである。
・障害者が世間から変な目で見られないか心配。変な目で見られたらつらい。
・Yさんのお母さんが「相手の人に何てお詫びをしたらいいのか」と言っていた。お母さんがかわいそうだ。
・自分を大切にしてほしい。人生が変わってしまうから。腹が立ってもケガさせたらあかん。
・子どもを見んと、クッキーの販売をしていたらよかった。
・Yさん、もっと大切なことを学ばなあかんかもしれん。
・人の命をどうして、あんなことするんかな?
・Yさんは、心から話しあえる友達いたんかな?なんでも言い合える仲間。
・時間たっぷり使って話し合えたら、心のもやもやや、つもりつもった気分もすっきりしたのかな。
以上が最初の感想というか、質問に対する答えである。まず、世間の人たちが、やはり障害者市民は、とくに知的障害者市民は、やはり・・・と決めつける危険性を感じている。私もまずそう思った。知的障害者市民が被害者になった事件もあわせて、兵庫県川西市を拠点にしている「共働作業所あかね」の機関誌「あかねニュース」(第50号、2007年03月13日)にも「ふたつの事件に思う」と題して、冨田さんが「この相反する事件が時を同じくして起きてしまった。『あんな人たちと関わると何が起きるか分からへんから、近づいたらあかんなぁ』そんな声が聞こえてきそうで悲しい」と書いている。本当にそうだ。社会的排除につながる危険性を、同様にこの事件から私も感じ取った。
自分を大切にして欲しいという気持ちは、重要だ。これまでいつも、社会で劣った存在だ、できないことがたくさんあると言われ続けてきた人たちが、こうした言葉を発する社会というのは、健全だと受けとめた。話し合うことの重要性に気がついている人がいる。友達や仲間、あるいは職員が、本人の言いたいことをゆっくり聞ける環境が大切だと言っている。これは後に続く問題だ。互いを大切にする関係をどう創るか。
■ 本人の話をちゃんと聞ける関係が大切
さらに質問は知的障害者市民たちを問い詰めるかのように続く。質問は「自分がYさんだったら、どんな気持ちですか?」と。自分たちが知っている人に立場を置き換えて、もし自分だったら・・・と考えてみると、そうした行動をとったその人の気持ちが分かるかもしれない。その答は次の通りだ。
・仲間がほしい。
・競馬行こう、コンサート行こう。冗談交じりの話でも聞いてもらいたい。
・僕の立場やと、ちゃんとアドバイスを受けたい。あったんかな?職員や仲間から。
・Yさんのその時の状態で、ぴったり見ておく時と、遠くからで良い時とがあると思う。
以上が掲載されている。私が受け取った特徴は、多くの人が仲間の大切さを語っている点である。気楽な話(私の用語)ができる人間関係があったら、もうちょっと別の方法が見つかったかもしれない。助けて欲しいときもあると、率直に語っている。タイミングが大切だろう。その兆しを見つけることを、職員や仲間は効果的にしてほしいと望んでいる。
■ 知人だから、助けることもできたはず
スタッフはさらに問い詰める。次の質問は「知っている人の事件でしたよね?」と。ここまで質問するのは、酷だよなと思いつつ、どう答えているのか、興味を持って読んだ。知的障害者市民たちの答は次の様であったという。
・知っている人がやったんやなーってビックリした。
・Yくんをテレビで見て。Yくんが車で座って下向いて出とった。
・なんで職員が追いかけて行かへんかったのか。「やめなさい。子どもを投げないで!」って言うため。
・僕の所に連絡してくれたら、とんで行って助ける。Yさんを止める。
以上である。職員のその時の対応に、もっとこうして欲しいと提案している。ハッとした。職員が語ったと想像した言葉が素晴らしい。なるほど、そう言って止めれば、Yさんも子どもも助かる。最後の言葉もそうである。ここで「助ける」という言葉が出てくるのは、やはり仲間と思っているからだろう。それをうけて、職員の質問は、さらに一歩立ち入る。
■ 子どももYさんも助かる方法
前のやりとりを受けて質問は続く。私はこの質問が要だと思う。質問は「人を歩道橋から突き落とそうとするのを止めるということが、Yさんを助けるってこと?なんで投げたと思う?」と。子どもを救うことが、Yさんを助けることになるというつながりは、大切だ。被害者に害を与えた加害者を裁く場でも、本当はこの論理が必要なのだ。それに対して、知的障害者市民は次のように答えている。
・ストレスがたまってたんちゃうか?
・Yさんに会ったら「赤ちゃんをなんで歩道橋から突き落としたんか説明してくれへんか?」言う。
・ハート(創思苑が運営する「はっしんきち ザ☆ハート」のことか?)行くのやめようかなっていうぐらいショックやった。
・赤ちゃんのお父さんがYさんを殺したいって言ってた。みんな傷つくんちゃう。昨日色々考えてつらくて泣いた。
・Yさんにやめてくれって言って、Yさんを助ける。赤ちゃんも助ける。
・覆面パトカーに乗ってるのをみて。・・・こうやって(肩をすくめて)乗ってて運転手と助手席の人と。
・自分の人生はこれから仕事もいっぱいあるのに、投げてしまったら。
・二度と繰り返さないでほしい。今度出てくるまでにしたことをつぐなってほしい。
・子どもが治るかな。子どもがなおらんかったら罪が重くなる。裁判所がどう言うか。
以上が、この質問への答である。私は「みんな傷つくんちゃう。」に、惹かれた。そうだよな。Yさんを殺したいという赤ちゃんのお父さんの気持ちも分かる。でも、そうした報復の連鎖がつながると、傷つく人がいつまでも続出するだろう。悲しくなる。それぞれが置かれた立場はよく理解できる。でも、それをどうやって止めるか。自分たちが社会の中での視線を集めただけに、辛くなるのを実感できる。この感性を大切にしたい。もしあるとすれば、Yさんを止めて、Yさんも赤ちゃんも助けることだろう。仲間だからこそ、こうした発想が生まれる。仲間ってうらやましい存在だ。
■ 知的障害者市民も一人の市民として関わって欲しい
最後の質問は「今後、職員や地域の人に、どうしてほしいですか?」と問いかけている。さきに掲載した川西市の「あかね共働作業所」の機関誌も、「直接関わった職員は厳しくその姿勢を追及されることになるだろう」と書いている。知的障害者市民は実際になにを職員に求めているかは、そこでは明確にされていなかった。もっとも、記事の筆者はわかっていたのであろう。多くのサービス提供組織では、職員側からの「多分こうであろう」という片思いに似た感想で動いていたと思う。微妙なズレがあったと思う。本人たちのその質問に対する答は、次の通りである。
・職員は何のためにいるんだろう?責任をもって見てほしい。職員に声をかけてほしい。冗談でも、怒らないように言ってほしい。名前を言ってほしい。
・他の当事者が重度やったら、難しくなるんかな?
・みんなを守ってほしい。
・一人ひとりに声かけたらいいんちゃうかな?
限りなく優しい言葉である。この事件に限らず、普段の付き合いを改善してほしいと求めているだけだ。知的障害者市民を一人の人間として扱ってほしいという願いをこめている。川西市の「あかね」の記事によると「職員は厳しくその姿勢を追及されることになるだろう」と書いていたが、その中身が、本人たちの言葉によって明確になった。その要望を勝手にまとめると、普通に、互いの尊厳を尊重して付き合ってほしいという。もちろん、その上で「職員はなんのためにいるんだろう」という疑問もでるだろう。それでも、基本は社会に活動している人として、扱ってほしいという希望だと思う。
■ 折り合いをつけて付き合う
職員には、だけではなく、地域の人々にも、本当は困難なテーマであろう。どうしたらいいのか。ヒントは川西市に拠点を置いている「あかね共働作業所」の冨田さんの記事にあると思う。つまり「どう折り合いをつけていくのか」と。地域社会の中で折り合いをつけるというが、これが難しい仕事だ。
あるいは、このページでも多く引用させていただいている枝本さんの文章(たとえば「お互い様を考え直す」など)にひきつけると「お互い様」というかかわりになるだろう。だからといって、具体的なノウハウがあるわけではない。私が書くことができるのは、基本の姿勢だけだ。多分、実際に障害者市民と付き合っている人々は、とくに仕事として関わっているスタッフたちは、もっと重要な技術を持っていると思う。でも、それぞれ違う部分はもちろんあるけれど、基本は社会で活動しているあたりまえの人として関わることから始まるだろう。